第一章 好きな色を忘れた朝
火曜日の朝は、いつも同じ音で始まる。炊飯器が蒸気を排出する、低くこもったハミング。洗濯機が最後の脱水工程に入る前の、ためらうような間。遠くで聞こえるカラスの鳴き声。結婚して十五年、この郊外の小さな家に越して十年、中村由美の朝は、精密な機械のように繰り返されるルーティンで構成されていた。四十三歳。二人の子供の母。平凡な会社に勤める夫、健司の妻。彼女の世界は、単調だが、満ち足りていた。少なくとも、由美自身はそう信じようとしていた。
アイロンがけされた健司のシャツをハンガーにかける。彼のワイシャツの襟元には、由美の知らない会社の匂いがかすかに残っている。コピー機のトナーと、誰かの煙草と、エレベーターの中の空気が混ざったような匂い。長男の翔太のサッカーのユニフォームは泥で汚れ、長女の美咲のブラウスには絵の具の染みがついている。青と黄色が混ざりきらずに、袖口で小さな緑になっていた。それらを洗濯カゴに放り込みながら、由美は自分が家族というシステムの、目立たないが欠かせない歯車であると感じる。
トーストとコーヒーの香りがダイニングに満ちる頃、家族が一人、また一人と起きてくる。
最初に降りてくるのは、いつも美咲だった。この春から小学五年生になる。寝癖のついた髪を片手で押さえながら、もう片方の手に画用紙を丸めて持っている。
「お母さん、おはよう」
「おはよう。髪、あとで結んであげるから、先に顔洗っておいで」
美咲は返事の代わりに、丸めた画用紙をテーブルに置いた。広げると、まだ下書きの鉛筆線しかない、人の顔の輪郭が四つ並んでいた。
「図工の宿題でね、『家族の好きなもの』っていう絵を描くの。だからね、聞いておかなきゃいけないの」
美咲は鉛筆を耳に挟んで、学校の先生のような顔をした。
「お兄ちゃんはサッカーでしょ。お父さんは、ビール」
「お父さんが聞いたら泣くわよ」
「だって本当だもん。お母さんは? お母さんの好きな色、なに?」
由美はトースターのつまみを回していた手を止めた。好きな色。そんな質問をされたのは、いつ以来だろう。カーテンの色は健司と一緒に選んだ。食器は割れにくいもの、服は汚れが目立たないもの。子供たちの上履き袋の色なら、すぐに答えられる。翔太は紺、美咲は水色。
「うーん……みんなが好きな色、かな」
「そういうのじゃなくて」
美咲は唇を尖らせた。由美は笑ってごまかし、焼けたパンを皿に移した。答えは、パンの焦げ目のように胸の中に小さく残った。
翔太は、階段を降りてくるなり冷蔵庫を開け、牛乳をパックのまま飲もうとして、由美の視線に気づいてコップを出した。この春から中学二年生。この冬あたりから、急に声が低くなった。
「今日、練習試合だから遅くなる」
「お弁当、二つ作ってあるから。水筒も」
「ん」
その「ん」の中に、ありがとうが含まれているのかどうか、由美にはもう分からなかった。分からなくても、弁当は毎朝作られ、水筒は毎朝満たされる。
健司は最後に、ネクタイを首にかけたまま降りてきた。四十五歳。住宅設備を扱う会社の営業課長。目の下の影が、この冬のあいだに一段濃くなった気がする。
「コーヒー、もらえる?」
「はい」
健司は新聞を広げず、スマートフォンの画面を親指で送り続けていた。仕事のメールだろう。眉間に縦の皺が一本、刻まれたまま動かない。
「今日、遅くなる。夕飯はいらない」
「分かった。……あ、翔太の春休みの遠征、お弁当いるって。カレンダーに書いておいたから」
「ああ」
おはよう、いただきます、いってきます。短い言葉の交換が、一日の始まりを告げる。玄関のドアが三回開いて、三回閉まった。それは由美が長い時間をかけて築き上げた、安全で居心地の良い場所だった。
◇
家族を送り出し、一人きりになった家は、広すぎて音がなかった。
