せせらぎの窓
「カフェ・せせらぎ」が開店したのは、四月の第二金曜日だった。
朝九時半、由美は店の奥の小さな更衣スペースで、生成りのエプロンの紐を結んだ。指先がぎこちなく、蝶結びの輪が左右で大きさの違うものになった。結び直そうとして、また失敗する。三度目に、晶子が後ろから手を伸ばして、きゅっと締めてくれた。
「緊張してる?」
「してる。晶子は?」
「してるに決まってるでしょ。さっきから三回トイレ行った」
二人で顔を見合わせて笑い、晶子が入口のガラス戸に下げた札を「OPEN」にひっくり返した。十時ちょうど。路地に面した大きな窓から、雨の気配のない乾いた春の光が差し込み、柿渋色の床に窓枠の影を落としていた。
最初の三十分、客は一人も来なかった。晶子はマシンの抽出口を布巾で拭き続け、由美はカウンターの上のシュガーポットの向きを何度も揃えた。
十時四十分、ガラス戸の上の真鍮のベルが鳴った。
入ってきたのは、白髪をきちんとまとめた小柄な老婦人だった。手押しの買い物カートを戸口の脇に置き、店の中を珍しそうに見回している。
「いらっしゃいませ」
声が出た。自分でも驚くほど、自然な声だった。ホテルのラウンジで、毎日何十回も口にしていた言葉。十五年ぶりに、喉のどこかにしまわれていた引き出しが、するりと開いたようだった。
「ここ、前は印刷屋さんだったのよね。表の貼り紙を見て、気になってたの」
「はい。今日からなんです。よろしければ、窓際の明るいお席か、奥の落ち着いたお席、どちらでも」
老婦人は窓際を選んだ。由美はメニューを差し出しながら、彼女が椅子に腰を下ろすとき、右の膝をかばうように体を傾けたのに気づいた。
「カフェオレをいただこうかしら。でも私、猫舌でね」
「では、ミルクを少しぬるめにしてお持ちしますね。熱すぎたら、遠慮なくおっしゃってください」
カウンターに戻ると、晶子が目だけで「すごい」と言っていた。由美はスチームの音に耳を澄ませ、いつもより早めにミルクを止めた。
老婦人は小池さんといった。近所で一人暮らしをしていて、毎朝、商店街の八百屋まで歩くのが日課なのだという。カフェオレを飲み終えると、「ちょうどよかったわ」と言い、それから「また来るわね」と言った。
その日、店に来た客は十一人だった。晶子の計算では、損益の分かれ目にはほど遠い数字だった。それでも、閉店後にカウンターの内側で並んで座り、自分たちのためにコーヒーを淹れたとき、晶子は「十一人も来てくれた」と言った。由美も、同じことを思っていた。
◇
二週目の火曜日、小池さんはまた来た。
「いらっしゃいませ、小池さん。いつものカフェオレ、ぬるめでよろしいですか?」
小池さんは一瞬目を丸くして、それから、少女のように頬をほころばせた。
「覚えててくれたの」
「はい。右のお膝、今日は大丈夫ですか? 窓際の、入口に近いお席が空いてますよ」
名前を覚えるのは、昔から得意だった。顔と、声と、最初に頼んだものと、座り方。それを一つの絵のようにして頭の中に留めておくと、次に会ったとき、絵のほうから名前を教えてくれる。ホテル時代に身についたこの癖が、十五年の空白を経ても消えていなかったことに、由美自身が一番驚いていた。
三週目には、常連と呼べる顔がいくつかできていた。平日の午後にノートパソコンを抱えてやってきて、ブレンドのおかわりを必ず頼む大学生の岡本くん。ベビーカーを押して、授乳の合間に一杯だけ飲んでいく若い母親の真理子さん。昼休みに十五分だけ寄って、たまごサンドを立ったまま頬張っていく郵便局の配達員さん。
ある朝、由美は思い切って晶子に言った。
「ねえ、入口の横に、小さい黒板を置けないかな」
「黒板? メニュー書くの?」
