第六章 もう一度、話す
その週の土曜日の夜、子供たちが二階に上がったあと、由美はダイニングのテーブルに、店で買った手回しのコーヒーミルを置いた。
「せせらぎ」のハウスブレンドを、中細挽きで。ハンドルを回すと、豆の砕ける音が台所に響き、香りが立ちのぼった。
健司が、風呂上がりの濡れた髪のまま、ダイニングの入口に立っていた。
「……珍しいな。夜にコーヒー」
「座って。話したいことがあるの」
健司は、身構えるような顔をして、向かいの椅子に腰を下ろした。由美はドリッパーにお湯を細く注いだ。粉がふくらみ、泡の縁から香りが溢れる。二つのカップに注ぎ分けて、一つを健司の前に置いた。
「責めるつもりじゃないの。先にそれだけ言っておくね」
健司は黙って頷いた。
由美はカップを両手で包み、口を開いた。
「六月に、カフェごっこって言われたでしょう。あれ、悲しかった。すごく」
健司の目が、わずかに揺れた。
「でもね、あとで考えたら、悲しかったのは、あの一言だけじゃなかったの。もっとずっと前から、私たち、話してなかったでしょう。あなたが何に困ってるのか、私は知らなかった。私が何を楽しいと思ってるのか、あなたも知らなかった。知らないまま、ご飯を作って、ワイシャツにアイロンをかけて、それで家族をやってるつもりだった。寂しかった。ずっと、寂しかったの」
由美はカップを置いた。
健司は、長いあいだ黙っていた。カップのコーヒーから立ちのぼる湯気が、二人のあいだで細く揺れていた。
やがて、健司は大きく息を吐いた。
「……十月から、部署が変わる」
由美は、黙って続きを待った。
「営業部が統合されて、課長のポストが減った。俺は外れた。物流センターの管理に回される。給料は、そんなに変わらない。でも……二十年、営業しかやってこなかったから」
健司は、カップの縁を指でなぞった。
「春から、ずっと話が進んでた。得意先の引継ぎ表を作って、後任と一件ずつ回ってる。長く担当した工務店の社長に、何度も『どうして中村さんじゃなくなるの』と聞かれた。答えられなかった。家でも、言えなかった。……あの日、カフェごっこって言ったのは」
健司は言葉を切り、それから、苦いものを飲み込むように続けた。
「羨ましかったんだ。君が店の話をするとき、顔が違ったから。俺は、自分の担当先を手放してるのに、君は新しい店で居場所を作ってた。それが悔しかった。……だからって、言っていい言葉じゃなかった」
由美は首を横に振りかけて、やめた。健司の言葉を、最後まで聞こうと思った。
「自転車」
由美が言うと、健司は怪訝そうに顔を上げた。
「三月に、自転車のタイヤに空気入れてくれたの、あなたでしょう」
健司は、一瞬きょとんとして、それから、ばつが悪そうに目を逸らした。
「……前輪、ずっとへこんでたから。坂、しんどいだろうと思って」
「美咲、見てたのよ。参観の絵に描いてあった。空気入れ握ってる手」
「……そうか」
由美は春に炊かれた柔らかすぎるご飯を思い出した。健司の指には、カップの縁を握ったまま白い跡がついていた。
由美はカップを置いた。健司が顔を上げるのを待った。
「もう一つ、話しておきたいことがあるの」
健司の顔が、わずかにこわばった。
「お店のお客さんで、話を聞いてくれる人がいたの。あなたとうまくいかなかった夜に、私から連絡した。六月から、ほとんど毎晩、メッセージをやりとりしてた。会ったのは、一度だけ。この前の水曜日に、公園で。それで、終わりにしてきた。それ以上のことは何もない。でも……あなたに話すべきことを、その人に話してた。それは、本当」
言い終えると、台所の時計の秒針の音が、急に大きく聞こえた。
健司は組んだ手を見つめていた。親指の関節が白くなっていた。
やがて健司が言った。
「……正直、きつい」
「うん」
「俺が、君の話を聞かなかったことと、それとは……別だろう」
「うん。私がしたことは、私の責任。あなたを責めるために話したんじゃない」