リビングの窓から差し込む陽光が、宙に浮いた埃をきらきらと照らし出す。由美は掃除機を手に取る前に、洗面所の鏡の前に立った。そこに映る顔は、見慣れているはずなのに、時折、他人のように感じられることがあった。目尻の浅い皺、頬の張りがじわじわと下に移っていく感じ。これは「母親」の顔であり、「妻」の顔だ。では、「由美」という一人の女性の顔は、どこへ行ってしまったのだろうか。
最近、明け方の四時に目が覚める。夢を見ていたわけでもないのに、胸の奥で心臓が早足になっていて、天井の暗がりをじっと見つめているうちに、新聞配達のバイクの音が聞こえてくる。昼間、二階に何かを取りに上がって、階段の途中で何を取りに来たのか忘れてしまう。冷蔵庫を開けて、閉めて、また開ける。そういうことが、この冬から増えた。
病院に行くほどのことではない、と由美は思う。熱もないし、どこも痛くない。ただ、体の内側に、乾いた土のような場所がある。雨を待っているのに、自分でもどこに水を注げばいいのか分からない場所。
掃除機をかけ終え、二階の寝室のクローゼットを整理していると、奥の衣装ケースから古い紙袋が出てきた。中には、薄いクリーム色のスカーフと、角の擦れた名札が入っていた。
『ラウンジ 吉岡由美』
独身の頃、由美は駅前のシティホテルでラウンジの接客をしていた。四年と少し。ピアノの生演奏が流れる、天井の高い場所だった。常連の老紳士がいつも同じ席に座ること、商談前の若い営業マンが水を二杯飲むこと、泣きはらした目の女性にはおしぼりを温かいものに替えること。そういうことを、誰に教わるでもなく覚えていった。翔太を身ごもったとき、立ち仕事がつらくなって辞めた。辞めるときには、支配人が小さな花束をくれた。
――吉岡さんがいると、ラウンジの空気がやわらかくなるんだよ。
そんなふうに言われたことがあったのを、由美は名札の角を指でなぞりながら思い出した。十五年以上前の話だ。スカーフを首に当ててみる。クリーム色は、今の自分の肌には少しくすんで見えた。由美は紙袋を元の場所に戻そうとして、戻さずに、ベッドの上に置いた。その夜、スカーフは衣装ケースに戻したが、名札だけは、鏡台のいちばん上の小さな引き出しにしまった。
◇
その日の午後、ダイニングで家計簿をつけていると、スマートフォンの着信音が静寂を破った。画面に表示された名前を見て、由美は思わず背筋を伸ばした。森川晶子。高校時代からの親友だった。
「由美? ねえ、聞いて! ついに、ついにカフェをオープンすることにしたの!」
電話の向こうで、晶子の声が弾んでいた。
「え、本当に?」
「本当に。物件、決まったの。駅の南側の、古い路地のとこ。元は小さな印刷屋さんだった店。来月の半ばにはオープンする」
晶子はパンの製造販売をしているチェーン店で二十年近く働き、五年前に離婚してからは、一人で暮らしながら少しずつお金を貯めていた。いつか自分の店を持ちたい。それは高校の文化祭で、クラスの喫茶店の看板を夜中まで描いていた頃から、彼女がずっと口にしていた夢だった。
「すごいじゃない、晶子! おめでとう!」
「ありがとう。それでね、お願いがあるんだけど……」
晶子の声が、急に小さくなった。
「お店、手伝ってくれないかな? 週に二、三日でもいいから。由美のあの明るさと、なんだか人をほっとさせる雰囲気、絶対にお店に必要だと思うの」
由美は、テーブルの上の家計簿に目を落とした。今月の食費の欄に、赤ペンで小さく「オーバー」と書いてある。
「私が? もう十年以上、家のことしかしてないのよ」
「知ってる。だから頼んでるの。私、コーヒーは淹れられるけど、お客さんの顔見て話すの、昔から下手でしょ。由美は違う。高校のとき、文化祭の喫茶店でさ、あんたが入口に立った途端に行列ができたじゃない」
「あれは、たまたま」
「たまたまが三日続くと、実力って言うの」
晶子の笑い声を聞きながら、由美はベッドの上に置いたままの紙袋のことを考えていた。
