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詠星学院の魔奏歌姫~星脈の秘め事と少女たちの嘘~  作者: 星村 流星
第一部 第1章「星脈の少女たち」
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第7話「星光観月祭」

 「迷子ですか」


 振り返ると、蒼羅(そうら)が立っていた。


 提灯の橙と燭台の白が混じる中庭で、その人だけが光を受けていないように見えた。いや、受けていてもそう見えない立ち方があるのだと、その瞬間に気づいた。金と銀の縁飾りが月を反射して、輪郭だけが浮いている。


「迷子では、ないです」と(かなで)は言った。


「そうですか」


 それだけ言って、蒼羅は奏の隣に並んだ。並んだというより、偶然同じ方向を向いた、という感じだった。奏を見ているのか見ていないのか判然としない、どこか遠い視線で中庭の先を眺めている。


 奏も同じ方向を見た。


 中庭。あきらかに、中庭だった。どこかに向かっているわけでも、何かを見ているわけでもない。


 迷子だった。



 観月祭の案内状が来たのは三日前のことだった。


「学院の年中行事だって」と白音(しらね)が封を開けながら教えてくれた。「東棟(ひがしとう)西棟(にしとう)の中庭で、月明かりと魔奏(まそう)の光を楽しむ夜会なんだって。奏ちゃんにも来た?」


 封筒の中を確認すると、来ていた。学院の書式で印刷された、奏宛の案内状が。


「特例入学者にも来るんだ」と思った。思っただけで、声には出さなかった。


 当日の夜、二人で連れ立って中庭へ向かった。東棟の赤瓦と西棟のアーチの間に広がる石畳に、色違いの提灯が等間隔に並んでいる。木造の廊と石造りの壁が隣接する学院特有の建築が、夜になると輪郭を失って、代わりに光の形だけが残った。魔奏で制御された光球がいくつか宙に浮いていて、月の光とちょうどいい具合に混ざり合っていた。


 それでも奏の足は、入り口のところで少し遅くなった。


 すでに大勢がいた。学院の生徒たちが、血統と家格で緩やかに群れを作りながら、挨拶を交わし合っている。どこそこの家の誰々、どの流派の誰々。声の中に、奏の知らない固有名詞が多すぎた。


 白音はすぐに誰かに引っ張られた。奏が視線を外した隙に、白音の茶色い髪が人の輪の中に消えていた。「あとで!」という声だけが届いた。


 奏は一人で、中庭に取り残された。



 方向感覚がおかしくなるとは思っていなかった。


 中庭の東の端から西の端まで歩いても、百歩もない。それでも一時間後には、自分がどっちの端にいるのか分からなくなっていた。提灯の色が東棟側と西棟側で違うのは気づいていた。でもどちらの色がどちらに対応するか、覚えていなかった。


 どこに立てばいいか。誰に話しかければいいか。


 その二つが同時に分からないまま、足が動かなかった。


 石畳に和洋が入り混じる提灯の連なりの下で、奏は顔見知りの何人かとすれ違った。1年生の同級生が二人、向こうから来たが、それぞれ別の輪の話題に引かれて通り過ぎていった。奏を無視したのではなく、ただ流れに連れていかれた。その違いが分かっても、中庭の端に一人でいる事実は変わらなかった。


 夜会服が、足元の石畳に影を作っていた。


 奏の上着は昨夜急いで出した中で一番きれいなものだった。でも廊下を歩いてくるあいだに見かけた上級生の刺繡の入った袖と並べると、種類が違う。鞄の質が違う。すれ違った名家の娘らしき生徒の、袖口の金糸の細かさが違う。奏はそれを比べたいわけではなかったが、目が自然と動いた。動くたびに、手の中に何かが積み上がっていく気がした。名前のつけにくい何かが。


「星宮さん」


 声がして、振り返った。


 冬子(ふゆこ)だった。厳奏(げんそう)冬子。尺八を帯に差した3年生が、取り巻きを三人連れて奏の正面に立っていた。学院の夜会では格上の生地を使った羽織を着ていたが、立ち方がいつもと変わらなかった。所作の一つひとつに、型があった。


「こちらの夜会には」と冬子は言った。「招待状がありましたか」


 感情がなかった。嘲りでも、好奇心でもなかった。ただ確認していた。事実として、この場に奏がいる資格があるかどうかを確かめていた。


「あります」と奏は言った。声が出た。それだけでよかった。


 取り巻きの一人が、冬子の少し後ろで声をひそめた。「星族(せいぞく)でもない方が観月祭に来ても——」。続きは言葉として届かなかった。でも文章の終わり方は分かった。


 石畳に落ちた提灯の橙を、奏は見た。


 南市場の石段で路上演奏をしていた頃に、足元にいつも伸びていた午後の色と同じだった。あの時は一人でも気にならなかった。でも今夜の中庭では、提灯の橙が少しだけ冷たく見えた。