健司は両手で顔をこすった。春の明け方、ノートパソコンの前にいたときと同じ仕草だった。
「今夜は、よかったとは言えない」
健司は、顔から手を離した。目の縁が、赤くなっていた。
「考える時間がほしい。……店のことも、君のことも、聞こうとは思う。でも今は、すぐには無理だ」
「分かった。私も、あなたの仕事のことを聞きたい。今すぐじゃなくていい」
健司は頷き、冷めかけたコーヒーを一口飲んだ。それから、意外そうに、カップの中を覗き込んだ。
「……うまいな、これ」
「でしょう。うちの店の豆」
由美も冷めたコーヒーを飲んだ。向かいのカップからは、もう湯気が立っていなかった。
健司は残ったコーヒーを飲まずに立ち上がり、自分のカップを流しへ運んだ。
カップを洗い終えて二階に上がると、翔太の部屋のドアが、細く開いた。
「……仲直りした?」
暗がりの中から、低い声がした。由美は、階段の最後の段で立ち止まった。
「喧嘩なんかしてないわよ」
「ふーん。六月から、ずっとしてたじゃん」
由美は言葉に詰まった。
「……話はした。でも、まだ、これから」
「ならいいじゃん」
由美は閉まったドアを見てから、寝室へ向かった。
◇
翌朝、健司は降りてこなかった。
炊飯器のハミングが止まり、トーストが焼け、弁当箱の蓋が閉まっても、二階から足音は聞こえなかった。翔太が「父さんは?」と聞き、由美は「今日はゆっくりだって」と答えた。嘘ではなかった。夜中に、寝室の戸が静かに開いて閉まる音を、由美は聞いていた。
十時近くになって、健司は黙ってリビングを通り抜け、「ちょっと出てくる」とだけ言って家を出ていった。夕方、ホームセンターの袋を提げて戻ってくると、洗面所の換気扇のカバーを外し、埃だらけのフィルターを取り替えはじめた。必要なことではあった。けれど、昨日まで誰も気づかなかったことだった。由美は洗面所の入口から、その背中を見ていた。話しかけなかった。
それから一週間、朝食と夕食はいつもの時間に並んだ。
健司は食卓に座り、箸を取り、「醤油」や「ありがとう」や「ごちそうさま」だけを口にした。夜はリビングのソファで眠った。「テレビを見ていて寝てしまった」と言ったが、テレビは毎晩、消えていた。
四日目の夜、由美は毛布を持って階段を下り、ソファの肘掛けに置いた。翌朝、毛布は畳まれていた。
美咲は、そのあいだ何も聞かなかった。聞かないまま、木曜日の夜、歯を磨き終えた口のまま、洗面所の入口に立った。
「お母さん」
「なに?」
「七月のさ、夜。スマホ見て笑ってたとき。あれ、おばちゃんじゃなかったでしょ」
由美はタオルを握り直した。
「……うん。違った」
「やっぱり」
「嘘をついて、ごめんね。お母さんが悪かった」
美咲は少し考えて、唇を尖らせた。
「お父さんと、けんかしてるの?」
「けんかとは、ちょっと違う。大事な話を、しているところ。お母さんが、ずっとしなきゃいけなかった話」
「長くかかる?」
「かかるかも」
「ふーん」
美咲は洗面台の縁に手をかけて、背伸びをした。意味もなく蛇口をひねり、すぐに止める。
「あのね。昨日、私の絵、リビングに出しっぱなしにしたの。そしたらお父さん、見てた。一人で、ずっと」
それだけ言って、美咲は「おやすみ」と階段を駆け上がっていった。
◇
翌週の木曜日、健司の帰りは九時前だった。
由美が温め直した煮物を、健司は黙って食べた。食べ終えた箸を置くと、皿を見たまま言った。
「聞かせてくれないか。全部じゃなくていい」
由美は洗い物の手を止め、向かいの椅子に座った。
「何を」
「その人と、何を話してたのか」
由美は、コーヒーの挽き方から話した。ホテルのラウンジのこと。黒板のこと。美咲の「好きな色」。
健司は何度か目を伏せ、一度だけ、鼻から短く息を抜いた。
「……俺のことは」
「え?」
「俺のことは、何て言ってた」
嘘はつかないと決めていた。
「あなたはいつも結論を返す、って。私が欲しいのは結論じゃなかった、って書いた」