「……考えさせて」
「うん。急がない。でも、お店だけでも一度見に来てよ。明日、内装屋さんと打ち合わせで私いるから」
電話を切ったあとも、由美はしばらく受話口の温かさが残る手のひらを見つめていた。ためらいがあった。この完璧に管理された日常のリズムを崩すことへの恐れ。朝六時に起きて、弁当を二つ作って、洗濯機を二回回して、夕方五時には米を研ぐ。その一つでも欠けたら、家族の歯車がどこかで噛み合わなくなるのではないか。
しかし同時に、心の奥底で、乾いた土に一滴の雨が落ちたような、小さな疼きが広がっていくのを感じた。
◇
翌日の昼過ぎ、由美は自転車で駅の南側へ向かった。三月の風はまだ冷たく、ハンドルを握る指先がかじかんだ。商店街を抜けて一本裏に入ると、急に人の気配が薄くなる。古い木造の家と、シャッターの下りた店と、誰かが丹精しているらしい鉢植えの列。その路地の中ほどに、ガラス戸の一枚が外された、小さな店舗があった。
中に入ると、古い木と、インクと、新しい塗料の匂いがした。
「由美! 来てくれたんだ」
作業着姿の晶子が、脚立の上から手を振った。天井の梁がむき出しになっていて、そこに照明の配線が這わされている途中だった。床には養生シートが敷かれ、壁の一面だけ、白い漆喰が塗り終わっている。
「ここがカウンターになる予定。で、この窓際に、細長い一人席を作るの。本読んだり、ぼーっとしたりする人のために」
晶子が指さした先には、通りに面した大きな窓があった。窓ガラスは古く、ところどころに気泡が入っていて、外の景色がかすかに歪んで見える。その歪みが、なぜだか由美には懐かしかった。
「お店の名前は決めたの?」
「『せせらぎ』。カフェ・せせらぎ」
「せせらぎ?」
「うん。大きな川じゃなくて、小さい流れ。でも止まらない、みたいな」
晶子は脚立から降りて、まだ仮置きのカウンター板を撫でた。一枚板の、節のある木だった。
「私ね、離婚したとき、自分がどこにも流れていけない水たまりみたいだと思ったの。濁って、底が見えなくて。だから、せせらぎ」
由美は、カウンター板にそっと手のひらを置いた。ひんやりとした木肌が、ゆっくりと自分の体温で温まっていく。ここに立って、コーヒーを出して、誰かの顔を覚える。「いらっしゃいませ」と言う。ホテルのラウンジで毎日そうしていたように。
「晶子」
「ん?」
「火曜と水曜と金曜。朝の十時から、午後三時まで。それでいいなら」
晶子は目を丸くして、それから、子供のように両手で由美の手を握った。
「いいに決まってる!」
「子供たちが帰ってくる前には家に戻りたいの。あと、夏休みの間は、ちょっと考えさせて」
「全部オッケー。由美、ありがとう。本当に」
握られた手が熱かった。考えさせて、と答えた昨日から、答えはたぶん決まっていたのだと、由美は思った。決めたのは晶子ではなく、自分だ。そう思えたことが、思いがけず嬉しかった。
◇
夕食は、健司のいない三人の食卓だった。鶏の照り焼きと、菜の花のおひたしと、豆腐の味噌汁。翔太は部活でよほど絞られたらしく、無言のまま白飯を二杯かき込んだ。
「お母さんね、四月から、お友達のカフェでお仕事することにしたの」
由美がそう言うと、美咲の箸が止まった。
「カフェ? お母さん、お店の人になるの?」
「週に三日だけね。美咲が学校から帰ってくる前には、ちゃんと家にいるから」
「すごい! エプロンする? コーヒー作る? 美咲、行ってもいい?」
「お休みの日にね」
美咲は椅子の上で膝立ちになりかけて、慌てて座り直した。翔太は顔も上げずに、味噌汁の椀を持ち上げたまま言った。
「ふーん。弁当は?」
「作るわよ。今まで通り」
「なら、いいけど」
翔太はそれきり何も言わず、食器を流しに運んで二階に上がっていった。階段を上る足音が、いつもよりゆっくりに聞こえたのは、気のせいだったのかもしれない。
美咲は食べ終わってからも、由美の隣を離れなかった。