「厳奏先輩」


 声がした。


 奏の知っている声ではなかったが、冬子の表情がわずかに変わったので誰か分かった。振り返ると、蒼羅が来ていた。奏と冬子の間に、ではなく、少し斜め後ろの位置に立っていた。蒼羅が来た、というより、通り過ぎようとしていたところで止まった、という立ち方だった。


「こちらへ」と蒼羅は言った。


 それだけだった。感情がなかった。説明もなかった。ただ「こちらへ」という一言と、中庭の奥の方を示すわずかな視線だけがあった。


 冬子が動いた。ためらいが一拍あって、それから動いた。取り巻きたちも続いた。それだけのことで、三人分の視線が奏から外れた。


 蒼羅が最後に奏の方を向いた。


 一秒だった。


「礼は結構です」と蒼羅は言った。


「え」と奏は言った。礼を言っていなかった。言おうとしていたことは確かだったが、まだ言っていなかった。


「あなたが弱く見える場面に、私がいるのが都合が悪いだけです」


 それで全て、という言い方だった。奏の返事を待たず、蒼羅は歩き始めた。冬子たちを人の輪の別の方向へ引き込んでいく。遠ざかる背中だけが見えた。


 奏は腹が立った。


 都合が悪い。その言葉が、一拍遅れて届いた。助けてくれたのに、都合だと言われた。奏を助けたことが善意ではなかった、という意味に聞こえた。そう聞こえた。聞こえたが。


 蒼羅の横顔を、奏は思い出した。


 さっきの蒼羅の横顔。奏を見た一秒の間の表情。


 その横顔に、今夜初めて見る種類の何かがあった。いつも見る蒼羅の顔ではなかった。計算された冷静さでも、揺るぎない自制でもない、別の何か。名前がついていない。でも奏の直感には届いた。


 この人は今、一人だ。


 何十人もいる中庭で、提灯と月明かりに囲まれたまま、蒼羅は完璧に孤独だった。孤独を感じている、という意味ではなく、孤独そのものの形をしていた。それが感情として整理される前に、体でそれを受け取っていた。


 奏は蒼羅の背中が人の輪に消えるまで、目で追った。


 それから一人で、中庭の隅へ歩いた。



 池があった。


 中庭の端、東棟の礎石に沿うように、長細い池が石で縁取られていた。提灯の橙が水面に落ちて揺れていた。月の影が池の右半分に伸びていた。


 月と提灯と、二つの光が水の上で混ざり合っていた。


 その縁に、誰かが腰をかけていた。


 月影(つきかげ)(しずく)だった。


 2年生の、水天の舞を踏む人。奏は名前と顔と、池のそばにいることが多いという噂だけを知っていた。今夜の雫は学院の夜会服を着ていたが、座り方が夜会にいる人のそれではなかった。石の縁にそっと腰を乗せて、水面を見ていた。池の向こうを見ているのか、水の中を見ているのか、その両方を同時に見ているのか判断できない目をしていた。


 奏が近づくと、雫が顔を上げた。


「座りますか」


 それだけ言った。歓迎している様子でも、怪んでいる様子でもなかった。ただ、石の縁に少し場所を空けた。


 奏は腰をかけた。


 池の水面を見た。月の影が、ゆっくり形を変えていた。雲が動いているのか、水が揺れているのか。


 遠くで演奏が始まった。


 声楽だった。誰かのソプラノが中庭に流れてくる。月明かりの下で声楽を聴くと、それが「音楽」ではなく「光の一種」に聞こえる気がした。奏には音が見えるので、そういう感覚が分かった。声楽の音の光は弦楽器のそれとは形が違う。もっと丸くて、境界が薄い。


 雫は演奏の方を向かなかった。ずっと水面を見ていた。


「篠笛の音が、好きです」


 声が来た。


 奏は少し驚いて雫を見た。雫は水面を見たままだった。


「そう、ですか」と奏は言った。


「ええ」


 沈黙が落ちた。遠くのソプラノが続いている。池の水が揺れて、月の影がまた形を変えた。どこかの木の枝が揺れる音がして、それだけが中庭の端まで届いてきた。


「前に聞いたことがある気がして」と雫は言った。


 声のトーンが少し変わった。水面に落とすような、独り言に近い言い方だった。


 奏は「前に?」と返そうとした。一拍早く、雫の口が閉じた。


「気のせいかもしれません」


 そう言って、また水面に向かった。


 「前に聞いたことが」という言葉の続きを、奏は頭の中で探した。篠笛の音を聞いたことがある。前に。どこで聞いたのかを、雫は言わなかった。言いかけてやめた。「気のせい」という言葉でふさいだ。その蓋の形が、なんとなく、気のせいではない形をしていた。


