第四章 画面の向こうの声
七月に入ったある晩、由美はダイニングの椅子で、田中からのメッセージを読んでいた。
『今日、家内と久しぶりに夕食が一緒になりました。何を話せばいいか分からず、結局、テレビの天気予報を二人で見ていました。雨、降りませんね』
由美は思わず笑みをこぼした。その光景が、目に浮かぶようだった。返信を打とうとしたとき、背後で床のきしむ音がした。
「お母さん?」
振り向くと、パジャマ姿の美咲が、台所の入口で目をこすっていた。
「どうしたの。眠れないの?」
「のどかわいた」
由美は慌ててスマートフォンを伏せ、立ち上がって冷蔵庫から麦茶を出した。コップに注ぐ手が、かすかに震えた。
美咲は麦茶を両手で持って飲みながら、テーブルの上の、伏せられたスマートフォンを見ていた。
「お母さん、今、笑ってた」
「え?」
「スマホ見て、笑ってた。誰?」
由美は、娘の目をまっすぐ見返すことができなかった。
「……お店の人よ」
「晶子おばちゃん?」
一瞬の間があった。その一瞬が、由美にはひどく長く感じられた。
「……うん。晶子おばちゃん」
「ふーん。仲良しだね」
美咲は空になったコップを流しに置き、「おやすみ」と言って、階段を上っていった。小さな足音が遠ざかっていく。
由美は、伏せたスマートフォンを手に取らなかった。
流しには、美咲の飲み終えたコップが残っていた。由美はそれを洗い、伏せて水切りかごに置いた。
その夜、由美は田中に返信しなかった。
寝室では健司が眠っていた。枕元には、組織再編の書類と、得意先別の売上表が重ねられている。赤ペンで囲まれた取引先の横に、「後任へ説明」「先方了承待ち」と書き込まれていた。健司はペンを握ったまま眠ったらしく、指先に赤いインクがついていた。
由美はペンをそっと枕元の台に置き、スタンドの明かりを消した。
枕元でスマートフォンが短く震えた。由美は画面を見ず、引き出しにしまった。
暗闇のなかで、健司が一度だけ寝返りを打った。
翌朝、引き出しを開けると、未読の数字が一つ増えていた。
◇
授業参観の日は、朝から日差しが強かった。
午前十時少し前、由美は一人で小学校の廊下に立っていた。健司は、あの夜以来、参観のことを一度も口にしなかった。由美も聞かなかった。朝、健司はスーツを着て、いつもより早く家を出ていった。
あの絵は、三月の宿題で下書きだけを描いた絵だった。五年生の図工でもう一度同じ題を選び、仕上げたのだと聞いていた。美咲は「まだお母さんの色が決まらないから」と、最後まで一か所を白いまま残していた。
五年二組の教室の後ろには、図工の作品がずらりと貼られていた。『わたしの家族のすきなもの』。美咲の絵は、窓際から三枚目にあった。
四つの顔が、画用紙いっぱいに並んでいる。翔太の顔の横には、サッカーボールと、なぜか大盛りの白いご飯。健司の顔の横には、ビールの缶と、その隣に、小さく自転車の絵が描かれていた。空気入れのポンプを握った手。由美は、そこで息を止めた。
美咲の顔の横には、絵の具のパレット。
そして、由美の顔。店の生成りのエプロンをつけて、笑っている。その横に描かれているのは、コーヒーカップと黒板。そして、顔の周りの背景だけが、何も塗られず真っ白に残されていた。下に、鉛筆で小さく書き添えてある。
『お母さんのすきな色:まだ考えちゅう。わかったら、ぬります』
由美は、口元を手で押さえた。
そのとき、教室の後ろの扉が開いて、息を切らした誰かが入ってきた。
健司だった。
スーツの上着を腕にかけ、ワイシャツの背中が汗で肌に張りついている。ネクタイが曲がっていた。健司は由美に気づくと、一瞬、気まずそうに目を逸らし、それから、保護者の列の一番端に並んだ。
国語の発表が始まった。美咲は、教室の前で自分の作文を読み上げながら、後ろの列に父親の姿を見つけて、声を一瞬だけ弾ませた。
発表が終わると、健司は腕時計を見て、由美のそばに来た。
「……一時間だけ、抜けてきた」
「……そう」
「すぐ戻らないといけない」
それだけ言って、健司は美咲に小さく手を振り、廊下へ出ていった。汗の匂いと、会社の匂いが、すれ違いざまにかすかに残った。
由美は絵の中の、空気入れを握った手をもう一度見た。
健司の背中は、廊下の角を曲がって消えた。