「ねえ、お母さんのお店の名前、なんていうの?」
「晶子おばちゃんのお店。『せせらぎ』っていうのよ」
「せせらぎ。川の音?」
「そう。小さい川の音」
美咲は画用紙を持ってきて、隅のほうに鉛筆で「せせらぎ」と書いた。それから、四つ並んだ顔の輪郭のうち、まだ何も描き込まれていない一つを指でとんとんと叩いた。
「じゃあ、お母さんの好きなもの、コーヒーにしとく?」
「そうねえ……」
コーヒーは、好きだ。けれど、それは朝の台所の匂いであって、自分だけの好きなものかと問われると、由美にはまだ分からなかった。
「もうちょっと、考えさせて」
「お母さん、昨日の朝もそうやってごまかした」
美咲に指摘されて、由美は声をあげて笑った。笑ったのは、久しぶりのような気がした。
◇
その夜、健司が帰ってきたのは十時を回ってからだった。子供たちはそれぞれの部屋に引き上げていて、リビングにはテレビの音だけが流れていた。
由美は健司の分だけ残しておいた味噌汁を温め直しながら、切り出した。
「ねえ。晶子、覚えてる? 高校の友達の」
「ああ、結婚式でスピーチしてくれた」
「そう。あの子が、カフェを開くの。それで、手伝ってほしいって。週に三日、昼間だけ」
健司は箸を持ったまま、しばらく黙っていた。
「……いいんじゃない。家のことに、支障がないなら」
支障がないなら。その言葉は、責めるでもなく、励ますでもなく、由美の足元にぽとりと落ちた。健司は味噌汁をすすり、スマートフォンに視線を戻した。画面の明かりが、疲れた頬を青白く照らしている。
由美は「ありがとう」と言いかけて、やめた。何に対してのありがとうなのか、分からなかったからだ。
その夜、健司はソファでテレビをつけたまま眠ってしまった。由美は毛布をかけてやり、テーブルの上の老眼鏡をたたんだ。四十代の半ばで老眼鏡をかけるようになった夫を、由美はどこか遠い人のように感じた。この人も、どこかで自分の知らない乾いた場所を抱えているのかもしれない。そう思ったけれど、起こして尋ねるほどの言葉は、どこを探しても見つからなかった。
◇
翌朝、いつものように炊飯器のハミングで一日が始まった。
弁当を詰め、洗濯機を回し、家族を送り出したあと、由美は買い物に出ようとして、玄関の脇に停めてある自分の自転車の前で足を止めた。
冬のあいだ、前輪の空気が抜けかけていて、ペダルを踏むたびに重たかった。昨日、駅の南側まで往復したときも、帰り道の坂で息が上がった。
その前輪が、指で押してもへこまないほど、きっちりと膨らんでいた。後輪も同じだった。
健司だろうか。翔太だろうか。朝練に出る翔太が、ついでに自分の自転車と一緒に入れてくれたのかもしれない。由美はしゃがみこんで、硬くなったタイヤを手のひらで押してみた。ゴムの匂いがした。
誰に聞けばいいのか分からないまま、由美は自転車にまたがった。ペダルは驚くほど軽かった。
スーパーの青果売り場で、同じ町内に住む、翔太の同級生の母親の佐々木さんに声をかけられた。
「あら、翔太くんのお母さん。こんにちは」
「こんにちは。この前は、試合の送迎ありがとうございました」
「いいのいいの、ついでだから。それよりね、来月の保護者会の係、まだ決まってないのよ。中村さん、今年もお願いできない? ほら、中村さんってお家にいらっしゃるから、平日も動けるでしょう?」
佐々木さんに悪気がないのは分かっていた。由美はこれまでも、そう言われて係を引き受けてきた。PTAの広報、子供会の会計、町内会の清掃当番の取りまとめ。「お家にいらっしゃるから」。その言葉は、便利な鍵のように、由美の時間のどの扉でも開けてしまう。
「ごめんなさい。四月から、週に三日お仕事をすることになって」
言ってから、由美は自分の声が思ったより張っていたことに驚いた。
「あら、そうなの。どちらで?」
「駅の南の、友達のカフェで」
