四話【ビートルの中で】
「僕の名前は、セオと言います」
セオは、発した自分の名前をかみしめた。彼は「セオ」という、軽く抜けるような自分の名前が好きだった。
彼は昔、両親に聞いたことがある。なぜ自分にセオという名前を付けたのか。
彼の親戚は姓名判断から、運気に恵まれた名前を付けるべきだと提案した。しかし両親は「そんなマニュアルに従った命名なんて、したくない」と反対した。
セオの故郷も回遊国だった。回遊国は風の恩恵を享受することで活動していると言っても過言ではない。
そういう背景もあって彼の両親は「この風のように、大空を駆け抜ける大きな男になってほしい」という思いを込めて、風を感じられそうな名前に決めたらしい。
まだ小さい頃、一度親に「ぼくはセオって名前好きだよ。なんだか風が流れるみたいで」と言ったことがあるらしい。すると親は、「私たちの想いが伝わっていて良かった」と笑顔になったという。
いつの間にか、目に涙がにじんでいた。
今の自分に残されたものは、両親からもらった「セオ」の名前と、この体一つしかないと改めて気づかされた。突如足元に穴が開いて、自分一人がこの国から落下するように錯覚して、膝から崩れそうになった。
「おいおいどうした? とって食やしないって。それともあれか、やっぱりお別れが辛いか」
遠く離れていく意識を、ロットンの声が引き上げてくれた。
この男の声はずけずけと人の心に入ってくるが、今はそれが頼もしくも感じた。
自分の脚がしっかりと地面についていることを確かめ、しっかりと地面を踏みしめる。
「……すみませんでした。僕はもう、大丈夫です」
「まあ、なんだ。ほら……」
ロットンはこめかみをカリカリと掻き、似合わない照れくさそうな仕草をした。おやと思い、その様子に引き付けられる。
「俺はお前より年上で、これから一緒に住む。知らない国だから、お前もいろいろ戸惑うこともあるだろう。だからさ……」
ロットンは顔をズイッと近づけて言い放った。
「今日から俺が、お前の兄貴だ! 頼りたいときは頼れ! 頼りたくなくても、困ったら何かしら言え! 遠慮はいらねぇからよォ!」
ガッ! と肩に手をかけ、ニッと笑いかけた。大きく横に開いた口からは綺麗な歯並びが覗き、目は自信に満ち溢れていた。
知らず、セオは彼に心ひかれ始めていた。
自分とは真逆のような人間性。人は自分の持っていないものを持っている人に惹かれるというが、ロットンもまたそういう相手なのかもしれない。
つられてセオも、いつのまにか口に笑みを浮かべていた。
「なんだ」
ロットンが安堵するような声を出した。
「お前も、ちゃんと笑えるんじゃないか」
セオとロットンはビートルに乗り込んだ。
外見こそコガネムシのような冷たい昆虫を思い起こさせるが、内部の熱気とエンジンの振動は猛る牛の体内を想起させた。
かなり年季が入っているのか、シートはつぎはぎだらけだし、ガラスは一部ヒビも入っている。しかし隅々まで手入れされているようで、古さは感じるが不潔さは感じない。大事に使われている証拠である。
助手席から後部座席を見ると、山のような食料が積み込まれていた。五人家族だったら、すべて消費するのに十日はかかりそうな量だ。野菜の青臭さや果物の爽やかな香りが生命力を感じさせる。
「よっし、シートベルトは締めたな? そんじゃあ行くぞォ」
シフトレバーをカカカッと軽快に鳴らし、ビートルはゆっくりと発進した。
二週間ほどではあったが、この国に来て初めてお世話になった病院を去るのは寂しいものもあった。少しずつ小さくなっていくその姿に、小さく会釈をした。
整然と並ぶ石畳の上を、ビートルは軽快に走って行った。
ビートルの普及に合わせてアスファルトも整備が進んでいる風潮だが、風情のある石畳はまだまだ市民権を得ている。道に並ぶ建築物はレンガの赤茶色と漆喰の柔らかい白を基調としており、がっちりしていながらやさしさも同時に感じる。
道路にはビートルだけでなく馬車も走っており、道端の歩行者を見下ろしながら優雅に歩みを進めている。
猛スピードで迎えに来た時とは正反対に、ロットンは穏やかにビートルを走らせていた。不思議に思って運転席のロットンを見ると「ああ、心配するなよ。石畳で怪我人を乗せてるときくらい、静かに走るさ」と事もなく言った。
目を合わせただけなのに、彼はセオの疑問を読み取った。野性の勘なのか、ロットンにはほかの人間には無い魅力……のようなものを、セオも感じ始めていた。
流れていく街並みをぼんやり眺めている間に、いつの間にか石畳は土が固まっただけの道に代わり、建物よりも田畑が土地を埋め始めた。高く上がった太陽が、その光を草木たちに存分に浴びせかける。
開け放した窓から、車内にひんやりとした風が吹き込む。
気分を良くしたロットンは口笛を吹き始めた。綺麗なメロディというわけではないが、逆にそれが彼の自由な性格を如実に奏でている。
つられてセオも口笛をちょっとだけ吹くと、それに気づいたロットンは満足げに笑いかけて、一層テンポを上げて高らかに口笛を鳴らした。
ちょうど横を通り過ぎた鶏舎から、口笛に合わせるようにニワトリたちが「コケコッコー!」と声を合わせた。目を丸くしたセオとロットンは顔を見合わせ、笑った。
「ところで、ロットンさんの家って」
「ああ、ロットンでいいよ。それと、敬語もいらないぞ」
家族なんだからよ、と。
その言葉は嬉しかったが、まだ出会って間もない間柄なので、気恥ずかしさはあった。
しかしその親近感に背中を押され、ありがたく受け入れることにした。
「じゃあ……ロットン。ロットンの家ってどんなところです……なの?」
「おっと、ちゃんと説明してなかったかな。まあ、孤児院だよ。国から依頼されたとこでさ」
やはりそうかとセオは思った。彼の国にもそういった施設はあり、今の自分のように身寄りのない人が入ることも度々あった。
「俺の親は子供大好きでさ、募集がかかった時もすぐ食いついたんだよなぁ。親父なんかは、素直でいい子も育ててみたかったって言いやがる」
おいおい、目の前に素直でいい子がいるじゃないですかと言ったら無視されたのだとか。残念ながらセオの目の前にも、素直でいい子は見当たらない。
「……なんか失礼なこと考えてないか?」
「えっ? いや、そんなことはないよ」
「ふん。まあそういうわけだからさ、ガキ共がちょっと騒がしいかもしれないけれど我慢してくれよ」
「たぶん大丈夫だよ。おかげさまで、だんだん騒がしいのに慣れてきたからさ」
「そうかそうか、それは良かったな。ここで叩き落としてやろうか」




