第11話「チヅル・3」
チヅルは、生徒総会の途中で気分が悪くなった。
体育館には全校生徒が集められている。
人の熱気。
スピーカーの音。
生徒会や教師の話し声。
それらが頭の中でぐるぐる混ざり合い、急に息苦しくなった。
最初は我慢しようと思った。
少し俯いていれば、そのうち終わる。
目立たずに済む。
誰にも心配されずに済む。
そう思った。
けれど、体育館の空気は重かった。
前から聞こえる声は、言葉として頭に入ってこない。
拍手の音だけが、妙に大きく響いた。
チヅルは、隣の生徒に小さく声をかけ、担任のところまで移動した。
担任へ小声で体調不良を伝える。
担任は困った。
保健係は、目の前のチヅルと、今ステージの上にいる男子の二名だ。
本来なら自分が付き添うべきなのだが、今回の生徒総会は、自分が中心となって企画したものだった。
目が離せない。
誰か代わりに付き添える生徒はいないかと考えていると、チヅルが軽く微笑みながら言った。
「だいじょうぶです。一人で保健室へ行けます」
担任は、すまないと頷いた。
チヅルはその場を離れた。
ひとまず体育館を出よう。
少しめまいがするが、歩けないほどではない。
早く外の空気を吸いたくて、正面入口ではなく横の出入口から外へ出る。
しばらく、その場で深呼吸した。
少しだけ楽になる。
体育館の中からは、まだスピーカーの音が聞こえている。
けれど、あの人混みの中へすぐ戻る気にはなれなかった。
北館にある保健室へ向かう。
体育館横から、北館と南館を繋ぐ渡り廊下へ近づいた時だった。
中庭に、金色の髪が見えた。
──バネッサさん?
今日は休みだと聞いていた。
朝のホームルームで、先生がそう言っていた気がする。
まだ、体調が悪いのだろうか。
それなら保健室にいるはずだ。
なのに、バネッサは中庭にいる。
ベンチのそばでしゃがみ込み、何かをしている。
手にはバインダーみたいなものを持っている。
何かを書き込んでいるようだった。
写生でもしているのだろうか。
後ろからは顔が見えない。
でも、明らかに様子が違う。
教室で見せる、あの柔らかな様子とはまるで違う。
きびきびと何かを確認しては、何かを記録している。
そんなふうに見えた。
チヅルは、先週に見かけた光景を思い出した。
あの時も、バネッサは一人でしゃがみ込んでいた。
◆ ◆ ◆
いつも一人で歩いているバネッサのことが気になっていた。
放課後の探検で学園内を歩くと、バネッサを見かける。
何かを探すように立ち止まり、時々物陰にしゃがみ込む。
声を掛けたい。
何をしているのか聞いてみたい。
そう思うのに、近づく勇気は出なかった。
先週の土曜日もそうだった。
授業は休みだったが、チヅルは学校へ来ていた。
前の晩に読み終えた小説の続きが気になって、図書館へ借りに来たのだ。
続巻を借りて図書館を出た帰り、遠くに金髪の後ろ姿を見つけた。
──バネッサさん、偶然ですね。
そんなふうに、自然に声を掛けられたらよかった。
けれど結局、チヅルは少し離れた場所から見ているだけだった。
植え込みの陰にしゃがみ込むバネッサを、十分以上眺めていた。
何をしているのかは分からない。
でも、ただの散歩ではない気がした。
本当に私は何をやっているんだ。
胸に抱えた小説をぎゅっと抱きしめ、チヅルはその場を離れた。
◆ ◆ ◆
あの時と同じだ。
いや。
あの時は、植え込みの陰にしゃがんでいるところまでしか見えなかった。
何をしているのかまでは分からなかった。
何かをしているとは思っていた。
しかし、実際の様子を見るのは、これが初めてだった。
遠目に見るバネッサは、少なくとも、チヅルの知っている「学校に来たばかりの明るい留学生」には見えなかった。
──本当に、何してるんだろう。
気づけば、チヅルは声を掛けていた。
「バネッサさん?」
バネッサの肩が、びくりと震える。
ゆっくりとこちらを振り返った。
その顔を見て、チヅルは息を呑む。
真っ青だった。
まるで、見られてはいけないものを見られた人の顔だった。
チヅルは、自分が悪いことをしてしまったような気持ちになる。
「ご、ごめんなさい。あの、私……」
言葉がうまく出てこない。
バネッサはしばらく黙っていた。
やがて、真剣な声で言う。
「チヅルさん。三分だけ、このまま待っていてください。あとで説明します」
チヅルは戸惑った。
教室でふわふわ笑っているバネッサとは、まるで別人みたいだった。
声の硬さに、冗談の空気がまったく無い。
ここから離れた方が良いのだろうか。
でも、バネッサは「待っていてください」と言った。
チヅルは黙って頷いた。
中庭の低木のそばで、金色の髪が静かに揺れている。
遠くから、体育館のスピーカー音が聞こえてくる。
けれど何を話しているのかまでは分からない。
普段とは違う、静かな中庭。
生徒たちの声もしない。
校舎の窓にも、人影はほとんどない。
その静けさの中で、バネッサだけが動いていた。
再びしゃがみ込み、黙々と何かを書き続けている。
その動きは妙に滑らかで、無駄が無かった。
バインダーへ何かを書き込む。
地面を見る。
少しだけ向きを変える。
また書く。
チヅルには、それが何の作業なのか分からない。
でも、遊びではないことだけは分かった。
写生でもない。
散歩でもない。
探検でもない。
もっと大事な何か。
そう思った瞬間、少しだけ怖くなった。
チヅルは困惑しながらも、目の前の光景から目を離せなかった。
やがて、バネッサがゆっくり立ち上がる。
そして、こちらを振り返った。
その表情を、チヅルは上手く言葉にできなかった。
後悔。
悲しみ。
苦しさ。
申し訳なさ。
色んな感情が混ざっている気がする。
でも、どれとも少し違う。
少なくとも、バネッサは怒ってはいなかった。
それだけは分かった。
「チヅルさん、どちらへ行く予定でしたか」
「あ……保健室です。気分悪くなって」
「では、ご一緒します」
チヅルは、少し怖くなった。
バネッサが怖いわけじゃない。
彼女を、こんな顔にさせてしまった何か。
それが自分かもしれないことが怖かった。
バネッサは、いつものように笑おうとしていた。
けれど、その笑顔は少しだけぎこちない。
バネッサが先に歩き出す。
チヅルは慌ててバネッサの後ろに付いて歩いた。
「──」
バネッサが短く何かを言った気がする。
「えっ、何か言いました?」
「いえいえ、何でもないのです。保健室に急ぎましょう」
チヅルは胸の前で手を握る。
──私は、何を見てしまったんだろう。
二人は並んで、保健室へ向かった。




