姫様は手を下さない
隣の領へ向かう道中――
馬車の中で、レシティアは静かに外を眺めていた。
揺れる景色。風に揺れる草原。遠くに見える森。
そして、その先にある“気配”。
(……強いわね)
目を閉じる。
空気に混ざる、わずかな違和感。
魔力の濁り。歪み。淀み。
先ほどの村で出た魔物とは、明らかに質が違う。
(単なる群れじゃない。あれは……統率されている)
つまり、指揮する存在がいる。
変異種どころではない。
おそらくは――
「姫様」
外から声がかかる。
思考を止め、視線を向ける。
「目的地まで、あと少しです」
「そう。ありがとう」
穏やかに返す。
騎士は一礼し、すぐに持ち場へ戻る。
その背中を見送りながら、姫は小さく息を吐いた。
(……もう、気づいているわね)
おそらく全員。
すでに状況は把握済み。
対処法も決まっている。
あとは、姫の一言を待つだけ。
(本当に、優秀すぎるのよね……)
わずかに口元が緩む。
けれど同時に――
(……今回は、少しだけでも)
その想いを、胸の奥で握る。
馬車が止まった。
外に出ると、空気が違っていた。
重い。
村の入り口に立った瞬間、それがはっきりとわかる。
人の気配はある。だが、静かすぎる。
息を潜めている。
怯えている。
「……異様ね」
姫がそう呟いた、その瞬間。
地面が――揺れた。
ドン、と鈍い衝撃。
土が跳ね、空気が震える。
「来ます」
騎士の一人が短く告げる。
次の瞬間、森の奥からそれは現れた。
巨大な影。
人の背丈を軽く超える、黒く歪んだ魔物。
通常の個体よりも明らかに大きく、そして――異様に整った動きをしている。
ただの獣ではない。
「……やっぱり」
姫は一歩前に出る。
その動きに、騎士たちがわずかに反応する。
だが止めない。
止める必要がないと知っているから。
魔物が咆哮を上げる。
地面が割れ、空気が震える。
普通の人間なら、その場で足がすくむ。
だが姫は――
「下がっていて」
静かにそう言った。
次の瞬間。
姫の姿が、消えた。
風が一閃する。
目にも留まらぬ速さで距離を詰め、魔物の懐へと潜り込む。
そして。
一撃。
鈍く、しかし正確な音が響いた。
魔物の動きが止まる。
遅れて、その巨体が崩れ落ちた。
一瞬だった。
あまりにも、あっけない。
土煙が舞い、静寂が戻る。
姫は何事もなかったかのように立ち上がり、軽く手を払う。
(……うん、問題ないわね)
内心で確認する。
体の動きも、感覚も鈍っていない。
むしろ、少しだけすっきりした気分だった。
(たまには、こういうのも悪くないわね)
振り返る。
騎士たちが、静かに立っている。
その視線が、わずかに変わっていた。
驚きではない。
評価でもない。
ただ――
「……さすがです」
一人が、そう呟いた。
姫は首をかしげる。
「何が?」
「いえ」
それ以上は言わない。
ただ、ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
そのとき。
背後から、震える声が響いた。
「ひ、姫様……?」
村人たちだった。
物陰から、おそるおそる顔を出している。
今の光景を――見ていたのかどうか。
姫は一歩近づき、やさしく微笑む。
「もう大丈夫です」
その言葉に、張り詰めていた空気が一気に崩れた。
「た、助かった……!」
「姫様が……姫様が……!」
「一瞬で……あの怪物を……!」
ざわめきが広がる。
だが、その内容は。
「やはり姫様は、手を下さずとも魔物を退ける……!」
「見えたか!? あの一瞬、魔物が勝手に崩れたんだ!」
「姫様の“気配”だけで、あの化け物が……!」
姫は、固まった。
(……え?)
視線が、自然と騎士たちへ向く。
彼らは何も言わない。
ただ、静かに目を逸らした。
(……今、普通に斬ったわよね?)
誰にも見えていなかった。
速すぎて。
あるいは、信じられなかったのか。
どちらにせよ――
「姫様の御力だ……!」
「なんという……なんという御方だ……!」
完全に、そういうことになっていた。
姫は、ほんのわずかに視線を泳がせ――
そして、いつものように微笑む。
「……いいえ。皆さんが無事で何よりです」
否定はしない。
できない。
しても、どうせ信じられない。
(……もう、いいわ)
小さく諦める。
その背後で、騎士たちが静かに動き始めていた。
すでに次の脅威の調査に入っている。
魔物は一体ではない。
むしろ、今のは“前座”にすぎない。
「姫様」
一人が、静かに告げる。
「奥に、さらに強い反応があります」
やはり。
予想通り。
姫はゆっくりと息を吸い――
目を細めた。
(……今度は、もう少しだけ早く動こうかしら)
そう思った瞬間。
「姫様が向かわれるぞ!」
「これで終わりだ……!」
背後で、歓声が上がる。
完全な信頼。
完全な誤解。
姫は、ほんの少しだけ苦笑して――
それでも前を向く。
「行きましょう」
その一言で、すべてが動き出す。
騎士たちが影のように続く。
そしてまた。
姫様の伝説が、少しだけ“盛られて”積み上がっていく。
(……次こそは、本当にちゃんと戦いたいのだけど)
その願いは、やっぱり誰にも届かない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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姫様も、たぶん紅茶片手に「ありがとうございますわ♪」と微笑んでくれるはずです。
それでは、次の物語でまたお会いしましょう。
姫様、御覚悟を──




