第五章 終わらせるための約束
約束の日は、八月の終わりの水曜日になった。
七月末の申し出に田中はすぐ応じたが、互いの仕事と家族の予定が合わなかった。八月上旬に田中の出張があり、続いて「せせらぎ」の五日間の盆休み、子供たちの夏休みが重なった。由美は日にちが決まらないことにほっとし、そのたびに、その安堵を恥じた。
『来週の水曜の三時半、川沿いの公園の、欅の下のベンチでいかがでしょうか』
『はい。伺います』
それだけのやりとりが、それまでのどの長いメッセージよりも重かった。
当日、由美は三時にシフトを終え、エプロンを外して、いつもより丁寧に畳んだ。晶子はカウンターの奥で豆を計量していて、「おつかれ」とだけ言った。由美は「おつかれさま」と返し、ガラス戸を押した。ドアのベルの音が、背中を押すように鳴った。
川沿いの公園までは、自転車で十分ほどだった。夏の終わりの午後の光はまぶしく、アスファルトの照り返しで、ペダルを漕ぐ足首まで熱かった。堤防の上の道からは、干上がりかけた川の、白く乾いた河原が見渡せた。水は、石のあいだを縫う細い筋になって、それでも下流に向かって光っていた。
欅の木の下には、古い木のベンチが一つあった。田中は先に来ていて、ベンチの端に、背筋を伸ばして座っていた。スーツの上着は膝の上に畳まれ、白いシャツの袖が、肘の手前まで一度だけ折り返されている。店で見るよりも、いくらか年齢が上に見えた。
由美に気づくと、田中は立ち上がり、深く頭を下げた。
「お呼び立てして、すみません」
「いえ。私のほうこそ」
由美は、ベンチのもう一方の端に腰を下ろした。二人のあいだに、大人がもう一人座れるくらいの隙間が空いた。
田中の手には、紙コップのコーヒーが二つあった。公園の入口の売店で買ったものらしい。一つを、隙間の真ん中に置く。
「店のものほどではないと思いますが」
「ありがとうございます」
由美は紙コップを手に取った。熱い。夏の午後に、熱いコーヒー。田中らしいと思った。
蝉が鳴いていた。欅の葉のあいだから、ときおり、乾いた風が吹き抜けた。
メッセージの画面の中では、あれほど多くの言葉を交わしてきた。ホテルのラウンジのこと。黒板のこと。詩集のこと。息子さんの下宿のこと。それなのに、隣に座っていると、何から話せばいいのか分からなかった。言葉を画面の中にすべて置いてきてしまったように、口の中から消えていた。
由美はショルダーバッグの外ポケットに、そっと手を触れた。そこには、あの二つ折りの紙が入っている。
伝えたいことがある、と書いたのは自分だった。もう、連絡はやめましょう。その一言を言うために、ここに来たはずだった。けれど、その一言が、喉の手前で、乾いた砂のように固まっていた。
沈黙が、長く続いた。蝉の声が、一度途切れて、また始まった。
先に口を開いたのは、田中だった。
「五月に、連絡先をお聞きしたことがありましたね」
「……はい」
「あの前の晩、家内に言われたんです。珍しく、夕食が一緒になった日で。『あなた、最近、会社の人以外と、誰かと話した?』と」
田中は、紙コップを両手で持ったまま、河原のほうを見ていた。
「答えられませんでした。息子がいなくなってから、私は家で、ほとんど口をきいていなかった。家内は夜勤で疲れていて、私は私で、帰っても誰もいない家に慣れてしまっていた。あの店は、仕事の合間に寄る、ほとんど唯一の寄り道でした。中村さんが、いつも名前を呼んでくださって。それが……ありがたかったんです」
由美は、黙って聞いていた。
「連絡先をお聞きしたのは、ずるいお願いでした。お店のイベントなんて、どうでもよかった。あの場所とのつながりを、何か手元に持っていたかった。断られて、当然です。恥ずかしくて、翌週は店に行けませんでした」
「……私も、来ないだろうなと思っていました」
「行きました。豆を頼みに。ほかに理由が見つからなかったので」
田中は、かすかに笑った。それから、笑みを消した。
「中村さんからメッセージをいただいたとき、嬉しかった。そして、これはいけないことだとも思いました。両方、本当でした」
由美は紙コップを見下ろした。自分の気持ちを先回りして言い当てられたようで、息が詰まった。
「お盆のあいだに」
