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乾いた土に降る雨の香り  作者: 久遠 睦


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第三章 言えない言葉

六月に入っても、まとまった雨は降らなかった。

天気予報は毎朝のように「梅雨入りの発表は見送り」と繰り返し、庭のミントは葉の縁を茶色く縮らせ、小池さんの紫陽花は、蕾のまま色づくのをためらっていた。路地の土埃は、店のガラス戸の下の隙間から入り込んで、由美は一日に三度、入口のマットを外ではたかなければならなかった。

その日は日曜日の夜だった。

夕食の片付けを終え、由美はダイニングのテーブルで、美咲の学校から配られたプリントを広げていた。来月の第二土曜日、午前十時から、五年二組の授業参観。図工の作品展示と、国語の発表。プリントの端には、美咲の字で「お父さんもぜったい来てね」と書き足してあった。

健司は、風呂上がりにリビングのソファで缶ビールを開けたところだった。

「来月の第二土曜、美咲の参観だからね。お父さんも来てって、美咲が」

「第二土曜?」

健司は缶を口元で止めた。

「……その日は、無理だ。休日出勤が入ってる」

「え? だって、先月から言ってたじゃない。カレンダーにも書いてあるし」

「聞いてない」

「言ったわよ。予定表が配られた日に。あなた、『ああ』って言ったじゃない」

健司は眉間に皺を寄せ、ビールを一口飲んだ。

「そんな前のこと、いちいち覚えてられないだろ」

些細なことだった。本当に、些細なことのはずだった。それなのに、由美の口からは、自分でも止められない言葉が溢れ出した。

「どうしていつもそうなの? 私が言わないと、子供のこと、何にも気にしてくれないじゃない。翔太の三者面談も、美咲の運動会も、全部私。あなた、美咲が今どんな絵を描いてるか知ってる? 翔太のポジションがどこか知ってる?」

「知ってるよ、それくらい」

「じゃあ言ってみて」

健司は答えなかった。缶ビールをテーブルに置く音が、思いのほか大きく響いた。

「うるさいな」

低い声だった。

「こっちは毎日、外で頭を下げて働いてるんだ。君のカフェごっこみたいに、気楽なもんじゃないんだよ」

由美は、膝の上でプリントの端を握りしめた。

カフェごっこ。

小池さんのぬるめのカフェオレ。岡本くんのネクタイ。黒板の右下がりの文字。四回目にようやく整ったミルクの泡。由美はプリントを二つに折った。

「……そう」

由美が椅子を引くと、脚が床をこすった。

台所に行き、蛇口をひねって、もう洗い終えた鍋をもう一度洗った。水の音で、自分の呼吸の音を消したかった。

背後で、健司が立ち上がる気配がした。何か言うのだろうか、と由美は思った。けれど健司は何も言わず、テーブルの上に置いてあった自分の鞄から書類の束を取り出して、階段を上がっていった。

由美は蛇口を閉めた。テーブルには健司の書類が一枚残っていた。『営業部門の組織再編に関するお知らせ』。その下には『既存顧客の担当変更』『営業案件の引継ぎ』の文字が並んでいた。由美は続きを読まず、紙を裏返した。

冷蔵庫の低い唸りだけが、台所に残った。

◇

その夜、由美は寝室のベッドで、健司に背を向けて横になっていた。

健司は先に眠ってしまったらしく、背中の向こうから、規則正しい寝息が聞こえてくる。あれだけのことを言っておいて、眠れるのだ。そう思うと、また胸の奥がざらついた。

暗い天井を見つめる。健司の寝息は、何度数えても途切れなかった。

由美は寝返りを打ち、枕元の時計を見た。まだ十一時だった。

由美はそっと体を起こし、鏡台の前に立った。暗がりの中、手探りでいちばん上の引き出しを開ける。ハンカチの下の、薄い二つ折りの紙。指先が、それを覚えていた。

――処分してください。

田中の声が、耳の奥でよみがえった。処分しなかったのは、自分だ。

由美はスマートフォンを手に取り、寝室を出て、廊下の突き当たりのトイレに入った。便座の蓋の上に腰を下ろし、ドアの鍵をかける。スマートフォンの画面の明かりが、狭い空間の壁を白く照らした。

取り置き票の、青い複写の数字を一つずつ打ち込む。電話番号あてに送るショートメッセージの画面が開く。

指が震えた。

店の取り置き票から持ち出した番号だ。晶子には、見せられない。

由美は数字を一度消し、また入力した。

『夜分に失礼します。カフェ・せせらぎの中村です。先日は、せっかくのお申し出を失礼な形でお断りしてしまい、すみませんでした。取り置き票の控えを処分しそびれていて、こちらの番号が手元に残っておりました。ご迷惑でしたら、このまま削除してください』

