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『恋の便利屋は、今日も依頼で恋をする。』  作者: 春野ケイ


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5/20

第5話 犬より手強い依頼人。

──────────────

Today's Heroine


天野 ひまり


CLIENT DATA


年齢:21歳


身長:156cm


職業:動物看護学生


雰囲気

・元気

・少し負けず嫌い

・犬には優しい

・人見知り


外見

・栗色のポニーテール

・デニムのオーバーオール

・スニーカー姿


主人公への第一印象

★★☆☆☆


恋愛タイプ

素直になれない


依頼内容

『逃げた犬を探してください。』


秘密

『犬より、人との付き合いが苦手。』


ドキドキ度

★★★★☆

──────────────


 午前十時。


 神崎湊は住宅街にある小さな公園の入口で立ち止まった。


 今日の依頼は、逃げた犬探し。


 便利屋としては珍しくない依頼だが、依頼文の最後に書かれていた一文だけが気になっていた。


『でも、男の人には絶対になつきません。』


「……最初からハードルが高そうだな。」


 苦笑しながらスマホをしまうと、元気な声が飛んできた。


「神崎さんですか!」


 振り向くと、一人の女性が小走りで近づいてくる。


 栗色のポニーテールを揺らし、デニムのオーバーオールに白いスニーカー。


 どこか活発そうな印象だが、その表情は少しだけ不安そうだった。


「天野ひまりです。今日はよろしくお願いします。」


「神崎です。よろしくお願いします。」


 二人は軽く頭を下げ合う。


 すると、ひまりは開口一番、申し訳なさそうに笑った。


「先に謝っておきます。」


「え?」


「たぶん神崎さん、こむぎに嫌われます。」


「……まだ会ってないですよね?」


「でも、多分です。」


 迷いのない返事だった。


「女の人ならすぐ近寄るんです。でも男の人を見ると、すぐ逃げちゃって。」


「なるほど。」


「だから、あんまり期待しないでください。」


 湊は小さく肩を落とした。


「依頼が始まる前に戦力外通告されたのは初めてです。」


 一瞬きょとんとしていたひまりは、思わず吹き出す。


「ふふっ。」


「笑いましたね。」


「すみません。でも、そんな返しをされると思わなくて。」


 緊張していた表情が、少しだけやわらいだ。


「じゃあ、まずは詳しく聞かせてください。」


「はい。」


 ひまりはスマホを取り出し、一枚の写真を見せる。


 茶色い毛並みの豆柴。


 丸い黒い瞳と、赤い首輪がよく似合っていた。


「名前は、こむぎです。」


「かわいいですね。」


「昨日の夕方、散歩中に工事現場の大きな音がして……。」


 ひまりの笑顔が曇る。


「びっくりして走り出しちゃったんです。私も必死だったんですけど、リードを離しちゃって……。」


「それから見つかっていないんですね。」


「はい。昨日の夜も、朝も探したんです。でも全然見つからなくて。」


 その声には、自分を責める気持ちがにじんでいた。


 湊は写真をもう一度見つめ、小さく頷く。


「一緒に探しましょう。」


 その一言に、ひまりは少しだけ目を丸くし、それからほっとしたように笑った。


「……ありがとうございます。」


     ◇


 二人は最後に目撃されたという公園の奥へ向かった。


 植え込みのそばまで来た、その時だった。


「あっ!」


 ひまりが声を上げる。


 視線の先には、小さな茶色い背中。


「こむぎ!」


 名前を呼ぶと、豆柴がぴくりと耳を動かし、こちらを振り向いた。


「いた!」


 ひまりは嬉しそうに一歩踏み出す。


 こむぎも少しだけ近寄ろうとした。


 その後ろから湊が静かに歩み寄る。


 すると。


 こむぎの表情が一変した。


「ワンッ!」


 くるりと向きを変え、全力で走り出す。


「あっ、こむぎ!」


「待って!」


 二人も慌てて追いかける。


 ようやく追いつくと、こむぎは少し離れた場所でこちらを見ていた。


「こむぎ、おいで。」


 ひまりが優しく手を伸ばく。


 こむぎは一歩、また一歩と近づいてくる。


「よかった……。」


 湊も安心して一歩前へ出た。


 その瞬間。


 ダッ!


