第16話 「地味でいいんです」
「お金がないです」
翌日、放課後の校門前だった。いつの間にか、そこにルシェが立っていた。学校の生徒でもないのに、当然のようにそこにいた。息を切らしていた。どうやら走ってきたらしい。
「ルシェ?」
「探しました!」
ミレーユが首を傾げる。
「どうしたの、こんなところまで」
「相談したいことがあって」
一日がかりで来たのだろう。市場のある鉱山町から、この学校までは決して近くない。それでも、他に頼れる相手が思いつかなかったのかもしれなかった。
「ないの?」
「ありません」
即答だった。セリナも少し驚いた顔をする。
「商人じゃないのか」
「商人見習いです!」
そこだけは譲れないらしい。
「何買ったの?」
リリアが聞く。
「買ってません!」
「仕入れです!」
「何が違うの?」
「全部違います!」
難しかった。リリアには。非常に。
---
結局、話を聞くことになった。場所は近くの食堂。ルシェが紙を広げる。数字がびっしり並んでいた。リリアは三秒で諦めた。
「眠い」
「まだ始まってません!」
ルシェが悲鳴を上げる。ミレーユは真面目に見る。エレノアも興味があるらしい。セリナはパンを注文した。
「つまりですね」
「安く買って、高く売るんです」
「悪い人?」
「違います!」
即座に否定された。
「運んだり、保管したりするんです。それにも、お金がかかるんです」
木彫りの小鳥がよく売れた、その仕入れ分の代金を、今度はきちんと父に払わなければならない。だが、先週の売上はまだ手元に残っていない。運搬や保管にかかる費用が先に出ていってしまうからだった。それが、今回の「お金がない」の中身だった。
「なるほど」
リリアは頷く。分かったような顔だった。しかし、
「つまり悪い人ではない」
全然分かっていなかった。ルシェは机に突っ伏した。
---
その後も説明が続く。利益、仕入れ、在庫、原価。難しい単語が飛び交う。ミレーユは理解している。エレノアも理解している。セリナは、
「うん、うん」
相槌だけは打っていた。だが、目は完全に運ばれてきたパンを追いかけていた。
「セリナ、聞いてます?」
「聞いてる」
「今のところ要約できます?」
「値段の話だろう」
「範囲が広すぎます!」
聞いていなかった。完全に。数字の話になった瞬間から、セリナの意識はパンの焼き加減の方へ移っていた。剣の間合いなら一寸単位で語れるのに、原価と利益の違いになると、途端に相槌要員になる。
リリアはというと、
「パン美味しい」
そちらはそちらで、ただ食べていた。
「聞いてください!」
「聞いてる」
「本当ですか!?」
「たぶん」
食堂の中、真面目に聞いているのはミレーユとエレノアだけだった。
---
その時だった。ルシェがため息をつく。
「皆さんはいいですよね」
少し羨ましそうだった。
「好きなことがあって、それを堂々と言えて」
静かになる。セリナは剣。ティアは鍛冶。エレノアは貴族としての勉強。ミレーユは魔法。みんな目標がある。ルシェにも商人という夢はある。だが、いつも周囲の反応は同じだった。
「へえ、地道だね」
そう言われるたび、悪気がないのは分かっていても、少しだけ胸の奥が冷える。剣も魔法も、名前を聞けば誰もが「すごい」と言う。だが商人は、成功すれば認められるが、途中経過はいつも地味に見られがちだった。
「地味ですし」
小さく笑った。慣れた笑い方だった。
---
すると、リリアが首を傾げた。
「なんで?」
「え?」
「商人すごいじゃん」
今度はルシェが首を傾げる。
「そうですか?」
「うん」
リリアは即答した。
「私には無理」
それは事実だった。全員が頷いた。満場一致だった。
「剣は振れる」
「うん」
「木には登れる」
「うん」
「でも値段分からない。さっきの話、半分も分からなかった」
「それは分かった」
ミレーユが言う。
「だからルシェがやればいい」
静かになる。ルシェも黙る。
---
リリアは続けた。指を折りながら、一人ずつ数えていく。
「私は戦う」
「ミレーユは真面目」
「どういう意味かな」
「でも頼りになる」
ミレーユが少し照れる。
「エレノアは偉そう」
「否定できませんわね」
「でも困ってる人放っておけない」
エレノアも黙って頷いた。
「セリナはかっこいい」
セリナが少し照れる。パンを咀嚼しながらだった。
「毎日剣振ってる。でも値段は分からない」
「否定はしない」
セリナが即答した。そこだけは潔かった。
「ルシェは商売」
一拍置いて、続けた。
「数字とか値段とか、私には絶対無理。だから、それができるルシェはすごい」
さらっと言ったが、言葉には迷いがなかった。剣の話や魔法の話をする時と、まったく同じ調子だった。特別扱いではなく、同列に扱われている。それが、ルシェには一番効いたのかもしれなかった。
ルシェはしばらく黙っていた。それから、小さく笑う。
「それもそうですね」
さっきまでの笑い方とは、少し違う笑い方だった。
---
日が傾き始めていた。ルシェはそろそろ帰らなければならない時間だった。市場へ戻る道のりを考えると、あまり余裕はなかった。
「もう行きます」
「送ろうか?」
「大丈夫です。それより」
ルシェは少し照れたように言う。
「話聞いてもらえて、良かったです」
「また来ていいよ」
「本当ですか?」
「うん。パン美味しいし」
理由がずれていた。だが、ルシェは笑った。
「ルシェ」
「なんですか?」
「お金持ちになったら」
「はい」
「お菓子買って」
「働いてください」
即答だった。全員が笑った。セリナだけは、まだパンを食べていた。
---
その日の夜、ルシェは市場近くの家で帳簿を広げていた。数字を並べ、仕入れの計画を立て直す。今日教わった話を思い出しながら、余白に「地味」と書いて、二重線で消した。書き直す。
「商人になりたいんです」
昼間、自分で言った言葉を、もう一度小さく口にしてみる。誰かに笑われるかもしれない、と思っていた言葉が、今日は少しだけ軽かった。
窓の外は、もう暗くなっていた。ペンを走らせる音だけが、静かに部屋に響いていた。
もちろんリリアは知らない。そんな夜があったことを。本人は、
「明日のお昼何かな」
そんなことを考えながら、すでに眠っていた。