健司の頬が、わずかに動いた。笑ったのではなかった。
「カフェごっこって言われた夜のことも、話した」
「……そうか」
「その人は、あなたのことを悪く言わなかった。許したくない気持ちは、あっていいって、言っただけ」
「俺には、言わなかったのに」
絞り出すような声だった。
「その人には言えて、俺には言えなかったんだな」
「そう」
「聞かなかった俺が悪いって言いたいのか」
「違う。言わなかったのは私。それは私が悪い」
「じゃあ、どうしろって言うんだ」
健司は椅子を引いて立ち上がった。脚が床を鳴らし、二階の物音がぴたりと止んだのが、気配で分かった。
「分かってるよ、俺が悪かったことくらい。それでもきついんだよ。隣で寝てる間も、お前は、あっちのスマホを……」
言葉は、そこで途切れた。健司は拳を握ったまま、玄関へ歩いていった。
ドアの閉まる音がした。
由美は追わず、台所へ戻って煮物の鍋に蓋をした。
玄関が開いたのは、十時を過ぎた頃だった。
健司は汗ばんだシャツのまま台所の入口に立って、腕を掻いていた。
「……蚊に刺された」
「そう」
「虫除け、ある?」
由美が棚から出して渡すと、健司はそれを首筋に吹きつけてから、ようやくダイニングの椅子に腰を下ろした。腕に、赤い点が三つ並んでいた。
「川のほうまで、歩いてきた」
「そう」
「水、少なかったな」
「ずっと降ってないから」
「……ああ」
健司は椅子から立たなかった。由美はミルを回し、コーヒーを二つのカップに注いだ。
◇
その週の日曜日の朝、健司は玄関の脇で、由美の自転車の後輪を指で押していた。
「これ、前から少し抜けてただろ。スローパンクだ」
「気づかなかった」
「気づかないうちに、少しずつ抜けるんだよ。こういうのは」
言ってから、健司は自分の言葉に引っかかったように、一瞬だけ手を止めた。それから庭の物置を開け、空気入れを引っぱり出して、ポンプの台を地面に置いた。
「台、押さえててくれ」
由美がしゃがんで足で台を押さえたとき、背後の階段で小さな足音がした。
「私がやる」
パジャマのままの美咲が、サンダルをつっかけて、由美の隣にしゃがみこんだ。小さな足が、母親の足の隣で台を踏んだ。
「三月にね、お父さん、前のタイヤやってたの。私、ここで押さえてた」
健司が顔を上げた。
「……見てたのか」
「朝、トイレ行こうとしたら、玄関で音がしたから」
健司は何も言わず、ポンプのハンドルを押し下げた。シュッ、シュッ、と空気が入るたびに、細いタイヤが少しずつ張りを取り戻していく。
「まだ、全部は飲み込めてない」
ポンプを押しながら、健司が言った。誰の顔も見ていなかった。
「でも、こうしてる間は、少し考えなくて済む」
「うん」
「だから、日曜は、こういうのをやる。タイヤでも換気扇でも」
由美は笑いそうになって、笑わずに、足に力を入れ直した。
「じゃあ、日曜の夜は、私がコーヒーを淹れる」
健司は手を止めずに、「豆は」と聞いた。
「せせらぎの」
「……そうか」
後輪を指で押すと、へこまなかった。美咲が得意そうに、前輪も確かめて回った。
◇
晶子は予約票を施錠できる引き出しへ移し、店内での取り扱いを決め直した。由美は三週間、予約票にも在庫にも触れず、黒板と接客だけを担当した。ある夕方、晶子が「来週から在庫の数も見てくれる?」と尋ねた。由美は「うん」と答え、初めて少し肩の力を抜いた。
◇
九月も半ばを過ぎた火曜日の朝も、炊飯器のハミングで一日が始まった。
由美が弁当を詰めていると、美咲が画用紙を持って降りてきた。参観のあと返してもらった、あの『わたしの家族のすきなもの』の絵だった。
「お母さん。好きな色、わかった?」
美咲は、真っ白なまま残された、由美の顔の周りの背景を指さした。
由美は弁当箱の蓋を閉めて窓を見た。西から薄い雲が流れてきていた。
「わかった」
「なに色?」
「雨が降る前の、空の色。灰色みたいなんだけど、ちょっとだけ青いの。それで、遠くのほうが、明るいの」