「へえ、いいわねえ。じゃあ今度、お茶しに行くわ」
佐々木さんは特に気にした様子もなく、別の母親の名前を挙げながら去っていった。由美はキャベツを一玉手に取ったまま、しばらくその場に立っていた。断った。十年間、一度も断ったことのない頼みを、初めて断った。心臓がどきどきしていた。明け方の四時に目覚めるときの、あの意味のない早鐘とは違う。坂道を自転車で上りきったあとのような、手応えのある鼓動だった。
その夜、夕食のときに翔太に聞いてみた。
「翔太、お母さんの自転車の空気、入れてくれた?」
翔太は茶碗から顔を上げて、怪訝そうに眉を寄せた。
「は? 知らない。俺、朝練だし」
「そう」
「なんで?」
「ううん。なんでもない」
美咲がまだ一人で空気入れを扱えないことは、由美も知っていた。それなら、残るのは一人しかいない。けれど、その夜も遅く帰ってきた健司に、由美は何も聞かなかった。聞いて「ああ、ついでに」と言われたら、それで終わってしまう気がした。答えを確かめないまま、膨らんだタイヤの硬さだけを、手のひらの記憶にしまっておきたかった。
◇
三月の終わりのある明け方、由美はまた四時に目を覚ました。
胸の中で心臓が早足になっている。いつものことだと自分に言い聞かせ、寝返りを打って、隣が空っぽなのに気づいた。健司の枕に、頭の形の窪みだけが残っている。
トイレだろうか、と思ってしばらく待ったが、戻ってくる気配はなかった。由美はカーディガンを羽織って、足音を忍ばせて階段を下りた。
ダイニングの明かりは消えていた。その代わりに、テーブルの上でノートパソコンの画面だけが白く光っていて、その前に健司が座っていた。背中を丸め、両手で顔を覆っている。画面には、表計算ソフトの細かい数字の列が映っていた。
由美は階段の最後の一段で立ち止まった。声をかけようとして、かける言葉が見つからなかった。「どうしたの」と聞けば、「なんでもない」と返ってくるだろう。「眠れないの」と聞けば、「仕事」と一言で終わるだろう。十五年の結婚生活で、由美は夫の答えを先に知ってしまう癖を身につけていた。そして、先に知っている答えのために、質問そのものをしなくなっていた。
健司が顔から手を離し、大きく息を吐いた。由美は慌てて階段を上り、ベッドに潜り込んで、目を閉じた。
二十分ほどして、健司が静かに寝室に戻ってきた。布団のこすれる音と、長いため息。由美は眠ったふりを続けた。背中合わせの二人のあいだに、夜明け前の冷たい空気が、細い川のように流れていた。
朝になって、健司はいつも通りネクタイを首にかけたまま降りてきて、「コーヒー、もらえる?」と言った。由美も、いつも通り「はい」と答えた。夜中のことは、どちらも口にしなかった。
◇
四月の最初の月曜日、開店を四日後に控えた「カフェ・せせらぎ」で、由美は初めてエスプレッソマシンの前に立った。
内装はほとんど仕上がっていた。白い漆喰の壁、梁から吊るされたポトスとアイビーの鉢、窓際の細長いカウンター席。むき出しのコンクリートだった床には、晶子が週末をまるごと費やして、柿渋色のオイルを塗り込んでいた。
「ミルクはね、ここまで。スチームの音が、じゅーっから、ちゅるちゅるに変わったら止める」
晶子がピッチャーを傾けて見せる。由美は言われた通りにやってみたが、最初の三回は泡が荒く、カップの縁から溢れた。四回目で、ようやくミルクが絹のように滑らかになった。
「ほら、できた」
「晶子の教え方がうまいのよ」
「違う。由美、昔から手先は器用だったもん。家庭科の運針で、先生に褒められてたの覚えてる」
そんな昔のことを、と由美は笑ったが、カップの表面に浮かんだ白い泡の輪を見ていると、胸の奥がくすぐったくなった。自分の手で、何か新しいものを作った。弁当でも洗濯物でもない、誰かのためでありながら、どこか自分のためでもある何か。