田中は、紙コップを膝の上に置いた。
「家内の夜勤明けの朝に、たまたま家にいたんです。会社が休みで。コーヒーを淹れていたら、家内が台所に来て、言いました。『最近、朝の台所がいい匂いね』と。それで、豆の話をしました。どこの店で買ったのか、挽き方をどう変えたのか。家内は、黙って聞いていました。それから、息子が下宿で自炊を始めたらしいという話になって、二人で、あいつが作れるのはせいぜいカレーだろうと笑って。気がついたら、一時間、話していました」
田中の声が、わずかにかすれた。
「そのとき、気づいたんです。私は、中村さんに話してきたことを、家内には一度も話していなかった。詩集のことも。息子がいなくなって、家が広く感じることも。あの詩集を読み返していることさえ、家内には言っていなかった。一番話さなければいけない相手から、逃げていたんです」
由美は、紙コップを握る自分の指先が白くなっていることに気づいた。
由美は冷めていくコーヒーを一口飲んだ。晶子の「私に話さなかったことを、その人には毎晩話してた」という声が、耳に残っていた。
「私は」
由美は言いかけて、紙コップの縁を見つめた。言うべきことは二つあった。一つは、別れの言葉。もう一つは、それより先に言わなければならない、謝罪だった。
「先に、謝らせてください」
田中が、顔を向けた。
「あの番号は、お店の伝票から写したものです。お客様の連絡先を、私用で使いました。五月に、連絡先をお断りした人間が、いちばんしてはいけないことをしました」
蝉の声が、また途切れた。田中はすぐには答えず、紙コップを膝の上でゆっくり回してから、静かに言った。
「送っていただいて嬉しかった、と言いました。それは本当です。でも、それとこれとは、別の話ですね」
「はい」
「謝罪は、お受けします。お店の方には」
「店長には、私から話します。今日、このあとに」
「そうですか」
田中は頷いた。責める調子ではなかった。物差しを当てるような、静かな頷き方だった。その静かさが、かえって由美の背筋を伸ばした。
「もう、連絡はやめましょう」
声は、思ったよりはっきり出た。乾いた蝉の声の隙間に、自分の声が、まっすぐ立った。
田中は、膝の上の上着を見ていた。長い間のあと、息を吐くように言った。
「……はい」
それから、かすかに笑った。
「中村さんと話していると、心が明るくなりました。過去形にしなければいけませんね」
「私も、です」
「これからも、あの店で顔を合わせます。私はブレンドを頼んで、あなたはそれを出して。……それで、いいんでしょうか」
「それが、いいんだと思います。難しいでしょうけれど」
「難しいでしょうね」
風が吹いた。欅の葉が、ざあ、と鳴った。
由美は、メッセージの画面を開いた。上へ、上へと指でたどると、六月の最初の夜まで、吹き出しの列が途切れずに続いていた。コーヒーの挽き方。ホテルのラウンジ。袖口の詩。許したくない気持ちは、あっていい。
七月末に交わした、公園で会う約束のメッセージが目に留まった。そのあとにも、日常の短いやりとりが続いていた。
「全部、消します。見ていてもらってもいいですか」
「……はい」
親指が、削除の文字の上で止まった。呼吸を一つ数えてから、押した。長い川のような画面が、一瞬で、白くなった。
消えたのは言葉の列だけで、それを読んで笑った夜までは、消えなかった。
田中は、自分のスマートフォンを取り出さなかった。
「私は、消せないかもしれません。でも、開かないことは、約束します」
「はい」
由美は、ショルダーバッグの外ポケットから、二つ折りの紙を取り出した。角が丸くなり、複写の青いインクが、何度も開いたり閉じたりしたせいで、わずかに滲んでいた。
「これ、お渡ししそびれていました。取り置き票の、お客様控えです」
田中は、差し出された紙を見つめた。それから、両手で受け取った。「処分してください」と言ったはずの紙が、三か月あまり経って、彼の手に戻ってきた。そのことの意味を、田中は理解したようだった。
「……確かに、お預かりしました」
田中は鞄から、紙カバーの擦り切れた文庫本を取り出した。紙をどこに挟もうか、というように、しばらくページをめくる。やがて手が止まったのは、短い詩の上だった。由美の位置から、最後の三行だけが見えた。
