第31話 聖母の魔導回路
ヴェルデ農園を包み込んでいた平穏な夕闇は
突如として飛来した「死の臭い」によって切り裂かれた。
農園の境界線を警備していた元騎士のリリアーナが
青ざめた顔で執務室へと飛び込んでくる。
その銀の甲冑には、不気味な黒い煤のようなものが付着し
じりじりと音を立てて金属を腐食させていた。
「クロード、大変よ! 王国軍が……いえ、教会が放った『何か』が、森を飲み込みながらこちらに向かってきているわ!」
リリアーナの叫びは、地鳴りのような重低音と重なった。
窓から外を見れば、地平線の彼方から
夜の闇よりもなお深い『漆黒の霧』が津波のように押し寄せていた。
それは教会が禁忌として封印してきた大魔術――
【ガイアの壊死】
触れるものすべてを堆肥にすらならぬ灰に変え
生命を根こそぎ奪い去る、文字通りの終末の術式だ。
「偵察に出した馬たちがその霧に触れた瞬間に骨も残さず朽ち果てたの。あれは魔法なんて生易しいものじゃない、……命そのものを汚染する【呪い】よ! このままじゃ農園が……!」
リリアーナの手が微かに震えている。
数多の戦場を潜り抜けてきた彼女でさえ
この世のものとは思えない冒涜的な力に、本能的な恐怖を抱いていた。
だが、その背後で
椅子に深く腰掛けたままの一人の女性が
不敵な鼻笑いを漏らした。
「ククッ……。騒がしいな、リリアーナ。少しは落ち着いたらどうだ? その程度の『毒霧』で私の覇道が揺らぐとでも思っているのか」
立ち上がったのは、アナスタシアだった。
彼女の纏う空気は、農園の共同経営者という立場を超え
一国を平らげる支配者のそれへと変貌していた。
「アナスタシア、あなた……」
「私は、帝国の皇女、アナスタシア・フォン・ゼーノスだ。私の魂まで屈服させたつもりなら、王国も教会も底知れぬ愚か者だな」
彼女は窓際まで歩み寄り、死を運ぶ霧を正面から見据えた。
その紫の瞳には恐怖など微塵もなく
むしろ強大な敵を叩き潰すことへの愉悦が宿っている。
「私を誰だと思っている。帝国の皇女だぞ。神が与えた『運命』を自らの手でねじ伏せ、新たな理を築こうとする者だ」
アナスタシアは愉悦に満ちた微笑みで俺を見た。
「クロード、お前が用意したあの『仕掛け』……今こそ起動する時だろう? 」
「ああ、今以外の使い所はないだろうな」
「奴らが丹精込めて作り上げた『死のエネルギー』を、すべて奪い取って肥料に変えてやるのだ。私がお前の後ろ盾だ。恐れることはない。教会の連中には、皇女を敵に回した代償をその骨の髄まで教えてやる」
彼女の不敵な言葉が、リリアーナの不安を打ち消し
俺の胸に熱い決意の火を灯した。
俺はセシリアを連れ
農園の中央にある「メイン・リザーバー」――
巨大な地下水槽へと向かった。
「セシリア。君の力が必要だ。君の聖法気を、この水の中に溶け込ませてほしい。君を苦しめてきた教会の呪いを、逆に跳ね返す力に変えるんだ」
「……はい。クロードさんが、……そしてアナスタシアさん達が守ってくれるなら……私、怖くありません!」
セシリアが水槽の制御パネルに手をかざす。
俺はガントに合図を送り
地下に張り巡らされた魔導パイプのバルブを一斉に開放した。
俺が設計したのは、『聖母の魔導回路』だ。
セシリアの聖法気を、水という媒体を通して
農園全体の水耕栽培レーンに循環させる、巨大な防衛システムだ。
「魔力増幅器、接続! 栄養液の循環速度を最大に上げろ!」
パイプの中を流れる液体が、セシリアの純粋な祈りに反応し
黄金色の光を放ちながら脈動し始めた。
それは農園全体に張り巡らされた血管のように
隅々まで『聖なる水』を運び届けていく。
さらに、外に待機させていたガントの重機群に指示を送る。
「レオ、ガント! 全機の噴霧ノズルを開け! 聖なる栄養液を霧状にして大気中に散布するんだ!」
シュゴォォォォッ!!
農園の各所から、黄金の霧が猛烈な勢いで噴射された。
それは空中で絡み合い
巨大な光のドーム――
『空中魔導障壁』を形成し
漆黒の霧を迎え撃った。
激突の瞬間、耳を刺すような高周波の音が響き
光と闇が火花を散らした。
しかし、結果は一瞬で出た。
教会の放った【ガイアの壊死】は
セシリアの純粋な『聖法気』に触れた瞬間
その【死の属性】を剥ぎ取られ
ただの濃密な魔力資源へと還元されていったのだ。
還元された魔力は、水耕栽培のシステムを通じて植物たちに吸収され
農園内の野菜たちは目に見えて瑞々しく
そして巨大に成長し始めた。
「ククッ……ハハハハ!見ろ、リリアーナ。奴らの絶望が、俺たちのトマトを赤く染めているぞ! 傑作だな、教会の最高秘術が、たかが肥料に成り下がるとは!」
アナスタシアはガウロスの装甲の上に立ち
押し寄せる黒い霧を嘲笑いながら見下ろしていた。
その姿は、荒れ狂う嵐を支配する戦女神のようでもあった。
「これこそが私の求めた光景だ。古い教義に縛られた無能どもを、新たな技術と力で踏み潰す。クロード、お前を選んだ私の目に狂いはなかったようだな」
霧の向こう側では
自慢の秘術が「ただの肥料」に変わったことに絶望し
王国軍と教会の神官たちがパニックに陥っているのが見えた。
黄金の光に包まれたヴェルデ農園は
もはや一つの小国に匹敵する「聖域」へと昇華していた。
「……私、嬉しい。私の力が、みんなの役に立ってる……!」
セシリアは光の中で微笑み
リリアーナはその圧倒的な光景にようやく安堵の吐息を漏らした。
だが、俺は知っていた。
この程度の失敗で、教会が引き下がるはずがない。
「レオ、ガント! 混乱している敵軍を掃討するぞ。ガウロス、発進!畑を荒らした無礼者たちに、農具の恐ろしさを叩き込んでやれ!」
黄金の霧の中から、十台の魔導重機が咆哮を上げ
絶望に震える敵軍へと向かって進撃を開始した。
農園の収穫祭は、まだ始まったばかりだ。