何度も消して書き直した。最後の一文だけは残した。

送信ボタンを押した瞬間、後悔が押し寄せた。

取り消す方法を探して画面をいじっているうちに、手の中でスマートフォンが短く震えた。

『とんでもないです。こちらこそ、突然不躾なことを申しました。気にしないでください』

数秒後、もう一通。

『豆、家の者が喜んでいたようです。台所のメモに、朝、いい匂いがしたと書いてありました。中村さんが教えてくださった挽き方のおかげです』

由美は、便座の蓋の上で、膝を抱えるようにして画面を見つめた。温かく、穏やかな文面だった。そのたった二通が、ささくれ立った心の表面を、指の腹でそっと撫でていくようだった。

気がつくと、目の縁が熱くなっていた。泣くほどのことではない。そう自分に言い聞かせながら、由美は長いあいだ、トイレの小さな換気扇の回る音を聞いていた。

◇

翌朝、炊飯器のハミングは、いつもと同じ時刻に鳴った。

由美は弁当を二つ詰め、洗濯機を回し、トーストを焼いた。手順は何ひとつ狂わなかった。狂わないことが、かえって自分を遠くに感じさせた。

健司は、ネクタイを首にかけたまま降りてきた。ダイニングの入口で一度立ち止まり、台所に立つ由美の背中を見ているのが分かった。

「コーヒー、もらえる?」

「はい」

カップを置くと、健司はそれを両手で包むように持った。いつもならすぐにスマートフォンを取り出すのに、今朝はそうしなかった。

「……昨日は」

健司が言いかけた。由美は、その続きを聞くのが怖かった。謝られたら、許さなければならない。言い訳をされたら、また怒らなければならない。どちらの準備も、今の自分にはできていなかった。ポケットの中のスマートフォンには、夜中に届いた二通のメッセージが、まだ温かいまま残っている。

「翔太、お弁当忘れないでね」

由美は、健司の言葉にかぶせるように、階段の上に向かって声を張った。二階から「分かってる」とくぐもった返事が降ってくる。

健司は口を閉じ、コーヒーを一口飲んで、立ち上がった。

「いってきます」

「いってらっしゃい」

玄関のドアが閉まる音を聞きながら、由美は、言葉を遮ったのは自分のほうだったと気づいていた。

◇

そこから、二人のメッセージのやりとりが始まった。

最初は、ほとんどがコーヒーの話だった。

『今朝は少し粗めに挽いてみました。家の者のメモによると、前のほうが好きだそうです』

『では、次は中間でお試しください。粗すぎると、酸味が前に出るので』

『なるほど。奥が深いですね』

やりとりは、いつも夜の十一時を過ぎてからだった。家族が寝静まり、洗濯機の最後の脱水が終わった後。由美は台所の明かりを小さく落とし、ダイニングの椅子に座って、画面を開く。返信は、いつも十分ほどで来た。早すぎも遅すぎもしない、そのリズムが、由美には心地よかった。

一週間ほど経つと、話題は徐々に、コーヒーの外へ広がっていった。

『いつも読んでいらっしゃる文庫本、何の本なんですか?』

由美が思い切って尋ねると、返信は珍しく三十分近く来なかった。やがて届いたメッセージは、それまでより長かった。

『古い詩集です。もともとは家内のもので、学生の頃に読んでいたものだそうです。背表紙の角に、鉛筆で家内の名前が書いてあります。佳代、と。息子がこの春、北のほうの大学に進学して家を出まして、部屋を片付けていたら出てきました。家内は病院で看護師をしていて、ここ数年は夜勤が中心なので、私が帰る頃に出ていって、私が出る頃に帰ってきます。家の中に一人でいると、なんとなく読み返してしまって。何が書いてあるのか、半分も分からないんですが』

家内。息子。夜勤。入れ違い。

由美は、あの「家の者が早いもので」という言葉を思い出した。やはり、そうだったのだ。胸の奥のどこかで、小さな扉が閉まる音がした気がした。けれど、閉まった扉の向こうから、別の感情がにじみ出してくる。この人も、同じ家の中で、同じように一人なのだ。

『お店にいらっしゃるのは、お仕事の合間だったんですね』

『ええ。寄り道をしないたちなので、あの店が、ほとんど唯一の寄り道でした。自分でも、そうとは思っていませんでしたが』

それから、由美も自分のことを話すようになった。ホテルのラウンジで働いていた頃のこと。美咲の「お母さんの好きな色は?」という問いに、まだ答えられないでいること。翔太の「なら、いいじゃん」。黒板に何を書こうか考える朝の時間が、好きだということ。

