二十一話【敗北の空気】
高い高い空を旅してきたゴムボールは、逆光により真っ黒な砲弾のようになって急降下してくる。ぐんぐん、勢いを増して落下してくる。
その影が大きくなるにつれて、セオの心臓の鼓動が跳ねるように大きく打ち始める。
その黒い塊が砲弾みたいだなと思った瞬間、セオの視界に昔の景色がよみがえった。故郷に雨のように降り注ぐ、黒く重たい砲弾の雨。舌を見れば、抉られ、砕け散った地面が踊っている。人々は巣を失った蟻のようにちりじりになり、吹き飛んだ地面に巻き込まれて突っ伏す。
「……何を見てるんだよ、僕は。ほら試合が始まるところなんだ。視界よ、早く戻ってくれよ」過去の惨劇を目に映しながら、セオは一人懇願した。幻なら、試合が終わった後でいくらでも見てやる! だから、試合が終わるまでの三十分間、そんなもの見せないでくれよ!
「早く動け! セオ!」
視界が現実に帰ってくる。そこには阿鼻叫喚の地獄などはなく、アメンボたちがその丸い体を一生懸命動かして空に漂う。
無線機からのロットンの声にハッとし、セオは急いで前線に上がろうとする。バカ! 何をやっているんだ! 過去のトラウマを引きずって、この国でもまた新たな心の傷を作るつもりなのか? エンジンを吹かし、前線に上がってロットンからのパスを待たなければ。
そう思った時には、既に手遅れだった。
試合が始まり、最初にボールを手に入れたのはNo.1のゼッケンを付けたロットンだった。明らかな苛立ちを見せたのは、同じくNo.1のゼッケンを付けた相手チームのヤンだ。落下してきたボールを最初に奪うのがNo.1の最初の勝負で、それに勝利したのは幸運にもロットンの方だった。
しかしヤンもバカではなかった。わずかな時間でセオの動きが遅いと察知したヤンは、セオのマークに着こうとした選手をロットンに向かわせた。即座にロットンは、ヤンともう一人に前をふさがれ前進できなくなった。
ロットンはその場で、ボールを死守してフォーメーションを立て直す作戦に出た。咄嗟の判断としては悪くない作戦に思えた。安全性への配慮から、アメンボ同士の衝突はファウルを取られやすい。そのため防御に徹すれば、そうは簡単にボールを奪われることもない。相手が、ヤンでなければ。
ガクンという衝撃と共に、凍った道でスピンを起こした車のようにロットンのアメンボが回った。ロットンのアメンボの脚を、ヤンのアメンボの脚が強く弾き飛ばしたのだ。
コクピットで、ロットンが目を丸くしているのが見える。彼の頭に浮かんでいることは、セオにも予想がついた。「こんな明らかなラフプレーをすれば、最悪退場になるぞ!」と。そして「そうか、審判も……そうなのか」と同時に答えにたどり着く。ヤンの会社の威光は、当然審判たちにも輝いているのだろう。その光に目がくらんだ審判たちは、きっと判断をミスすることもあるだろう。
あとは簡単なものだった。後ろに控えていたのはレイカのみ。ボールを奪ったヤンと舎弟の一人を止めることなど到底かなわない。するりと呆気なくかわされ、ポンと小バカにしたようなシュートを打たれる。
ロットン達のバルーンが揺らされ、祝砲が放たれる。得点表がめくられ、ヤンのチームに一点が入ったことが確定した。
そこからインターバルまでの数分間は、点が入ったツェーダーの観客たちですら冷え切ってしまうような展開だった。
焦りを覚えたロットンは、ポレロとセオを連れて捨て身に近い攻撃に出た。バルーンの近くに残ったのはレイカのみで、もしボールが奪われることがあれば二点目はまず避けられない布陣だった。
それに対してヤンたちが選択したのは、全員でバルーンを囲うという完全な防御態勢だった。もしアメンボの脚が人間のように素早く、力強く動くなら、彼らの赤アメンボたちの隙間をぬってシュートをたたき込むこともできただろう。しかしアメンボには、そのような瞬発力はない。サッカーで言うならドリブルで、バレーボールで言うならトスやブロックでゴールを狙うようなイメージなのである。アメンボの軽いシュートは、狭い隙間をぬおうとしても止められてしまうことがほとんどなのだ。
本来、このような消極的な作戦は「思いついても行わない」という暗黙の了解がある。スポーツマンシップの一部ともいえるだろう。
しかし何度も言うように、今回は相手が悪いのだ。それこそ文字通りに。
試合開始から十分が過ぎ、号砲が撃たれる。ここから五分の休憩を取り、その後後半の十分が始まるのだ。
「みんな、とりあえずご苦労様……」
ロットンの物とは思えない、感情を失った声が聞こえる。その声を合図に、青いアメンボたちは水の中へ沈むように地面に降り立って行った。
ドスンと、セオは自分の座るシートを叩いた。貴重な最初の一点を、あのヤンたちに安売りしてしまった。その歯がゆさが体を震わせ、行き場を探すようにアメンボの内部をドスドスと殴り続けていく。できることなら、この試合で活躍することでロットンや、キルシュバオムの人たちに恩返しをしたかった。それが、このざまである。
「お前は浮かれていたんだ」心の中の冷静な自分が、そうつぶやく。「お前は恩返しがしたいだなんて、試合前に考えていたか? ただ、遊び感覚で出場していたんじゃないのか。
そうして油断しているから、あの最初の幻覚だ。普段のお前の精神力なら、あんな幻すぐにかき消していただろうに」自分が、自分を責め続ける。みんなに合わせる顔などない。休憩なんていらない。こんな試合、さっさと終わってしまえと呪いのようにつぶやく。
地面に降り立ち、四人が集まる。意気消沈とまでは言わないが、現状打破の方法が分からずふさぎ込んでいる。既に全員、敗者の表情に近い。空気が凝固し、じわじわと空気の氷に閉じ込められていくようだ。
「ゴスッ!」
そんな現状をぶち壊すかのように、ロットンの腕が大きく弧を描いて振られた。硬く握りしめられた拳はセオの頬に吸い込まれ、めり込み、首をぐりんと回して振りぬかれた。セオは目に星のまたたきを見ながら、ねじれるように地面へ倒れた。日光に温められた地面の熱が痺れる頬に伝わる。目の前を行進する蟻が、何事かとセオにその小さな顔を向ける。
「ちょっと! 何するのよ、ロットン!」血相を変えたレイカが、ロットンの元へ歩み寄る。それでもロットンは、視線をずっとセオに向けるのみだった。
――そうだね。悪かったよ、ロットン。セオは体中に付いた砂をパンパンと叩き落とすと、しっかりと脚を伸ばし。ロットンに向かい合った。
ロットンは、たった今思い切りぶん殴った相手に、いつものニッとした笑みを浮かべて、言った。
「目は覚めたな?」
「おかげさまで」頬をさすりながら、セオは微笑んだ。
結果的にロットンの渾身のパンチで、固まっていた空気は本当に砕かれた。殴った人間と殴られた人間が急に笑いあうものだから、レイカとポレロは訝しみながらも、とりあえず場が和んだと判断して笑いあった。
だが、もう休憩時間は残り少ない。そもそも、五分しかない休憩で大逆転の作戦など思いつくのが無理というものだ。
「実は、僕とレイカさんとで作戦を考えていました」
「二人がいちゃついてる間にねっ」
そう言ってウインクするレイカは、勝利の女神のようにも見えた。
「ぃよっし、その案で行こう!」
作戦内容も聞かず、ロットンは自分の拳をさすりながら賛成した。