「メニューは中にあるから、そうじゃなくて。今日の天気とか、豆の話とか、ひとことだけ。路地を通る人が、ちょっと足を止めてくれるような」
晶子はしばらく考え、それから倉庫代わりの奥の棚をごそごそと探って、印刷屋時代の置き土産らしい、枠の傷んだ黒板を引っ張り出してきた。
「これ、使えるかな」
「使える。拭けば大丈夫」
由美はその日の朝、白いチョークで書いた。
『きょうも雨はおやすみ。
冷たいカフェオレ、はじめました。
のどの渇いた方、どうぞひと休みを』
字を書くのは久しぶりで、行の終わりが少し右下がりになった。それでも、昼までに三人の客が「表の黒板を見て」と言って入ってきた。
黒板は、それから由美の仕事になった。火曜日と水曜日と金曜日の朝、エプロンを結んだあとに、チョークを一本手に取る。何を書こうか考える時間が、由美は好きだった。書いてから、自分が何かを「好き」だと思ったことに、ふと気づいた。
数週間が経つ頃には、由美は「カフェ・せせらぎ」の真ん中にいた。小池さんは、由美のいない木曜日には来なくなった。岡本くんは、就職活動の面接の前に「中村さん、ネクタイ曲がってないですか」と聞くようになった。
ある日、会計のときに真理子さんが言った。
「中村さんと話すと、なんだか一日ちゃんとやれそうな気がするんです」
晶子がカウンターの奥で、得意げに胸を張った。
「でしょう? うちの看板だからね。この人の明るさと、なんかほっとさせる感じ。私は最初から分かってたの」
「晶子、やめてよ」
由美は顔が熱くなるのを感じた。妻でも母でもなく、一人の人間として必要とされること。それは、洗い上がった洗濯物を畳み終えたときの満足とも、子供たちが弁当箱を空にして帰ってきたときの安堵とも違う、もっと直接的な、肌に触れるような喜びだった。
◇
五月の連休が明けた頃、由美は仕事を終えて家に帰り、台所に立って、首をかしげた。
炊飯器の表示が「保温」になっている。由美は朝、米を研いでいなかった。店の仕入れの手伝いで早く家を出なければならず、夕方に帰ってから炊けばいいと思っていたのだ。
蓋を開けると、白い湯気と一緒に、少し柔らかすぎる匂いが立ちのぼった。しゃもじを入れると、ご飯は粥の一歩手前のように、べたりと釜の底にまとわりついた。
「それ、お父さん」
いつの間にか、美咲が台所の入口に立っていた。
「お父さんが?」
「朝ね、お母さんが出たあと、お父さんがお米研いでた。タイマーの使い方分かんないって、スマホで調べてたよ」
由美は釜の中のご飯を見つめた。水の量が、明らかに多い。目盛りの読み方を間違えたのだろう。健司が台所に立つのは、子供たちが小さかった頃、由美がインフルエンザで寝込んだとき以来ではないだろうか。
その夜、健司は珍しく九時前に帰ってきた。
「ご飯、ありがとう」
由美が言うと、健司は上着を脱ぎながら、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「ああ……。水の量、あれで合ってた?」
「ちょっと多かった。でも、チャーハンにしたら、ちょうどよかった」
「そうか」
健司は食卓に並んだチャーハンを見て、ほんのわずか口元を緩めた。それから、何か言いたそうに由美の顔を見た。由美も、何か言おうとした。店のこと。小池さんのこと。黒板のこと。
けれど、その瞬間に健司のスマートフォンが震えた。画面を見た健司の顔から、緩みがすっと消える。
「悪い。ちょっと電話」
健司はリビングを出て、廊下の暗がりで低い声で話し始めた。「ですから、その件は来週の会議で」「いえ、私のほうから説明を」。由美はチャーハンの皿にラップをかけながら、言いかけた言葉を、また一つ喉の奥にしまった。