 こむぎは再び全力で逃げ出した。


「…………。」


「…………。」


 静かな沈黙が流れる。


 ひまりは申し訳なさそうに苦笑した。


「だから言ったじゃないですか。」


 湊は遠ざかるこむぎの背中を見送りながら、小さくため息をつく。


「……ここまで見事に避けられると、逆にちょっと感心します。」


 ひまりは吹き出しそうになるのをこらえながら、小さく肩をすくめた。


「ごめんなさい。」


「ひまりさんが謝ることじゃないですよ。」


「でも、神崎さんだけ逃げられてますし……。」


「否定できないですね。」


 二人は苦笑いを交わす。


 さっきまで張りつめていた空気が、少しだけ和らいだ。


 そのときだった。


「あっ!」


 こむぎが住宅街の方へ走り出す。


「待って!」


 二人は同時に駆け出した。


 こむぎは細い路地を器用に曲がり、植え込みの脇をすり抜け、小さな空き地へ飛び込む。


 その奥には、低い金網フェンスがあった。


 こむぎは体をひねるようにして、フェンスの下の隙間をすり抜けてしまう。


「そんなところ通れるの!?」


 ひまりは慌ててフェンスへ駆け寄った。


「こむぎ!」


 あと少し。


 そう思って足を掛けた、その瞬間だった。


「きゃっ!」


 ガサッ。


「あ……。」


 オーバーオールの肩紐が、金網の一部へ引っ掛かってしまった。


 前へも後ろへも動けない。


「だ、大丈夫ですか?」


 湊が慌てて駆け寄る。


「すみません……引っ掛かっちゃいました。」


 ひまりは恥ずかしそうに笑うが、どう動いても外れない。


「無理に動かないでください。」


「はい……。」


 湊はフェンスを確認すると、小さく息をついた。


「失礼します。」


 そう声を掛け、視線をできるだけ逸らしながら肩紐をそっと持ち上げる。


 金網の針金が少し曲がっていて、布地が絡んでいた。


「もう少しです。」


「は、はい……。」


 二人の距離は自然と近くなる。


 ひまりは動けないまま、どこか落ち着かない様子で視線を泳がせた。


 湊の指先が布地を傷つけないよう慎重に動く。


 その真剣な横顔が、思ったより近かった。


 どくん。


 胸が小さく鳴る。


「……。」


「……。」


 不思議な沈黙が流れる。


 風が吹き、ひまりの前髪がふわりと揺れた。


「あ、外れました。」


 ぱちん、と肩紐が元の位置へ戻る。


「ありがとうございました……。」


 ひまりは耳まで赤くしながら、小さく頭を下げた。


「服、破れなくてよかったです。」


「本当に。」


 二人は顔を見合わせ、ほっと笑った。


 その笑い声に反応したのか。


 少し離れた場所で様子をうかがっていたこむぎが、小さく首をかしげる。


「あっ、こむぎ!」


 ひまりが声を上げる。


 しかし、湊の姿を見た瞬間。


「ワンッ!」


 くるりと向きを変え、また走り出してしまった。


「あーっ!」


「またですか……。」


 湊が苦笑すると、ひまりはとうとう笑いをこらえきれなかった。


「ふふっ、ごめんなさい!」


「今日は犬より、僕の心が逃げそうです。」


 その一言に、ひまりはお腹を押さえながら笑う。


 笑い声が住宅街に響く。


 依頼はまだ始まったばかりなのに、不思議と二人の距離は少しだけ近づいていた。


     ◇


 二人は少し呼吸を整えると、こむぎが走っていった方向へ歩き始めた。


「こんなに逃げるの、初めて見ましたか?」


 湊が尋ねる。


 ひまりは首を横に振った。


「いえ……。」


「小さい頃からなんです。」


「小さい頃?」


「まだ子犬だった頃、公園で知らない男の人に急に抱き上げられたことがあって。」


 ひまりは遠くを見るように目を細めた。


「悪気はなかったと思うんです。でも、こむぎはすごく怖かったみたいで。」


「それ以来、男の人が苦手に。」


「はい。」


 少し寂しそうに笑う。


「だから今日も、神崎さんにお願いしておいて失礼なんですけど……。」


「気にしないでください。」


 湊は穏やかに笑った。


「怖いものは、無理に克服しなくていいと思います。」


 その言葉に、ひまりは少し驚いたような表情を見せる。


「え?」