 でも奏には聞けなかった。


 聞けない気がした、というより、聞いてはいけない気がした。雫が言わないことには、言わない理由があった。それだけは分かった。


「奏さんは」と雫が言った。


「はい」


「どうして笛を吹き始めたんですか」


 奏は少し考えた。「父の工房に、楽器がたくさんあって」と言った。「ある日、一本だけ自分でもやってみたくなった」


「何歳の頃ですか」


「三歳か、四歳か。覚えていないけど、かなり小さい頃に」


「そのころから、音が見えましたか」


 質問がさりげなかった。池の水を見ながら、流すように聞いた。


「見えていたと思います」と奏は言った。「音が色になって見えること自体は、誰でもそうだと思ってた」


「違うと気づいたのは、いつ頃ですか」


「ここに来てから」


 少しだけ間があった。「そうですか」と雫は言った。「先生方も、光は見えないとおっしゃいますね」


 奏は「そういうものだと今は分かりました」と答えた。


 雫は水面をなぞるように視線を動かした。池の奥の方、石の縁に藻が少し生えている場所で、月の影が止まっていた。


「水面に映るものが見える時があります」と雫はぽつりと言った。「夢の中というのが一番近い説明ですが、夢より鮮明で、起きている時に見えることもあって」


 奏は「それは」と言いかけて、止まった。


 雫の言葉の続きを待った方がいい気がした。雫は続けなかった。「こういう夜は、よく見えます」とだけ言って、また黙った。


 池の水が静かに揺れている。月の光と提灯の橙が混ざり合う水面に、二人の輪郭が映っていた。はっきりした輪郭ではなく、ぼんやりと。誰かの影が水の上に浮いている、という程度の映り方だった。


 奏はその影を見た。


 自分の輪郭を、水の中に確かめた。


 いる。根拠のない確認だったが、今夜それが必要だった。ここにいる。星族でなくても、招待状は確かにあった。そして今、誰かと池の縁に並んで座っていた。


 遠くのソプラノが、また高くなった。


 雫の横顔が、音のある方角を向いた。一秒だけ向いて、また水面に戻った。音を聴いていたというより、音の方向を確認した、という感じだった。


「今夜の声楽は、一年生の方ですか」と雫は聞いた。


「聞いてみないと分かりません」と奏は正直に言った。


「そうですね」と雫は小さく頷いた。「悪くない音です」


 誰かを誉めているとは思わなかった。水面を読む目で、遠くの音を評している声だった。


 二人で月を見た。


 ただ、それだけの時間が続いた。


 誰もいない隅で、池の縁に並んで座って、月を見ていた。声をかけてくる人はいなかった。視線も来なかった。奏が場違いだということは、中庭の端でも変わらなかった。でも場違いであることを、この十数分間だけは意識しなかった。



 観月祭が少しずつほどけていく頃、白音が池のそばに来た。


「奏ちゃん、ここにいた!」という声がして、雫が顔を上げた。白音は奏の隣に来て、「先に帰る?」と聞いた。それから雫を見て、「あ、月影先輩ですか。こんばんは」と言った。


 雫は「こんばんは」と答えた。


 奏は立ち上がって、雫に「ありがとうございました」と言った。


「何を」と雫は聞いた。


「座らせてもらったので」


 雫は少しだけ首を傾けた。ありがとうを言われた意味を考えているような顔だった。それから「おやすみなさい」とだけ言って、また水面に向かった。



 寮への渡り廊下を、白音と並んで歩いた。


「蒼羅会長って、何を考えてるんだろう」


 奏は言おうとしていたことをそのまま言った。


 白音は「さあ」と答えてから、少しだけ考えた顔をした。珍しかった。


「でも」と白音は言った。


「でも?」


「声が、なんか」


「なんか?」


 白音はうまく言葉を見つけられない様子で、廊下の先を見た。「観月祭の時に話してた人はみんな、蒼羅会長の声楽が好きって言うじゃん。私も聞いた。確かにきれいだった。でも」


「でも?」


「なんか、悲しくなっちゃった」


 奏は足が少し止まりかけたが、止めなかった。


「悲しく、なった?」


「うん」と白音は言った。「何がとは言えないんだけど。悲しいと思ったわけじゃないのに、なんかそういう気持ちになった。変だよね」


 変だとは思わなかった。


 変だとは思わなかったが、すぐには答えられなかった。「そういうことって、あると思う」とだけ言った。


 白音は「そっかあ」と言って、また歩き出した。その声は少し引っかかりが残ったまま、廊下の空気に溶けていった。


 奏は並んで歩いた。


 渡り廊下の窓の外に、月が見えた。池の縁から見た月より、少しだけ高い位置にある。同じ月が、見る場所によって位置を変えて見える。それが少しだけ不思議だった。


 声の光は、遠くから聞こえていたので見えなかった。見えるほど近くにいなかった。でも白音が「悲しくなった」と言った時、何かが腑に落ちた。声の光に、深い色が混じっていたのかもしれない。どんなに磨いても、奥にある色だけは消えない。そういう色が、蒼羅の声の底にはあった。


 白音には、それが聞こえていた。言葉にできない形で、確かに。


 月が、渡り廊下の窓の外でちょうど雲に隠れた。一瞬だけ暗くなって、また出てきた。ほんの一拍の暗さだった。


 二人の足音が、廊下の石畳に続いていった。

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