柔らかすぎるご飯のことを、由美はその後もたびたび思い出した。ありがとうとは言えた。けれど、ありがとうの先にあるはずの会話には、とうとう辿り着けなかった。
◇
その週の土曜日、由美は美咲を連れて「せせらぎ」に行った。シフトの日ではなかったが、晶子が「美咲ちゃん連れておいでよ、ココア作ってあげる」と言ってくれたのだ。
翔太は部活で、健司は「会社の資料を片付ける」と言って書斎代わりの寝室にこもっていた。
土曜日の店は、平日とは客の顔ぶれが違った。若い夫婦や、犬を連れた散歩帰りの人や、自転車のヘルメットを抱えた中年の男性たち。晶子は一人でカウンターを回していて、その背中が忙しそうだった。
美咲はカウンターのいちばん端の椅子によじ登り、晶子が作ってくれたココアの上のマシュマロを、スプーンでつついた。それから、持ってきたスケッチブックを開いて、店の中を描き始めた。
「お母さん、ちょっとだけ手伝おうか?」
由美が小声で聞くと、晶子は拝むように片手を立てた。
「ごめん、洗い物だけお願いできる?」
由美はカウンターの内側に入り、エプロンをつけずに袖をまくって、シンクに溜まったカップを洗い始めた。洗いながら、入口のベルが鳴るたびに顔を上げて、「いらっしゃいませ」と言った。口が勝手に動いた。
三十分ほどして洗い物が片付き、美咲の隣に戻ると、スケッチブックには、店の絵が描かれていた。梁から下がる鉢植え、窓際の細長い席、黒板。そして、カウンターの内側で、誰かに向かって笑っている女の人。袖をまくり、髪を後ろで一つに結んでいる。
「これ、お母さん?」
「うん」
美咲は色鉛筆の先を舐めて、女の人の頬に薄いピンクを塗った。
「お母さんね、お店だと顔がちがう」
「どう違うの?」
美咲は首をかしげて、しばらく考えた。
「なんか、明るい。家だと、いつも何か探してる顔してる」
由美は返事ができなかった。十一歳の娘は、色鉛筆を持ち替えながら、それ以上何も言わなかった。責めているのではない。ただ、見たままを言っただけだ。そのことが、かえって胸の奥に深く届いた。
いつも何か探している顔。探しているのは、忘れ物なのか、自分なのか。
帰り道、美咲は由美の自転車の後ろを、自分の自転車で一生懸命についてきた。夕方の路地に、二人分のタイヤの音が、からからと乾いて響いた。
その夜、風呂上がりの翔太が、冷蔵庫の前で麦茶を飲みながら、珍しく由美に話しかけてきた。
「母さん」
「なに?」
「店、楽しいの?」
由美は食器を拭いていた手を止めた。翔太は冷蔵庫の扉を開けたまま、中の明かりに顔を照らされて、こちらを見ていなかった。
「……うん。楽しい」
「ふーん」
翔太は麦茶のボトルを戻し、冷蔵庫の扉を閉めた。台所がふっと暗くなる。
「なら、いいじゃん」
それだけ言って、翔太は階段を上がっていった。由美は拭きかけの皿を手に持ったまま、しばらくその場に立っていた。いつの間にか自分より背の高くなった息子の、ぶっきらぼうな「いいじゃん」が、布巾の湿り気のように、手のひらにいつまでも残っていた。
◇
そんな常連客の中に、田中と名乗る男性がいた。
最初に来たのは、開店から三週目の水曜日だった。四十代の後半だろうか、いつも濃紺かチャコールグレーのスーツ姿で、午後二時過ぎにやってきて、窓際のカウンター席の、いちばん奥の椅子に座る。注文はいつもブレンドを一杯、ブラックで。鞄から取り出すのは、どこかの書店の紙カバーがかかった文庫本で、カバーの角は擦り切れて丸くなっていた。
彼は余計なことを話さなかった。由美がコーヒーを出すと、本から顔を上げ、いつも同じように、ゆっくりと深く頷いて「ありがとう」と言った。低く、少しかすれた、不思議に落ち着いた声だった。