「追いかけられると、もっと怖くなりますから。」


 湊は公園のベンチを見つめながら続けた。


「人も犬も、安心できるって思えたら、自分から近づいてきます。」


 ひまりはその横顔を見つめ、小さく微笑んだ。


「神崎さんって……。」


「はい?」


「便利屋さんというより、先生みたいです。」


 湊は照れくさそうに頭をかく。


「そんな立派なものじゃないですよ。」


「でも、ちょっと安心しました。」


 そのときだった。


「あっ!」


 十メートルほど先の植え込みの陰から、茶色い尻尾がぴょこんと見えた。


「こむぎ!」


 ひまりが思わず声を上げる。


 こむぎはびくっと体を震わせたものの、今度は逃げなかった。


「神崎さん。」


 ひまりが小さな声で呼ぶ。


「はい。」


「ゆっくり行きましょう。」


 湊は静かにうなずいた。


 二人は音を立てないようにしゃがみ込み、植え込みの陰へ身を寄せる。


 犬を驚かせないため、自然と肩と肩の距離が近くなった。


「あ……。」


 ひまりが小さく声を漏らす。


 振り向くと、思っていたより顔が近い。


 あと少し前へ動けば、お互いの額が触れてしまいそうな距離だった。


「……すみません。」


 湊が少しだけ体を引こうとする。


「だ、大丈夫です。」


 ひまりも慌てて答える。


 けれど、大きく動けばこむぎが逃げてしまう。


 二人はそのまま息を潜めた。


 聞こえるのは、風に揺れる葉の音と、お互いの小さな呼吸だけ。


 ひまりは少しだけ頬を赤くしながら、小さく笑った。


「近いですね。」


「……ですね。」


 湊も苦笑するしかなかった。


 その様子を見ていたこむぎは、不思議そうに首をかしげると、警戒するように一歩だけ前へ踏み出した。


 湊はポケットから、小さな犬用のおやつを取り出した。


「持ってきてたんですか?」


 ひまりが小声で尋ねる。


「念のためです。」


 湊は包装を静かに開き、一粒だけ手のひらへ乗せた。


「無理には呼びません。」


「え?」


「こむぎが来たいと思ったら、来てもらいましょう。」


 そう言うと、その場へしゃがみ込んだまま手を差し出す。


 呼びもしない。


 近づきもしない。


 ただ、待つ。


 こむぎは警戒したまま立ち止まっていた。


 一歩。


 また一歩。


 少しずつ距離を縮めていく。


 その様子を、ひまりは固唾をのんで見守った。


「……すごい。」


 思わず声が漏れる。


 湊は何も答えない。


 犬の目だけを優しく見つめ続ける。


 あと一歩。


 あと少し。


 こむぎは鼻をひくひくと動かし、湊の手へ顔を近づけた。


 しかし。


 その瞬間、近くを自転車が通り過ぎる。


 ベルの音が鳴り響いた。


 チリンッ。


 こむぎの耳がぴくりと動く。


「……!」


 また逃げる。


 そう思った。


 だが、こむぎは一瞬だけ身をすくませたあと、小さく湊の手をくんくんと嗅いだ。


 そして。


 ぱくっ。


 おやつをくわえる。


「……。」


「……。」


 ひまりは目を丸くしたまま固まっていた。


 こむぎは少し離れた場所まで歩いていき、おやつを夢中で食べ始める。


「食べた……。」


 ひまりは信じられないというように呟く。


「男の人の手から、おやつ食べたの……初めてです。」


 湊は照れくさそうに笑った。


「僕じゃなくて、おやつのおかげですよ。」


「違います。」


 ひまりはゆっくり首を横に振る。


「こむぎ、怖い人からは絶対にもらいません。」


 その言葉に、湊は少し困ったように笑う。


「合格、ってことですか。」


「たぶん。」


 ひまりも笑った。


「かなり時間はかかりましたけど。」


 二人で笑い合った、そのとき。


 こむぎが小さく尻尾を振りながら戻ってきた。


「あっ。」


 ひまりがしゃがみ込む。


「こむぎ。」


 優しく頭を撫でると、こむぎは甘えるように体を寄せた。


「心配したんだから。」


 その声は、少し震えていた。


「ごめんね。」


 抱きしめた腕に、こむぎも安心したように体を預ける。


 その様子を見守っていた湊は、小さく息をついた。


「見つかってよかったですね。」


