姫様が来た日
「姫様がいらっしゃるぞ!」
その一言で、村の空気が一変した。
荒れていた畑も、崩れかけていた柵も、すべてが一瞬で整えられたかのように見えるほど、人々は慌ただしく動き始める。泣いていた子どもは抱き上げられ、武器を手にしていた男たちは頭を下げる準備をする。
この村は、ここ数日で魔物の被害を受けていた。
夜になると現れる黒い影。家畜を喰らい、畑を踏み荒らし、人をさらう。討伐隊を出す余裕もない小さな村にとって、それはただの“災厄”だった。
だが今日、その災厄は終わる。
なぜなら――姫様が来るからだ。
やがて、土煙を上げながら一台の馬車がゆっくりと姿を現した。護衛の騎士たちが周囲を固め、無駄のない動きで周辺を警戒している。その立ち姿ひとつとっても、ただ者ではないことは明らかだった。
そして、馬車の扉が静かに開く。
現れたのは、紫を基調とした衣装を纏った一人の女性。柔らかな光をまとったかのような佇まいに、村人たちは思わず息を呑んだ。
レシティア・パープル――王国第三姫。
彼女はゆっくりと地面に足を下ろし、穏やかな笑みを浮かべて村を見渡す。
「……ここが、被害のあった村ね」
その声は静かで、それでいて不思議とよく通る。
それだけで、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
「姫様……どうか、どうかお救いください……!」
村長が地面に額をつけるようにして懇願する。他の村人たちも次々と頭を下げ、まるで奇跡を願うかのように彼女を見つめた。
姫は一瞬だけ視線を落とし、それからやさしく微笑む。
「顔を上げてください。大丈夫です」
たったそれだけの言葉だった。
それなのに――なぜだろうか。
誰もが、もう助かったと確信していた。
背後では、騎士たちがすでに動いている。
一人は村の外縁を歩き、足跡を確認している。しゃがみ込み、土を触り、ほんのわずかな痕跡から魔物の数と進行方向を読み取っていた。
一人は村人たちに話を聞き、被害の時間帯、出現位置、被害内容を正確に整理していく。その手際は、まるで事前にすべてを知っていたかのように滑らかだった。
一人は無言で空を見上げ、風の流れと魔力の揺らぎを感じ取っている。目を閉じたその瞬間、周囲の空気がわずかに張り詰めた。
そしてもう一人は、何もしていないように見えて――すでに村の外へと姿を消していた。
誰も、その動きに気づいていない。
姫はその様子をちらりとだけ見て、そっと視線を戻す。
(……やっぱり、早いわね)
内心で小さくため息をつく。
(まだ何もしていないのだけど)
「姫様、あちらが被害のあった場所です」
案内された先には、荒れた畑と壊された柵があった。土は深く抉られ、明らかに普通の獣ではない力が働いている。
姫はその跡を見つめ、静かにしゃがみ込む。
指先で土に触れる。
(重い……この感触、単体じゃない。複数。しかも、連携して動いてる)
一瞬でそこまで読み取る。
ただし――その分析を口にする前に。
「確認しました。群れです。数はおよそ五。うち一体は変異種」
背後から、簡潔な報告が入った。
姫はゆっくりと振り返る。
そこには、すでにすべてを把握した顔の騎士が立っていた。
(……ええ、そうね。私も今そう思ったところよ)
口には出さない。
「討伐は?」
「準備は整っています」
別の騎士が答える。言葉の意味は簡単だ。
すでに終わらせられる、ということだ。
姫は一瞬だけ目を細める。
(……本当に、頼もしいわね)
そして、ゆっくりと立ち上がり、村の外へと視線を向けた。
「では――お願いするわ」
その一言で、空気が変わった。
騎士たちは同時に動く。
音もなく、無駄もなく、迷いもなく。
一人が先行し、森の奥へと消える。次の瞬間、遠くで鈍い衝撃音が響いた。地面がわずかに揺れる。
続いて、閃光。
風が巻き上がり、何かが叩き伏せられる音がする。
数秒。
それだけだった。
やがて、静寂が戻る。
森の奥から、ゆっくりと騎士たちが戻ってきた。その姿に乱れはなく、まるで散歩でもしてきたかのような落ち着きだった。
「排除完了。被害はありません」
「周辺の魔力反応も消失。再発の可能性は低いでしょう」
「残存個体なし。安全です」
淡々とした報告。
それを聞いた村人たちは、息を呑み――次の瞬間、歓声を上げた。
「す、すごい……!」
「姫様が……姫様が来てくださったからだ……!」
「一瞬で……あの魔物を……!」
誰も、騎士たちを見ていなかった。
いや、見えていなかった。
彼らの働きは、あまりにも自然で、あまりにも完璧すぎて――“結果”しか残らないのだ。
そして、その結果はすべて。
「姫様のお力だ……!」
そう結論づけられる。
姫は、その声を聞きながら、少しだけ困ったように微笑んだ。
(……いえ、違うのだけど)
けれど、それを否定することはしない。
代わりに、静かに一歩前へ出る。
「もう安心です。この村は守られました」
その言葉に、誰もが涙を流した。
騎士たちは後ろで静かに控えている。
当然のことをしただけだという顔で。
そして姫は、空を見上げる。
(……次は、もう少しだけでも、私も動けるといいのだけど)
そう思ったその瞬間。
「姫様!」
別の村人が駆け寄ってくる。
「隣の領でも、同じような被害が……! しかも今度は、もっと大きな……!」
騎士たちの視線が、同時に姫へと向けられる。
静かな圧。
信頼と覚悟の混じった視線。
姫は一瞬だけ目を閉じて――
そして、微笑んだ。
「……そう。なら、行きましょうか」
その言葉だけで、すべてが動き出す。
誰もが確信する。
この姫がいる限り、災厄は終わるのだと。
――そしてまたひとつ。
姫様の伝説が、静かに積み上がっていく。
(……本当に、何もしていないのだけど)
その本音は、誰にも届かないまま。
物語は、ここから始まる。
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姫様も、たぶん紅茶片手に「ありがとうございますわ♪」と微笑んでくれるはずです。
それでは、次の物語でまたお会いしましょう。
姫様、御覚悟を──