飲み終えたカップは、いつもソーサーごとカウンターの端に寄せられていた。スプーンはソーサーの手前に、柄をこちらに向けて。まるで、下げる人の手間を先に考えたように。由美は、そういう置き方をする客をホテル時代に何人か見たことがあった。たいていは、自分も誰かの後始末を長くしてきた人だった。
名前を知ったのは、ポイントカードを作ったときだった。晶子が開店一か月を記念して始めたスタンプカードの名前欄に、彼は角ばった字で「田中」とだけ書いた。
「田中さん、いつもありがとうございます」
由美がそう呼びかけると、彼はわずかに驚いたように眉を上げ、それから、ふっと目元を和らげた。
「……覚えていただけるとは」
「常連さんですから」
それ以上の会話はなかった。彼は一時間ほど本を読み、午後三時の少し前に席を立つ。由美のシフトが終わるのと、ほとんど同じ時刻だった。
一度だけ、由美は彼の本の表紙を盗み見たことがある。紙カバーがずれて、下から、色の褪せた文庫の背表紙がのぞいていた。題名までは読めなかったが、背表紙の角に、鉛筆で小さく書かれた名前の一部が見えた。「佳」という字。持ち主の名前だろうか。古本で買ったものなのか、それとも。由美は余計な詮索だと自分をたしなめ、視線を逸らした。
◇
五月の半ばの水曜日、午後の店内には、田中と由美のほかに誰もいなかった。晶子は豆の仕入れ先との打ち合わせで出かけていた。
窓の外の路地では、乾いた風が砂埃を巻き上げていた。四月から数えて、畑や庭を潤すような雨はまだほとんど降っていない。小池さんが「うちの紫陽花、蕾が硬いまんまなのよ」とこぼしていたのを、由美は思い出した。
三時少し前、田中が本を閉じ、いつものようにカップをカウンターの端に寄せて立ち上がった。会計を済ませ、ドアの取っ手に手をかけたところで、彼は珍しく振り返った。
「ここは、いつも穏やかでいいですね」
「ありがとうございます。店長が、ずいぶんこだわって作ったお店なので」
田中は小さく首を振った。
「あなたがいるからかな」
その言葉は、店全体に向けられたものではなかった。明確に、由美一人に向けられていた。
ドアのベルが鳴り、田中の背中が路地の光の中に消えていく。由美はレジの前に立ったまま、自分の心臓が小さく音を立てるのを聞いていた。明け方四時の、あの意味のない早鐘とも違う。黒板を書き終えたときの、手応えのある鼓動とも違う。もっと小さく、もっと奥のほうで、長いあいだ閉じられていた扉が、蝶番をきしませたような音だった。
妻として、母として、町内会の係として、十五年間呼ばれ続けてきた自分が、今、一人の女性として見られた。
由美は布巾を手に取り、田中が座っていた席のカウンターを拭いた。そこには何も汚れはなかった。
◇
その数日後の金曜日、田中は会計の際に、ごく自然な口調で言った。
「もしよろしければ、連絡先を交換しませんか。時々、お店のイベントなどがあれば知りたいので」
彼はスーツの内ポケットに手を入れかけていた。スマートフォンを取り出すつもりなのだろう。その提案は丁寧で、ビジネスライクにも聞こえた。
しかし、由美の中では警報が鳴り響いていた。これは一線だ。踏み越えてはいけない領域への、小さな入り口。
「申し訳ありません。お店のお知らせは、表の黒板と、店長のほうでまとめておりますので。私個人では、ちょっと」
彼女は、ホテル時代に身につけた完璧な笑顔で、しかしきっぱりと断った。
田中は内ポケットから手を抜き、意外そうな顔をした。それから、すぐに表情を戻して、深く頭を下げた。
「失礼しました。……不躾でした」
ドアのベルが鳴る。由美は、自分の笑顔が顔に張りついたまま、しばらく剥がれないのを感じていた。
カウンターの奥で、晶子がエスプレッソの抽出を見守りながら、ちらりとこちらを見た。そのときは、何も言わなかった。
