一話【目覚め】
「俺はお前を誘拐しに来たんだ」
僕の目の前にいる猿のような男は、実際には猿の雰囲気を醸し出しているだけなのだが、とにかくそんな物騒なことを言った。
森の中で目が覚めた。
青年はこの数日を森の中で暮らし、最後の記憶も森の中だった。だから視界に木目が映った時、ああ、まだ僕はこんなところでだらだら生きるつもりなんだなとげんなりした。
しかし、そこは病院だった。
数日前まで彼を包んでいたボロ布は、清潔感だけを追求したような白く柔らかい服に代わっていた。泥と葉っぱは、ベッドとシーツに代わっていた。弱々しい彼を押しつぶそうとしていた森は、優しくも力強く包み込む病院に代わっていた。
体を起こそうとすると全身に痛みが走り、穴が開いた風船のように力が抜けて行った。ぼすんとベッドに沈み込む。
仕方なく視線だけ動かすと、腕には点滴の管が刺さり、あちこち包帯やガーゼでデコレーションされていた。部屋には何らかの薬品の臭いが充満しており、鼻をツンとつく。鼻の中まで消毒されている気分に近かった。
右側、手が届く位置に窓があることに気が付いた。
外の空気を吸いたくて、力をためて一気に起き上がる。痛みがそれを拒もうとするが、「いや、やっぱり俺も外の空気吸いたいかも」と思ったのか、身をひそめてくれた。気分屋な体で助かった。
カチャリと鍵を開けて、そっと開けてみる。外で待っていたように、風が病室内に駆け足で流れ込み、閉められているカーテンはその身に風を含んでふわりと翻った。部屋に充満していた薬品の匂いは、風に押しやられて入れ替わるように外へ出て行った。
外は眩しかった。きっと何日も眠り込んでいたのだろう、久しぶりに陽の光を染み込ませた瞳には、少し刺激が強かった。
手でひさしを作って外を眺める。街……というには家もまばらで、野原や畑が緑の絨毯を作っていた。巨大な風の手が絨毯をなで、細かなグラデーションを生んでいる。
遠くでは畑仕事をしている人がちらほら見える。陽が高く上がってぽかぽかした陽気だが、彼らは真夏のように汗を何度も拭き取り地面と向き合っている。
視線を感じたのか薬品の臭いを感じたのか、そばで見守る、茶色く凛々しい犬がこちらに首を向けた。顔にしわを寄せ、こちらを制するそのぐしゃりとした形相にぎょっとし、窓を少しだけ閉めてしまう。
ふと視線を下に落とすと花壇があった。色とりどりのそれは患者たちを励ますように咲き誇り、ほのかな甘い香りが鼻をくすぐった。
目を凝らせば蟻たちがせっせと何やら運んでおり、芋虫はもくもくと葉っぱを口に含んでいる。蜂や蝶は離れたところから花々を一つ一つ厳選し、これだと思った花の中へポトリと降り立ち、蜜をかき集める。
ちらっと何か大きなものが彼の視界をかすめた。何かと思い顔を向けると
「おにたん、こんちゃい」
それが急に言葉を発したので、彼は情けなくビクッと体を弾ませてしまった。目が光を忘れかけていたように、耳は人の言葉を忘れかけていた。
落ち着いて見れば、五歳くらいの小さな女の子だった。麦わら帽子をかぶり、たくさんの花の模様が描かれたワンピースを着たその子は、明らかに患者ではなかった。きっとこの子の友達がここに入院しているのだろう。
まだ舌足らずなその女の子は、きっと「お兄さん、こんにちは」と言いたかったのだろう。しかし先ほどの言葉の方が、小さな子供らしくて心が和らいだ。
少し視線を上げれば、女の子と似たような服装の女性が笑顔で手を振っていた。母親なのだろう。
「ママちゃんがよんでる。じゃあおにたん、げんきでね!」
女の子はブンブンと手を振りながら、羽ばたくように母親の元へ戻って行った。無駄にバタバタした走り方は、やはり子供のそれらしく可愛らしい。
不意を突かれて動揺していたが、「ああ、ありがとうね」と小さく手を振りながら笑顔で見送った。そして同時に、「僕にはもう、お見舞いに来てくれる人は誰もいないのだな」と実感した。
そのため病室のドアがカラカラと開いた時には、まさか誰か来てくれたのかと期待を抱いて勢いよく彼は振り向いた。しかし当然、お見舞いなどではない。様子を見に来た看護師の女性だった。
「……あら、目を覚まされたんですね!」
その声は「目を覚ましたんですね、良かった」というより「まさか目を覚ますとは思いませんでした」というニュアンスが含まれていた。
そこからは慌ただしかった。その看護師は白髪交じりの、しかし知性を滲ませた童顔の医者の先生を連れてきた。聴診器で心臓の音を聞かれたり、体の調子を聞かれたり、患者から聞き出せる情報をひたすら引き出された。
その童顔の医者の話をまとめると、怪我は大したことはなく、栄養不足と極度のストレスによる衰弱が酷いらしい。とはいえ、しばらく病院でゆっくり療養すれば何も問題ないとの説明だった。
「まあ、心配することはありませんな。この国のお客さんを死なせたりはしませんよ」
大したことないなら“死”のキーワードを入れてほしくないなと彼は思ったが、無一文でよそ者の自分もちゃんと入院できることに安堵していた。
それと同時に彼の心の中では、なにか暗いモノが渦巻いていた。
その暗いモノに形を与えるなら、黒いローブを纏い、身の丈を超える巨大な鎌を持った死神だった。
その死神は、しかし鎌は振るわない。代わりに、暖かいところへ浮かび上がろうとする彼の命を、細く汚れた骨の手で静かに引きずりおろそうとしている。
診察を終えた医者と看護師が病室を出て行った。
その姿を見送った彼は、また急に心細い気持ちになった。その気持ちを振り払うように布団に潜り込んだ。幸い、体の方も休息を欲していた。数日は眠っていたのだろうが、それでもすぐに睡魔はやってきた。
そこで違和感に気が付いた。カーテンとは違う、もっと濃い影がベッドに落ちている。先ほどの犬が先手を打ちにやってきたのか。そう思い窓の方へ顔を向けると、
「俺はお前を誘拐しに来たんだ」
彼の目の前にいる猿のような男は、実際には猿の雰囲気を醸し出しているだけなのだが、とにかくそんな物騒なことを言った。