呼ばれなかった名前は
引き出しの底で 少しずつ
自分の形を覚えている
由美は、鏡台の小さな真鍮の取っ手を思い出した。
田中は、その頁に二つ折りの紙を挟み込んだ。表紙を閉じると、紙の端が、ほんの少しだけ、ページのあいだからはみ出していた。
「背表紙の鉛筆の字は、家内の名前なんです。佳代、と。先日それを見せたら、昔から字が下手だと、笑われました」
「素敵なお名前ですね」
「ありがとうございます。……伝えます」
「豆は、これからも、あの店で買わせてください。家内が、気に入っているので」
「はい。お待ちしています」
二人は、ほとんど同時に立ち上がった。空になった紙コップを、田中が二つまとめて受け取り、ベンチの脇のくず籠に捨てた。
「それでは」
「はい。……お気をつけて」
田中は深く頭を下げ、駅のほうへ歩いていった。由美はその背中を見送り、自転車にまたがった。振り返らなかった。
橋の上で、由美はいったん自転車を止めた。河原の白い石のあいだを、細い水が光りながら流れていた。バッグの底のスマートフォンは、もう何も鳴らさなかった。
◇
家に帰る前に、由美は自転車の向きを変えて、「せせらぎ」に寄った。
夕方の店には客がおらず、晶子が一人でカウンターの内側に座り、翌日の仕込みのメモを書いていた。ドアのベルに顔を上げ、由美を見て、目を丸くする。
「あれ、忘れ物?」
「ううん。ちょっと、顔が見たくなって」
晶子はペンを置き、何も聞かずに、水出しのコーヒーをグラスに注いでくれた。由美はカウンターの、いつも自分が立っている側の反対に座った。客の側から見る店は、梁の高さも、窓の光の入り方も、少し違って見えた。
「晶子。この前の話、ありがとう」
「この前?」
「離婚したときの話」
晶子は、グラスを拭く手を止めなかった。
「……何のことかな。酔っぱらいの昔話だよ」
「水出しコーヒーで酔う人、初めて見た」
晶子は吹き出して、それから、布巾をカウンターに置いた。
「……終わったの?」
主語のない問いだった。由美は、グラスの中の氷を見つめたまま、頷いた。
「終わりにしてきた。でも、その前に、晶子に話さなきゃいけないことがある」
「そっか」
「店の取り置き票にあった番号を、私用で使ったの」
晶子の手が止まった。「……あの票から?」
「うん。私から送った。お店の用件じゃなかった」
「それ、友達として聞いても、店長として聞いても、簡単に『いいよ』とは言えない」
由美は頷いた。「分かってる。黙っていたら、また同じことをすると思った」
「お客さんの情報は、預かってるものだから。明日、控えの保管方法も見直す。由美には当面、予約票の管理を任せない。それから、田中さんにお店として説明が必要か、私が考える。勝手に連絡はしないで」
「分かった」
晶子は腕を組み、窓の外を見た。「正直、腹は立ってる。信じて任せてたから。でも、今ここで話してくれたのは大事だよ」
由美は膝の上で手を握った。「ごめんなさい」
「今日ここで許すとは言えない。明日から仕事で返して」
由美は頷いた。晶子が水出しのグラスを片付けるあいだ、椅子から立たずに待った。
晶子は手を伸ばしかけて止めた。由美の顔を見て、代わりに布巾を畳み、椅子を引いた。
「健司さんには?」
「これから話す。全部」
晶子はすぐには返事をしなかった。店の冷蔵庫のモーターだけが、低く鳴っていた。
◇
その日、家に帰った由美は、自分の世界が少し違って見えた。
玄関に並んだ翔太の泥だらけのスパイク。美咲が廊下に置きっぱなしにした画板。リビングのソファの端に、健司が畳んで置いていった朝刊。どれも見慣れたものなのに、一つ一つに、誰かの一日の手触りが残っているように感じられた。
健司の鞄は、いつもの場所にあった。由美はその横に自分の鞄を置いた。夕食の前に、二人分のコーヒー豆を量ってみた。
その夜、健司は七時過ぎに帰ってきた。夏のあいだ、ずっと十時を過ぎていたのに。
「早いのね」
「ああ。……今日で、引き継ぎが一段落した」
健司はそれ以上言わず、風呂に入った。由美は、六月の夜に裏返しにしたまま忘れていた、あの組織再編の書類のことを思い出した。あれから枕元で赤ペンの書き込みが増え、いつの間にか、そこからも消えていた。