その日は翔太も美咲も帰りが遅い日だったので、由美は閉店までシフトを延ばして、片付けを手伝った。晶子と二人で床にモップをかけ、椅子を逆さにしてテーブルに上げる。窓の外では、路地の電柱に明かりが灯り始めていた。
「さっきの人、断ったんだ」
モップの柄に顎を乗せて、晶子が言った。
「……聞こえてた?」
「聞こえてた。狭い店だもん」
由美は椅子を持ち上げる手を止めなかった。
「だって、困るでしょう。お店の人が、お客さんと個人的に連絡取り合うなんて」
「うん。えらいと思う。ちゃんとしてる」
晶子はモップを動かし始め、床の同じ場所を何度も往復させた。
「でもね、由美。断ったあと、ちょっと嬉しそうな顔してたよ」
「してない」
「してた。高校のとき、バスケ部の先輩に消しゴム拾ってもらったときと同じ顔」
「覚えてないわよ、そんなの」
由美は笑ってみせたが、声がかすかに裏返った。晶子はそれ以上追及せず、「まあ、いいけど」と言って、モップをバケツに突っ込んだ。水が跳ねて、柿渋色の床に黒い点々を作った。
「私、そういう顔、ちょっとだけ知ってるから」
晶子がぽつりとそう付け加えたとき、由美は聞き返そうとした。けれど晶子はもう背を向けて、バケツの水を流しに捨てに行っていた。排水口に吸い込まれていく水の音が、狭い店の中にやけに大きく響いた。
◇
翌週の火曜日、田中は来なかった。
水曜日も来なかった。由美は窓際のいちばん奥の席に目をやるたびに、自分が何を確かめているのかを考えないようにした。断ったのだから、来なくなるのは当然だ。むしろ、それでいい。そう思いながら、黒板にチョークで書く文字が、いつもより小さくなった。
金曜日の午後二時過ぎ、ドアのベルが鳴った。
田中だった。濃紺のスーツ。擦り切れた紙カバーの文庫本。彼はいつもの席に座り、いつものようにブレンドを頼んだ。由美がコーヒーを運ぶと、いつものように深く頷いて「ありがとう」と言った。先週のことなど、何もなかったかのように。
由美は、自分の肩から力が抜けていくのを感じた。安堵なのか、落胆なのか、自分でも分からなかった。
三時少し前、田中はレジの前に来て、財布を出しながら言った。
「こちらの店のブレンド、豆で売っていただくことはできますか」
「はい。ご予約いただければ、来週にはお渡しできます。二百グラムからになりますが」
「では、それでお願いします。……家で、朝に飲むもので」
家で、朝に。その言い方には、誰かのために、という響きがかすかに混じっていた。由美はそれに気づかないふりをして、レジの下から取り置き票の綴りを取り出した。晶子が問屋から仕入れた、二枚複写の伝票だった。上の一枚が店の控え、下の一枚がお客様控え。
「こちらに、お名前とご連絡先をお願いします。入荷したらご連絡しますので」
田中は伝票を受け取り、胸ポケットのボールペンで書き込んだ。角ばった、少し右に傾いた字。
『田中 修一 090-××××-××××』
名前の下の名前を、由美はこのとき初めて知った。
書き終えた田中が伝票を返そうとしたとき、彼のスーツの内ポケットでスマートフォンが震えた。画面を見た彼の顔が、仕事のときの顔に切り替わるのが分かった。
「すみません、会社から。……控えは、次に来たときで」
田中は財布をしまうのももどかしげに、電話を耳に当てながら店を出ていった。ドアのベルが、慌ただしく二度鳴った。
由美の手の中には、複写の伝票が残っていた。店の控えを綴りに戻し、お客様控えの薄い一枚を切り離す。次に来たときに渡せばいい。そう思って、由美はそれを二つに折り、エプロンの胸ポケットに入れた。
◇
