第13話「チヅル・4」
バネッサと一緒に保健室へ入る。
保健の先生は不在だった。
お手洗いにでも行っているのだろうか。
バネッサが、ベッドへ横になるよう促してくる。
「チヅルさん、少し休んでください」
「あ、はい」
「先生が戻ってくるまで、ここにいれば大丈夫です」
「バネッサさんは?」
「少しだけ、席を外します」
「……はい」
そう言って、バネッサは保健室を出て行った。
扉が閉まる。
保健室の中は静かだった。
白いカーテン。
消毒液の匂い。
壁の時計。
誰もいない机。
チヅルはベッドに腰掛けたまま、しばらく膝の上で指を組んでいた。
本当は横になった方がいいのだろう。
でも、落ち着かなかった。
さっきの中庭の光景が、頭から離れない。
金色の髪。
しゃがみ込むバネッサ。
バインダー。
真剣な顔。
そして。
「三分だけ、このまま待っていてください」
教室で聞く、ふわふわした明るい声とは違った。
大人の声だった。
秘密を抱えている人の声だった。
チヅルは、そっとベッドから降りる。
自分でも、よくないことをしているとは思った。
けれど、気になってしまった。
静かにドアへ近づく。
廊下から、バネッサの声が聞こえる。
誰かと電話しているようだった。
いや、電話ではないのかもしれない。
声は小さい。
けれど、ところどころ単語だけは拾えた。
「調査」
「報告」
「中庭」
「完了」
チヅルの胸が、どきんと鳴る。
調査。
やっぱり、何かの調査だったのだ。
しかも、いつもの柔らかな口調ではない。
大人びた、落ち着いた話し方だった。
──バネッサさん、本当にスパイなのかな。
そう考えると、妙にしっくりくる。
美人だし。
金髪だし。
学校中を歩き回っていたし。
地面を見ていたし。
何かを隠しているし。
それに、さっきの中庭の顔は、完全に普通ではなかった。
え、すごい。
本当にスパイだったら格好良い。
そう思った次の瞬間、チヅルは少しだけ怖くなった。
もし本当にスパイなら、自分は何を見てしまったのだろう。
知らない方がいいことを、知ってしまったのではないか。
それでも。
バネッサは、チヅルを怒らなかった。
逃げろとも言わなかった。
ただ、待っていてください、と言った。
それなら──。
チヅルは、バネッサのことを怖がりたくなかった。
電話が終わりそうな気配がした。
チヅルは慌ててベッドへ戻る。
何事もなかったように、毛布を膝へかけた。
その直後、バネッサが保健室へ戻ってきた。
その顔を見て、チヅルは少し緊張する。
深刻そうだった。
教室で笑っている時とは、まるで雰囲気が違う。
バネッサは扉を閉めると、しばらく黙って立っていた。
それから、ゆっくりとチヅルの方へ歩いてくる。
「体調はどうですか?」
「少し、落ち着きました」
「それは良かったです」
バネッサは柔らかく笑おうとしていた。
けれど、うまく笑えていない。
チヅルはどきどきしながら、バネッサの言葉を待った。
「チヅルさん、あの……」
バネッサは少し迷うように視線を揺らす。
「さっきの中庭の件なんですが……あの、……えっと」
その声は、小さかった。
チヅルは、怖いというより。
かわいそうだと思った。
たぶん、バネッサは何かの調査で学校へ来ている。
そして、自分が重大なものを見たと勘違いしている。
だったら、協力した方が良い気がした。
……というか、自分でも何を見たのかよく分かっていないのだけれど。
チヅルは三つ編みの先を指でくるくる回しながら言った。
「バネッサさん」
「はい」
「私、目が悪いので……特に何も見てないですよ?」
「え?」
バネッサが目を瞬かせた。
「バネッサさんがしゃがんでたから、気分悪いのかなって思って声を掛けただけです」
「……本当に?」
「はい。というか、私……」
チヅルは少し迷ってから、続けた。
「気分が悪かったので、それどころじゃなかったんです」
その瞬間。
バネッサが、へなへなと椅子へ崩れ落ちた。
「そ、そうですか……それは、良かった……です。いえ、良くはないですね」
心の底から安堵している声だった。
さっきまで青ざめていた顔に、少しずつ色が戻っていく。
それを見て、チヅルはなんだか嬉しくなった。
自分は、たぶん何も分かっていない。
バネッサが何をしていたのかも。
どうして学校に来ているのかも。
何をそんなに怖がっていたのかも。
けれど。
今、自分の言葉で、バネッサは少しだけ安心した。
それだけで、胸の奥が少し温かくなる。
体育館で感じていた気分の悪さは、もう無い。
代わりに、少しだけ胸がどきどきしていた。
──これで、バネッサさんの役に立てたなら良いけど。
校内チャイムが鳴る。
バネッサは、はっとしたように顔を上げた。
それから立ち上がる。
「私は次の授業から戻ります。チヅルさんは、もう少し休んだ方が良いですよ」
「あ、はい」
「先生が戻ってきたら、ちゃんと体調を伝えてください」
「分かりました」
バネッサは保健室の扉へ向かう。
出て行く直前、少しだけ振り返った。
「チヅルさん」
「はい」
「ありが……いえ、お大事に」
それだけ言って、保健室を出て行く。
入れ替わるように、保健の先生が戻ってきた。
熱を測ると微熱がある。
今日は早退した方が良いと言われた。
放課後にもっとバネッサさんと話をしてみたかったのに。
そう思ったけれど、仕方がない。
スクールバスの時間ではなかったため、チヅルは教頭の車で駅まで送ってもらった。
車の窓から、学園の校舎が遠ざかっていく。
中庭は見えなかった。
けれど、チヅルの頭の中には、しゃがみ込んで何かを書いていたバネッサの姿が残っている。
──本当にスパイだったら、どうしよう。
少し怖い。
でも、それ以上に。
少しだけ、わくわくしていた。