美咲の問いを打ち明けた夜のことを、由美はよく覚えている。

『娘に、好きな色を聞かれて、答えられませんでした。四十三にもなって、おかしいですよね』

返信は、いつもの十分より少し早かった。

『おかしいでしょうか。私は、好きな食べ物を聞かれても困ります。ただ、文面を拝見して、困っていらっしゃるのが、少し嬉しそうに読めました。違いましたか』

由美は、画面の前で手を止めた。嬉しそう、などと書いただろうか。書いていない。書かなかったのに、読まれていた。頬が熱くなって、慌てて麦茶を一口飲んだ。

『違わないです。……嬉しかったんだと思います。誰かに、聞かれたことが』

『それなら、答えはきっと出ますよ。急がなくても』

その夜の終わりに、田中は一篇の詩を送ってきた。例の詩集のなかで、いちばん意味が分からないのに、いちばん読み返してしまう一節だという。

『言えなかった言葉は

 しまわれた季節のように

 いつか袖口から匂う』

『家内がどういうつもりで線を引いたのかは、分かりません。でも、袖口、というところで、いつも手が止まります』

由美は、美咲のブラウスの袖口を思い出した。青と黄色が混ざりきらずに、小さな緑になっていた袖口を。

『私も、止まりました』と打ってから、一行足した。『言えなかった言葉って、どこにしまえばいいんでしょうね』

返信は、少し間があって届いた。

『しまっておけるうちは、まだ、いいのかもしれません。袖口に出るまでは』

ある晩、由美は、ずっと言えずにいた朝のことを書いた。

『初めてご連絡した翌朝、夫が何か言いかけたんです。謝ろうとしたのかもしれません。私は、子供の名前を呼んで遮りました』

『なぜ、遮ったのですか』

『分かりません。謝られたら、許さなければいけなくなるのが、怖かったのかもしれません』

『許したくない気持ちは、あっていいと思います』

由美は、その一行を長いあいだ見つめていた。許したくない気持ちは、あっていい。健司に言ってほしかったのは、もしかすると、そういう言葉だったのかもしれない。それを言ってくれたのが夫ではなく、画面の向こうの人だということが、嬉しくて、そして、取り返しがつかないほど寂しかった。

おやすみなさい、と最初に打ったのは、どちらだっただろう。気づけば、それが一日の最後の言葉になっていた。

『中村さんは、どう思ったんですか』

田中はよく、そう尋ねた。由美が出来事を話すと、感想を言う前に、まず由美自身の気持ちを聞いてきた。

『娘さんにそう言われて、どう思ったんですか』

『黒板に何を書くか決めたとき、どんな気分でしたか』

そんなふうに尋ねられたのは、いつ以来だろう。健司は由美の話に、いつも結論を返した。「それは先生に言ったほうがいい」「そんなの気にしなくていい」「で、どうするの」。間違ってはいなかった。けれど、由美が本当に欲しかったのは、結論ではなかったのだ。

田中は聞き上手だった。由美の話を否定せず、先回りもせず、ただ受け止めてくれた。見返りを求められることもなかった。会いたいとも、声を聞きたいとも、一度も言われなかった。それが由美を安心させ、同時に、じわじわと深みへと誘っていった。

スマートフォンの画面に並ぶ吹き出しは、いつしか由美にとって、誰にも邪魔されない聖域になっていた。

一方で、奇妙なことに、田中は店に来なくなった。

いや、来なくなったわけではない。週に三度だったのが、一度になった。来ても、以前のように一時間本を読むことはなく、ブレンドを一杯だけ飲んで、二十分ほどで帰っていく。コーヒーを出すとき、由美は彼の顔をまっすぐ見られなかった。彼もまた、深く頷いて「ありがとう」と言うとき、視線をカップの縁に落としていた。

夜の画面の中ではあれほど言葉を交わしているのに、昼の店の中では、二人は以前よりも他人だった。その落差が、由美には恐ろしかった。自分たちが、昼の光の下には出せないものを抱えてしまっているのだと、はっきり分かってしまうからだ。

ある水曜日の午後、田中が久しぶりに窓際の奥の席に座っていたとき、小池さんが買い物カートを押して入ってきた。

「あら、今日はあの方もいらっしゃるのね。静かな方よねえ、いつも本読んで」

小池さんは、由美がぬるめのカフェオレを運ぶと、声をひそめるでもなく言った。田中の肩が、ほんのわずかに動いたのが見えた。

「うちの紫陽花ね、とうとう色がつかないまま、茶色くなっちゃいそうなの。雨が降らないとね、花も咲きようがないのよ」

「本当に、降りませんね」

由美は相槌を打ちながら、窓際の背中を見ないようにした。見ないようにすればするほど、そこにいることが、皮膚の表面で分かった。

田中は二十分ほどで立ち上がり、会計に来た。

「ごちそうさまでした」

「ありがとうございました」

いつもの言葉。いつもの金額。釣り銭を渡すとき、指先が触れないように、由美はトレーを使った。これまで一度も使ったことのない、小さな木のトレーだった。田中は一瞬それを見て、何も言わずに釣り銭を受け取った。

ドアのベルが鳴ったあと、小池さんがカップを置いて、しみじみと言った。

「中村さん、あの方の前だと、ちょっと緊張してるみたいね」

「そうですか?」

「ええ。私、若い頃に和裁の先生をしてたの。人の肩の線を見るのが仕事みたいなものだったから、分かるのよ」

小池さんはそれ以上何も言わず、カフェオレの残りをゆっくり飲んだ。由美は布巾を握りしめたまま、自分の肩に力が入っているのを、そのとき初めて感じた。


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