その夜、由美はいつものように家族の洗濯物をネットに分け、最後に、店のエプロンを洗濯機に入れようとした。エプロンは店で洗ってもいいのだが、晶子の手間を減らしたくて、由美はいつも家に持ち帰っていた。
ポケットを確かめる習慣は、子供たちのティッシュで何度も痛い目に遭ってから身についたものだった。胸ポケットに指を入れると、薄い紙の感触があった。
二つ折りの、取り置き票のお客様控え。
複写の青いインクで、角ばった字が写っている。田中修一。そして、十一桁の数字。
由美は洗面所の明かりの下で、その紙をしばらく見つめていた。空になったエプロンを洗濯槽に落とす。蓋は開けたままで、スイッチはまだ押していなかった。
次に来たとき、渡せばいい。店に持っていけばいい。それなら、店の引き出しに入れておけばいいはずだ。そうすれば、忘れずに済む。
それなのに、由美はその紙を店のエプロンのポケットには戻さなかった。
寝室に上がり、鏡台のいちばん上の小さな引き出しを開けた。結婚指輪の箱と、子供たちのへその緒と、ホテル時代の古い名札がしまってある引き出しだった。由美は二つ折りの紙を、ハンカチの下に、そっと滑り込ませた。
なぜそうしたのか、自分でも説明できなかった。捨てることもできた。店に置いてくることもできた。けれど、今この紙を手放したら、あの「あなたがいるからかな」という声まで、一緒に手放してしまうような気がした。
引き出しを閉める。小さな真鍮の取っ手が、指先に冷たかった。
そのとき、階下で、洗濯機が回り始める音がした。健司が、蓋を閉めてスイッチを押してくれたのだろう。由美は階段の上で足を止め、その規則正しいハミングを聞いていた。家族というシステムは、今夜も、何事もなかったように回り続けている。
◇
豆が入荷したのは、翌週の月曜日だった。晶子が店の電話から、取り置き票の番号に連絡を入れてくれた。
火曜日の午後二時過ぎ、田中はいつものようにやってきて、いつもの席でブレンドを飲み、三時少し前にレジの前に立った。由美は、晶子が袋詰めしてくれた二百グラムの豆を、紙袋に入れて差し出した。
「お待たせいたしました。『せせらぎ』のハウスブレンドです。中煎りなので、朝に飲まれるなら、少し細かめに挽いていただくと香りが立ちます」
「ありがとう。……助かります」
田中は紙袋を受け取り、中の豆の匂いを確かめるように、口をわずかに開けて鼻を近づけた。その仕草が、思いがけず無防備に見えた。
「あの、先日のお客様控えなんですが」
由美は言いながら、自分の声が上ずっていることに気づいた。控えは、鏡台の引き出しの中にある。持ってきていない。持ってこなかったのだ。
田中は、ああ、と思い出したように首を振った。
「あれは、もう結構です。処分してください」
「……かしこまりました」
由美は頭を下げた。処分してください。その言葉に従えば、それで終わる話だった。
「朝は、家の者が早いもので」
会計を済ませたあと、田中は聞かれてもいないのに、ぽつりとそう言った。
「私が出る頃には、もう入れ違いで。せめて、帰ってきたときに、いい匂いがしていればと思いまして」
家の者。入れ違い。由美は、その言葉の意味を深く考えないようにした。考えれば、何かが確かになってしまう気がした。確かになることで、安心するのか、それとも胸の奥のどこかが小さく痛むのか、由美には分からなかった。
「きっと、喜ばれますね」
由美がそう言うと、田中は紙袋を胸に抱えたまま、困ったように笑った。
「どうでしょう。……そうだと、いいんですが」
ドアのベルが鳴り、田中の背中が路地の光の中に消えていく。由美はレジの引き出しを閉め、処分してください、という言葉を、もう一度だけ胸の中で繰り返した。
その夜、由美は鏡台の引き出しを開けなかった。開けなかったが、捨てもしなかった。