休憩のとき、晶子はカウンターの内側の丸椅子に腰を下ろして、帳簿用のノートを開いた。ページには細かい数字が並び、ところどころに赤いボールペンで線が引かれている。
「正直に言うとね、最初の半年は赤字の覚悟なの。家賃と、豆の仕入れと、由美のお給料と。貯金を切り崩しながら、常連さんがつくのを待つ感じ」
「私のお給料なんて、後回しでいいのに」
「駄目。そこはちゃんとする。友達に甘えたら、私、たぶんどこかで潰れちゃうから」
晶子はノートを閉じて、天井の梁を見上げた。
「怖いよ、由美。四十三にもなって、全部賭けてさ。失敗したら、実家に帰るしかない」
晶子がそんな弱音を口にするのを、由美は初めて聞いた。離婚のときでさえ、晶子は電話口で「さっぱりした」と笑っていたのだ。
由美はマシンの横に積まれたカップを一つ手に取り、晶子に教わった通りにカフェラテを淹れた。泡の形は不格好で、ハートと呼ぶにはだいぶ歪んでいた。それを晶子の前に置く。
「店長さん。一杯目、どうぞ」
晶子はカップを両手で包むように持ち、しばらく黙って湯気を見ていた。それから一口飲んで、鼻をすすった。
「……ぬるい」
「ごめん」
「嘘。美味しい」
二人で、梁の下で笑った。
帰り際、晶子が紙袋を差し出した。中には、生成りの帆布でできたエプロンが二枚入っていた。胸元に、小さく「せせらぎ」と刺繍がある。
「本当は、由美に色を選んでもらおうと思ってたんだけど、業者さんの締め切りがあってさ。とりあえず、私と同じの。気に入らなかったら、あとで好きな色に替えるから」
「ううん。これでいい」
由美は答えながら、自分がまた「これでいい」と言ったことに気づいていた。好きな色を聞かれる前に、差し出されたものを受け取ってしまう。その癖は、十五年のあいだに、手の形のように体に馴染んでしまっていた。
◇
開店前夜、由美はリビングでアイロン台を広げた。
健司のワイシャツが三枚、翔太の体操服、美咲のハンカチ。いつもの順番でアイロンをかけ終えてから、最後に紙袋から生成りのエプロンを取り出した。新品の帆布は糊がきいていて、アイロンの熱を当てると、かすかに麻と綿の混じった匂いが立ちのぼった。
胸当ての刺繍の上だけは、当て布をしてそっと押さえる。腰紐の皺を一本ずつ伸ばす。自分のためにアイロンをかけるのは、いつ以来だろう。
「お母さん、それ明日着るの?」
パジャマ姿の美咲が、階段の途中から顔を出していた。
「そうよ。早く寝なさい」
「ちょっとだけ着てみて」
せがまれて、由美はエプロンを首からかけ、腰紐を後ろで結んだ。結び目の位置が分からず、何度かやり直す。美咲が駆け下りてきて、背中側で紐を直してくれた。
「かわいい。お母さん、お店の人みたい」
「お店の人になるのよ、明日から」
美咲は満足そうに頷いて、また階段を上っていった。二階の廊下の電気が消えるまで見送ってから、由美はエプロンを外そうとして、手を止めた。
リビングの隅に、健司の鞄が置いてある。今夜も帰りは遅く、夕飯のあとすぐに風呂に入って、寝室に上がってしまった。「明日からだっけ」とだけ、階段の途中で聞かれた。「頑張って」とは言われなかった。言われなかったけれど、「明日からだっけ」と覚えていてくれたことが、それだけでかすかに胸に残った。
窓の外では、三月からまとまった雨が降っていなかった。天気予報は、四月も雨の少ない日が続くと告げていた。庭の隅のプランターで、由美が去年植えたミントが、乾いて白っぽくなった土の上で細い茎を伸ばしている。
由美は台所で小さなコップに水を汲み、裏口からそっとプランターに注いだ。水は乾いた土の表面で一瞬玉になって、それからゆっくりと吸い込まれていった。
エプロンの腰紐を解きながら、由美はあのクリーム色のスカーフのことを思った。好きな色を答えられないまま、明日、自分は新しい場所に立つ。
美咲の問いが、まだ答えを待ったまま、胸の中で小さく揺れていた。




