第16話「クロエの涙」
「……どういうことですか。詳しく聞かせてください、バネッサさん」
アキラが、バネッサの背中を優しく撫でながら問いかける。
バネッサは涙をぽろぽろ流しながら、中庭で起きた出来事を、途切れ途切れに説明した。
センサーの監視を怠ったこと。
チヅルに見られたこと。
「……私のせいで、あの子がクロエさん達に……殺されてしまうと……だから」
そこまで言ったところで。
「――ああ、もう。そんな顔で、何を言い出すんですか」
最後まで言わせず、クロエが吹き出した。
「……へ?」
バネッサが涙目のまま顔を上げる。
「いや……失礼。そういう話でしたか」
「……へ?」
「バネッサさん。まさか私達を、中世の暗殺集団か何かだと思っていました?」
クロエはとうとう耐えきれなくなり、声を上げて笑った。
「目撃者を処分する、だなんて。いつの時代の、どんな冒険譚ですか」
「……へ?」
「最近は、こういうケースでも、もっと穏便に処理しますよ。噂の上書きと口裏合わせです」
クロエは笑いを堪えながらも、そこだけははっきりと言った。
「まず前提として、そのチヅルさんに危害を加えることはありません。そこは約束します。少なくとも、女子高生をどうこうする話ではありません」
バネッサは、ぽかんとしている。
涙で濡れた目のまま、まだ状況を理解できていない。
「そのチヅルさんという子が誰かに話したとしても、『バネッサさんが中庭でスケッチしていた』くらいの話で終わりますよ。まったく、あなたって人は──」
そこまで言って、クロエはまた笑いそうになった。
だが、バネッサの顔を見て、喉の奥で笑いが止まる。
クロエは、背筋が冷えるのを感じた。
――違う。
これは、ただの勘違いではない。
この人は、本気で知らないのだ。
今はもう、そんな時代ではないということを。
ギルが死んでから、誰も教えてこなかった。
これは、笑いごとではない。
久遠。
歳を取らない者。
長く生きるということは、知識や技術だけではなく、その時代の常識や恐怖までも抱え込むということなのかもしれない。
バネッサは、採取師として長く現場にいた。
そこで見てきた商人の冷酷な判断が、今も現実感を持った常識として残っている。
だから、自分の失敗のせいで一人の女子高生が消されると、本気で思っていた。
その子を守らなければならないと、一人で抱え込んでいた。
クロエは、自分の認識の甘さを恥じた。
だが、ここで深刻な顔をすれば、バネッサはますます自分を責めるだろう。
自分の常識が古いことを恥じ、女子高生を巻き込んだことを悔やみ、さらに深く沈んでしまう。
それでは駄目だ。
これは笑いごとではない。
けれど、だからこそ。
笑い飛ばしてあげなければならない。
「ははは。ああ、すみません。笑って失礼しました、バネッサさん」
「……はい」
「とにかく、私たちは、そのチヅルさんには、手を出しません」
「本当に?」
「本当です。脅したり、記憶を消したり、どこかへ連れて行ったりもしません」
「商人なのに?」
「少なくとも、今の私たちは、そういうことをしません」
そう言ってから、クロエは少しだけ視線を落とした。
オールド・ルーキーと呼ばれた商人、ギル。
久遠の採取師エース、「腹ペコ猫」バネッサ。
まだ若かった頃、一度だけ、その二人と同じ部隊にいた。
――狂戦士集団転生事件。
月明かりの下。
光の槍を抜いた、金髪の採取師。
あの光景を、クロエは今でも忘れられない。
クロエに大きな刀を振り上げてきた狂戦士。
その瞬間、バネッサが跳んだ。
人が届くはずのない高さまで、一息で跳び上がる。
月明かりの中、金色の髪が弧を描いた。
次の瞬間。
槍の石突が、狂戦士のこめかみに叩き込まれていた。
狂戦士は、声もなく崩れ落ちる。
伝説級の採取師の力を、まざまざと見せられた。
だから、勝手に思っていた。
この人なら、大丈夫だと。
この人なら、どんな現場でも揺らがないと。
だが今、目の前で、バネッサは少女のようにぽろぽろと泣いている。
あの時、クロエの前に立った人が。
光の槍を抜き、狂戦士を打ち倒した人が。
今は、たった一人の女子高生を守ろうとして、涙を流している。
ギルがいなくなったあと、誰もこの人を今の時代へ連れてこなかった。
ならば、誰かがその役目を引き継がなければならない。
クロエは、たまらなかった。
泣きそうになった。
だから、笑った。
「はは……いや、すみません。本気で、そういう心配をしていたんですね。あなたは、まったく……もう」
笑いながら、クロエの目尻に涙が浮かぶ。
「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
バネッサは、涙目のまま小さく抗議した。
声は弱く、けれど先ほどよりは少しだけ、いつもの調子に近かった。
クロエは、笑い涙を拭った。
面白かったからではない。
目の前の伝説が、自分が思っていたより、ずっと不器用で、ずっと優しい人だったからだ。
泣かないために、クロエはもう少しだけ笑い続けた。