 ひまりは何度も頷く。


「はい……本当に。」


 目尻には、小さく涙が浮かんでいた。


     ◇


 帰り道。


 こむぎは安心したように、ひまりの足元を軽やかに歩いていた。


 さっきまで必死に探していたのが嘘のようだった。


「今日は本当にありがとうございました。」


 ひまりはリードを握りながら、何度も頭を下げる。


「一人だったら、まだ探し回っていたと思います。」


「こむぎも無事でしたし、依頼成功ですね。」


「はい。」


 ひまりはそう答えたあと、小さく笑った。


「でも、一番びっくりしたのは。」


「なんでしょう。」


「こむぎが神崎さんからおやつを食べたことです。」


「まだ信じられませんか?」


「はい。」


 ひまりはこむぎへ目を向ける。


「家族以外の男の人には、絶対近づかなかったんです。」


 少しだけ歩く速度を落とす。


「だから私、人にも犬にも『無理に近づかなくていい』って思うようになってました。」


 その声は穏やかだった。


「でも今日見てたら……。」


 ひまりは照れくさそうに笑う。


「神崎さん、こむぎを捕まえようとしませんでしたよね。」


「はい。」


「待ってくれました。」


 その言葉に、湊は少しだけ空を見上げる。


「怖がっている相手を追いかけても、もっと怖くなるだけですから。」


 ひまりは静かに頷く。


「その言葉、多分……私にも当てはまります。」


「え?」


「私、人付き合いが得意じゃないんです。」


 少し照れながら続ける。


「だから距離を詰められると、つい身構えちゃって。」


 こむぎが男の人を苦手になった理由と、どこか重なって聞こえた。


「でも今日は、不思議でした。」


「不思議?」


「神崎さんとは、最初からあまり緊張しなかったんです。」


 ひまりは少し考えるように笑う。


「ちゃんと待ってくれる人だから、かな。」


 その言葉に、湊は少し照れくさそうに笑った。


「便利屋ですから。」


「また、その返し。」


 ひまりはくすっと笑う。


「でも、好きですよ。」


「……え?」


「その考え方。」


 一瞬だけ目が合う。


 ひまりは自分で言った言葉に気づいたのか、耳まで赤くなった。


「あっ、ち、違います!」


「考え方がって意味で!」


「わ、分かってます。」


 湊も思わず苦笑する。


 二人で顔を見合わせると、自然と笑いが込み上げてきた。


 その笑い声につられるように、こむぎも「ワン」と一度だけ鳴いた。


     ◇


 公園の入口まで戻る。


 ひまりは報酬の入った封筒を両手で差し出した。


「こちら、今回の報酬です。」


「ありがとうございます。」


 湊は受け取り、軽く頭を下げる。


「それと……。」


 ひまりは少しだけ迷ってから笑った。


「また困ったら、お願いしてもいいですか?」


「もちろんです。」


「便利屋みなとは僕一人なので。」


 一瞬きょとんとしたひまりは、嬉しそうに笑う。


「じゃあ安心ですね。」


 その笑顔は、朝の不安そうな表情とはまるで違っていた。


 こむぎも一度だけ湊の足元まで歩いてくる。


「おっ。」


 湊がしゃがむと、こむぎは少しだけ尻尾を振った。


 今度は逃げない。


 ほんの一瞬だけ鼻先を近づけると、満足したようにひまりの隣へ戻っていく。


「神崎さん。」


「はい。」


「今日は、私だけじゃなくて……こむぎも助けてもらいました。」


 ひまりは優しく笑った。


「本当にありがとうございました。」


「こちらこそ、ご依頼ありがとうございました。」


 二人は笑顔で頭を下げ合う。


 夕暮れの住宅街を、ひまりとこむぎが並んで歩いていく。


 その背中を見送りながら、湊のスマホが震えた。


『便利屋みなと 新しい依頼が届きました。』


 画面を開く。


『一日だけ、お兄ちゃんになってください。』


「……お兄ちゃん?」


 湊は思わず首をかしげる。


 便利屋を始めて一年。


 恋人役も、撮影の手伝いも、犬探しも経験した。


 だが、お兄ちゃん役は初めてだった。


次回『今日だけ、お兄ちゃん。』

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