第3話「黒い来訪者・3」
久しぶりに耳にした、『腹ペコ猫』。
この二つ名は、ギルとの最初の出会いが原因だった。
昔、ギルが居酒屋でその時の話を面白おかしく語ったせいで、仲間内で自然と広まってしまったのである。
転生直後、森で遭難していたバネッサが、ギルに声を掛けられた時、腹の虫が盛大に鳴った。
「返事が腹の虫だったんだよ。もう可笑しくて仕方なかったぜ」
そこから、あだ名が『腹ペコ猫』になった。
思い返すだけで恥ずかしい。
今でも大嫌いな呼ばれ方だ。
その後、採取師として名が知られ始めた頃には、『ギルの犬』などという二つ名でも呼ばれていた。
少々悪意の混じった呼び名だったが、バネッサ自身はあまり気にしていなかった。
少なくとも、『腹ペコ猫』よりはましだと思っていた。
犬でも猫でも、勝手に呼ばれること自体は同じなのだが。
どうせなら、腹ペコではない方がいい。
ギルは六十歳で商人を引退した。
そして、その後の数年間、バネッサと共に全国を巡る珍道中を繰り広げた。
二人で事件を解決したり。
騒動を起こしたり。
時には面倒事へ首を突っ込みながら、各地をふらふら渡り歩く。
そうしているうちに、採取師たちの酒場では、
『オールド・ルーキー』ギル。
『腹ペコ猫』バネッサ。
二人の噂話が定番になっていった。
気が付けば、その名前は全国へ広まっていたのである。
「しかし、犬とか猫とか、好きに呼んでくれますね」
バネッサは小さく肩を揺らして、クスクスと笑った。
クロエへの返事は、今晩ゆっくり考えよう。
まだ夜営業までには時間がある。
バネッサはエプロンを外し、アイスクリームを買いに店を出た。
◆ ◆ ◆
閉店後のうどん屋。
アルバイトたちが帰った後、バネッサはカウンター席で売上計算をしていた。
電卓を叩きながら、眉が下がる。
──あれ。……今月も、だいぶ厳しいかも。
先月も赤字だった。
季節的に売上が落ちる時期なのは分かっている。
来月には多少戻るはず。
……たぶん。
バネッサは帳簿を閉じ、天井を見上げた。
クロエの提示した報酬は、かなり大きい。
しかも、調査期間中の休業補償も考えていると言っていた。
商人らしい。
とても商人らしい。
そこまで準備されると、断りづらい。
だが、報酬だけなら断れたかもしれない。
高校生の制服。
学園生活。
一般社会への潜入調査。
どれも、バネッサには縁のないものだった。
それに、クロエはギルではない。
彼を特別扱いする理由など、一つもない。
依頼は断るつもりだった。
なのに、あの真剣な「お願いします」が、頭から離れない。
そして、もう一つ。
資料の中にあった航空写真。
校舎の端に、白く削られた山肌が写っていた。
山が痛がるはずはない。
そんなことは分かっている。
それでも、長く山に入ってきた身体が、そこだけを見逃してくれなかった。
──山があるのに、山として扱われていない。
それが、妙に気持ち悪かった。
バネッサは小さく息を吐く。
頭の中の風向きが、少しずつクロエ側へ傾いていく。
◆ ◆ ◆
「……今回の件、お請けします」
翌日、バネッサはそう告げた。
目の前では、昨日と同じようにクロエが両手を揃えて頭を下げている。
「ありがとうございます。本当に助かります!」
冷静さを装っているが、口角が少し上がっている。
その様子を見て、バネッサはため息をついた。
「でも、私が高校生って無理があると思うんですけど」
「外国人女性は年齢が分かりにくいですし。私個人としては、バネッサさんなら問題ないと思っています」
「外国人と言われても、私、日本語しか話せないですよ?」
「短期留学生という設定ですから。多少不自然でも押し切れます」
「そこもやっぱり、押し切るんだ……」
クロエが制服姿の学生写真を指差した。
「制服はこちらで用意します。後ほど採寸させてください」
「え、ちょっと待ってください」
バネッサは思わず身を引く。
「短期留学ですよね? 制服とか必要なんですか?」
「制服でなければ校内で目立ちます。調査活動に支障が出ますので」
「ええぇ……やだなぁ。なんか恥ずかしい……」
「バネッサさんなら似合いますよ」
「そういう問題じゃないです」
バネッサは両手で顔を覆った。
受けると言った。
確かに言った。
だが、制服を納得したわけではない。
「ちなみに、制服以外にも必要なものがあります」
「聞きたくないです」
「学校生活に必要なものを一式ご用意します」
「その一式、という言葉がとても嫌です」
「承知しております」
「承知している人の顔ではありません」
クロエは穏やかに微笑んでいる。
本当に、押しが強い。
出発は二週間後に決まった。
留守中は、バイトリーダーのミサトへ店を任せる。
ミサトの都合が悪い日は、臨時休業でも構わないと伝えてある。
そして。
クロエが提示した報酬は、想像以上の金額だった。
さらに手付金まで支払うという。
ありがたい。
本当にありがたいのだが。
バネッサの気後れだけは、どうしても止まらなかった。
「クロエさん」
「はい」
「今回の仕事、採取師として受けます」
「ありがとうございます」
「でも、高校生としては、ボロが出ないかは保証しません」
「大丈夫ですよ。バネッサさんなら」
「私の何をご存じなんですかね」
クロエは、不思議な笑みを浮かべて頭を下げた。
バネッサは、テーブルに広げられた航空写真を見る。
白く削られた山肌。
その上に建つ校舎。
これを見なければ、断れたかもしれない。
そう思いながら、バネッサは小さく息を吐いた。
採取師人生、本当に何があるか分からない。