その夜、田中からのメッセージを開かずに寝た。翌晩、洗濯物を畳み終えると、由美は引き出しからスマートフォンを取り出した。
◇
七月の終わりの金曜日、閉店後の店で、由美は晶子と並んでカウンターの内側に座っていた。
晶子は奥の棚から仕入れ表を出した。六月には近隣の小さな事務所から昼食の予約が入り、雨の少ない日には冷たい飲み物の注文が増えた。黒板を見た客が友人を連れて戻ることもあった。客数は伸びたが、豆と乳製品の値上がりで利益はまだ薄い。
冷房の効いた店内に、晶子が淹れた水出しのコーヒーの、澄んだ香りが漂っていた。それでも売り上げは、七月に入ってようやく損益の分かれ目を越えた。晶子はそれを祝って、閉店後に二人で飲もうと言ったのだ。
「由美のおかげだよ。本当に」
「嬉しいけど、今月だけの数字かもしれないよ」
由美がそう言うと、晶子は売上欄を指で押さえた。
「そこは冷静だね。土曜、一人で回してるときなんて、洗い物が追いつかない。由美にもっと入ってもらいたいけど、家の事情も分かるし」
「無理な日は無理って言う。その代わり、できることは早めに相談して」
晶子は小さく頷いた。
「晶子が頑張ったからでしょ」
「黒板見て入ってくるお客さん、多いんだから。あれ、由美の字だもん」
晶子はグラスの氷を鳴らし、それから、何気ない調子で言った。
「そういえば、田中さん、最近あんまり来ないね」
由美のグラスを持つ手が、わずかに止まった。
「……そうね。お仕事、忙しいのかも」
「かもね」
晶子はそれ以上、田中のことには触れなかった。その代わりに、窓の外の暗い路地を見ながら、ゆっくりと話し始めた。
「私が離婚したときの話、ちゃんとしたことなかったよね」
「……うん」
「うちはね、喧嘩もしなかったの。ただ、話さなくなっただけ。向こうは仕事で遅くて、私はパンの仕込みで朝が早くて。すれ違いって、便利な言葉だよね。どっちも悪くないみたいに聞こえるから」
晶子はグラスの縁を指でなぞった。
「そしたらね、向こうに、話し相手ができてたの。職場の人。毎晩、メッセージで話してたんだって。会ったのも、何回かお茶しただけ。体の関係はなかったって、向こうは何度も言ってた。たぶん、本当だったと思う」
由美の指が、グラスの表面についた水滴をなぞった。
「でもね、私にはそっちのほうがきつかったの。体のことなら、まだ怒れた。でも、あの人が私に一度も話さなかったことを、その人には毎晩話してたんだって分かったとき……ああ、私、もういなかったんだ、って思った。あの家に」
晶子は、そこでようやく由美のほうを見た。責める目ではなかった。ただ、ひどく疲れた、昔の傷を久しぶりに陽に当てたような目だった。
「別に、由美がどうこうって話じゃないよ。ただ、なんとなく、言っておきたくなっただけ」
「……うん」
「最近の由美、スマホ見る回数、増えたから」
由美は何も答えられなかった。グラスの中で氷が崩れた。
晶子は席を立ってグラスを洗い始めた。由美は、その背中を見ていた。水道の音が止んでも、声をかけられなかった。
◇
その夜、由美は店からの帰り道を、自転車を押して歩いた。
八月を目前にした夜の空気は、昼の熱をまだ抱え込んでいて、アスファルトからむっとした匂いが立ちのぼっていた。空には雲ひとつなく、街灯の向こうで、星がいくつか滲んで見えた。
由美は橋の手前で足を止めた。ハンドルを握る指に、汗がにじんでいた。
由美はスマートフォンを取り出しかけ、手を止めた。
画面を開くたび、返信を待っていた。けれど晶子の話を聞いたあとでは、これまでと同じ言葉を打てなかった。
美咲が見上げた顔と、参観の日の健司の曲がったネクタイが浮かんだ。
由美は橋の上まで自転車を押した。川は水位が下がり、河原の白い石をよけるように細く流れていた。
しばらく川を見下ろした。
由美は自転車のスタンドを立て、スマートフォンを取り出した。田中とのやりとりの画面を開く。最後のメッセージは、二日前に彼から届いた『雨、まだですね』だった。
由美は、しばらく指を画面の上で止めてから、打ち込んだ。
『一度、お店の外で、お話しできませんか。直接、お伝えしたいことがあります』
指先で送信ボタンに触れるまで、少し時間がかかった。
送信画面の白い余白が、夜の中で眩しかった。
送信ボタンを押す。
返信は、十分後に来た。
『分かりました。私も、お話ししたいことがあります』




