三話【この国】
「まず、この国の名前は『シュヴァルベ』っていうの。その中でも区画が分かれていて、この区は『キルシュバオム』っていうのよ」
ちなみに定置国じゃなくて回遊国ね、と補足をしてくれる。
回遊国とは、文字通りこの世界を巡り回る国のことである。定置国はその逆で、地に根を下ろした動かない国である。
この世界には『浮遊石』と呼ばれる鉱石が存在する。酸素と結びつくことで活性化し、名前の通り浮遊する性質を持っている。
回遊国とは簡単に言えば、その内部に膨大な浮遊石を擁する国なのである。どの回遊国もその浮遊石を制御する技術を持っており、例えば山を越える時には出力を上げるなど調整ができる。
もちろん、浮くだけでは移動はできない。移動のためには『帯風』に乗る必要がある。
帯風とはこの世界を帯のように一周する気流であり、それぞれの回遊国は決まった帯風に乗って世界を回っている。それぞれ流れるコースが異なっており、属する帯風ごとに気候や文化に特色を持っている。
「シュヴァルベはグリーンベルトに属する国なの。だから温暖な気候で過ごしやすいのよ」
グリーンベルトといえば……と彼は記憶を引っ張り出した。
「たしか、低緯度から中緯度を蛇行する帯風でしたよね? 数ある帯風の中でも、過ごしやすいとよく言われている気がします」
「ご名答! ラッキーだったわね、あなた。何があったのか知りませんけれど、この国はとても恵まれていますから」
何があったのかと聞いた瞬間、彼の心の中で暗いモノが蠢いた。新しい出会いで柔らかく、温かくなった彼の心に骨をめり込ませた。「お前にその資格があるのか? 本当にこの国で生きていくのか?」と詰問する。
知らず、体が震えていた。暖かいその部屋で、その震えは明らかに不自然なものだった。
「あっ、どうされました? 少し冷えましたか?」
「……ああっ、いえ! いや……確かに少し、今日は風が冷たいかもしれませんね……」
エルナが傍にあった毛布を掛けてくれる。それで少し、震えが和らいだ。体が温められたからではない。彼女の気遣いに、心が安らいだためだった。
「患者さんなんですから、お体を大事にしないといけませんね」
「ええ、そうですね」
「そういえば、いつごろ退院されるんですか?」
「今週末には。どなたか知らないんですが、面倒を見てくださる方が迎えに来てくれるんだとか」
ふと天井を見上げて、看護師との会話を思い出す。
リハビリを始めた頃だった。この国に身寄りのない自分がどこに住むのか、それをふと尋ねてみると「ご安心ください。ちゃんと国から認可を受けた施設が、あなたを引き取ってくださるそうですよ」と返答をもらった。彼の国にもそういった施設があったが、まさか自分が入ることになるとは思わなかった。
「キルシュバオムだから……ああ、もしかしたらアルベルトさんのところかしら」
「名前は聞いていなかったんですが、どういう方々なんでしょうか?」
「ん~、とてもいい人たちよ。ちょっと騒がしいけれど、他の国の人にもきっと優しくしてくれるわよ」
「そうですか。少し安心しました……」
ふう、と息が抜ける。このエルナという人はとても信頼できそうだし、この人がいい人と言うならいい人なのだろう。ひそかに安堵した。
「ん、あれ? おにたん?」
なぜ下の方から声が? と思ったら、女の子が眠そうな目をこすっていた。たしか、名前はエミといったっけ。
エミはむくりと起き上がると大あくびをした。大きく開いた口から、小さくて真っ白な歯がぽこぽこと覗いている。眠気を振り払うようにブンブンと顔を振ると、長く柔らかい髪の毛がブンブン唸りをあげる。
「おはようおにたん。げんきしてた?」
「うん、おはよう。元気してるよ」
「うんうん! それはよろしいことです!」
にっこり笑うと、丸い顔が一層丸くなる。赤みを帯びたそのほっぺたは、朗らかな太陽のようであった。