美咲は眉間に皺を寄せて、窓の外と画用紙を見比べた。
「……それ、ぬるの難しい」
ダイニングで新聞を広げていた健司が、短く声を出して笑った。それから、笑ったことに自分で気づいたように、新聞の陰に顔を隠した。翔太までが、冷蔵庫の前で麦茶を飲みながら、口の端を上げていた。
「お父さんも手伝ってやろうか」
「お父さん、絵へたじゃん」
「へたでも、空くらい塗れる」
健司は老眼鏡をずらして、美咲の画用紙を覗き込んだ。美咲は色鉛筆の箱を持ってきて、灰色と、水色と、白を並べた。二人が額を寄せ合って、あれでもない、これでもないと言い合うのを、由美はトーストを焼きながら聞いていた。
十月から、健司の通勤は電車で一時間になる。帰りは前より早くなるらしい。この前の日曜日、健司は美咲を連れて初めて「せせらぎ」に来た。晶子にブレンドを出され、居心地悪そうに飲んだあと、帰り際に黒板の文字をしばらく眺めていた。
おはよう、いただきます、いってきます。短い言葉は今朝も交わされた。健司は出がけに「帰りは八時頃」と告げ、由美は「分かった」と返した。
◇
翌日の水曜日、午後二時過ぎ。「カフェ・せせらぎ」には、いつもの日常が流れていた。
窓際の席で、小池さんがぬるめのカフェオレを飲んでいる。岡本くんは内定をもらったと報告に来て、晶子にケーキをおまけしてもらっていた。真理子さんの赤ちゃんは、いつの間にかベビーカーの中で身を乗り出して、カウンターの鉢植えに手を伸ばすようになった。
由美の胸元には、この日から、新しいエプロンがかかっていた。
先週、由美は晶子に言ったのだ。春に「気に入らなかったら、あとで好きな色に替えるから」と言ってくれた、あの約束はまだ有効かと。晶子は「もちろん」と笑い、業者の色見本の分厚い冊子をカウンターに広げた。由美は迷わずに、一枚の布見本を指さした。灰色に、ほんのわずかに青を溶かしたような、麻の生地だった。
「地味じゃない?」と晶子は首をかしげた。
「雨が降る前の空の色なの」と由美は答えた。
晶子はしばらく布見本と由美の顔を見比べて、それから「うん、似合う」と言った。
届いたエプロンの胸元には、生成りのものと同じように、小さく「せせらぎ」と刺繍が入っていた。今朝、腰紐を結ぶとき、由美の指はもう迷わなかった。蝶結びの輪は、左右で同じ大きさになった。
ドアのベルが鳴り、濃紺のスーツの男性が入ってきた。田中は窓際のいちばん奥の席に座り、紙カバーの擦り切れた文庫本を取り出した。由美がブレンドを運ぶと、本から顔を上げ、いつものように、ゆっくりと深く頷いた。
「ありがとう」
「どうぞ、ごゆっくり」
二人は挨拶だけを交わした。田中が目を伏せる間、由美はレジの数字を確認した。
三時少し前、田中は会計のついでに、豆を四百グラム頼んだ。
「いつもより多めですね」
「家内と、休みが重なることになりまして。二人分です」
「それは、よかったです」
由美がそう言うと、田中は照れたように目を伏せた。取り置き票を書くとき、田中はもう電話番号の欄を埋めなかった。「来週の同じ曜日に、取りに来ます」と言って、名前だけを書いた。
田中が帰ると、由美は取り置き票を所定のファイルに収め、施錠できる引き出しにしまってから、次の客の注文を取った。新しいエプロンの腰紐が、背中でほどけかけているのに気づき、結び直した。
「由美」
カウンターの奥から、晶子が声をかけた。
「表、見て」
晶子の視線を追って、由美は窓の外を見た。
アスファルトに、ぽつり、ぽつりと黒い点が生まれた。やがて路地の土埃が静かに収まっていった。
由美はガラス戸を開けて、入口に立った。
懐かしい土の匂いが立ちのぼった。
由美は店先に立ち、頬に触れる雨粒をそのままにした。
入口の横の黒板を振り返る。今朝書いたばかりの文字が、雨粒に打たれて、端から滲み始めていた。由美はチョークを手に取り、いちばん下に、一行だけ書き足した。
『雨、はじめました』