「さて。エミも起きちゃったことだし、私たちはそろそろ帰ろうかしら」
「ねえねえ、かえりにおかしかってよぅ。おもちゃでもいいよ?」
「ふふっ。今日は静かにできたから、ちょこっとだけよ?」
「おうっ、やったぁ!」
ぴょんぴょん跳ねながら喜ぶ姿を見ると「お母さん、やっぱり騒がしいので撤回してはいかがでしょう」とつっこみたくなる。しかしこの子に関しては、静かにしているより騒がしい方が、みんな元気をもらえるかもしれない。患者たちのアイドルだ。
「お話、ありがとうございました。この国のことを知れて良かったです」
「どういたしまして。また何かわからないことがあったら、遠慮なく話しかけてね。私も他の国の話を聞いてみたいから」
「……ええ。まあ、あまり面白い話もできませんが」
「? それではお大事にね」
「おーだいじにー!」
手をつないで病院を後にする二人を笑顔で見送る。
話し相手がまたいなくなって寂しくなるかと思ったが、今回はそれほどでもなかった。きっと自分の引き取り先が決まり、心に少し余裕ができたからであろう。新しい生活への期待感がふつふつと湧いているのも事実だった。
体の傷は癒えている。しかし心の中には暗いモノが蠢いているのを、彼自身も気づいていた。
「これだけは……誰にも……」
理解はされない。いや、そもそも、他人に話したくなる話でもない。時間をかけて、自力で抑え込むしかないと決め込んでいた。
退院の日が来た。
ずっとお世話になっていた看護師と童顔医者が見送りに来てくれる。「大変お世話になりました」簡潔にお礼を述べ、深々とお辞儀をした。二人は笑顔で、彼の姿を慈悲に満ちた目で見つめてくれる。それは自分たちの仕事を誇るようでもあった。
気になることがあるとすれば、聞いていた迎えがどこにもいないことだった。あたりを見渡してみるが、それらしい人影も見えない。そもそも、どんな人が迎えに来るのかも、よくわかっていなかったのだが。
仕方ない、少しその辺を見て回るかと足を踏み出した瞬間、遠くから唸り声が聞こえた。ブルルルルというその音は車のエンジン音で、明らかにこちらに向かってきている。
気になってその方向を向くと、緑色のビートル(車両)が目前まで迫っていた。
ぶつかる! そう思って頭をかばい、体を背ける。ビートルはキキィーッと甲高い悲鳴を上げ、地面にヘッドライトをぶつけるのかというほどつんのめった。
ビートルは彼の目と鼻の先ほどでギリギリの急停止を見せた。
再び病院送りにされなかったことに安堵しつつ、砂煙を纏うそのビートルを見る。緑色にきらめく丸っこいボディは昆虫のような可愛らしさを持っていた。対照的にマフラーからは大型動物のいびきのような排気音が低く唸りを上げている。
突如、運転席のドアが爆発したように開いた。
その中から現れたのは……
「よっ、久しぶり! ちいっとは体重増えたかァ?」
いつかの猿男だった。光が見え始めた新生活に、とつぜんハイテンションな障害物が立ちふさがった。
「遅くなって悪かったなぁ。こないだのお前はぼんやりしてたから、改めて自己紹介するぞ。今日からお前の家族になる、ロットン=アルベルトだ。よろしくなァ!」
力強く立てた親指で自分を指さすロットン。頼もしいといえば頼もしいが、贅沢を言わせてもらえばもう少し静かにしてほしい。
「迎えに来たぜ! えーっと……そういえばお前の名前を聞いていないよな」
「病院の方から、聞いているんじゃないんですか?」
「ああ、聞いてるさ。でもさ、俺はお前の口から聞いておきたいんだよ」
大事な自分の名前だろ? と、心を突くような言葉を突然発する。その瞬間だけは、彼は歳相応以上の風格を身に着けているように錯覚した。
「僕の……名前は……」
久しぶりに、自分の口で、自分の名前を発した。
「僕の名前は、セオといいます」




