第6話「泥臭い火花」
「下がれ、下町の子」
火輪炎華がバチを右手に構えた瞬間、演習場の空気が乾いた。
肌の表面から水分が引いていく。唇の粘膜がぴりりと収縮する。それだけが、奏には分かった。
奏は、下がらなかった。
◆
入学から二週間が経っていた。
共奏棟は東棟と西棟の中間に建つ。廊下を渡るとき、右に行けば神楽殿の太鼓の音がして、左に行けばコンサートホールのフルートの音がする。どちらでもない場所。どちらの楽器も、同じ床の上に並んでいる。奏がこの学院で初めて、自分が「どちらでもない」という事実を感じなくて済んだのが、ここだった。
合同実技演習は午後からだった。
「魔奏模擬戦演習」。入学案内書には「各星族の力の相互理解を深める実習」と書いてあった。実際は、星族の系統を活かした魔奏同士を当て合って、自分の力の出力量と方向性を確かめる場だ。一年生も二年生も三年生も混じる。先輩の演習を見て学ぶ面もある、と深川講師は言っていた。
深川は「参加は出力の制御が確認できた者に限ります」と言うときも、「本日の気温は演習に影響します」と言うときも、同じ平らな声だった。
奏は見学の席を割り当てられていた。
「判定不能の生徒を演習場に立たせることは安全上の懸念があります」
深川はそう言った。奏は「そうですか」と答えた。白音が奏の袖を引いたが、奏は首を振った。言い方が正しかった。
演習場の外壁に沿って置かれた長椅子の端に座り、奏は他の生徒たちの演習を見ていた。
最初の数組は一年生同士だった。詠星流の弦楽器が金色の光の壁を作り、天鳴流の声楽がそれを崩す、という組み合わせ。光と光がぶつかり合う瞬間に音が生まれる。演習場の床が震えるほど大きいこともあれば、ガラスがひびのように音も立てずに割れることもある。どちらも、奏には持っていない種類の力だった。
上級生の番になると、規模が変わった。
二年生の演習相手に選ばれた上級生が、天鳴流の気圧を盾のように張り巡らせた。演習場の空気が変わった。重くなった。奏には見えた。白銀の光が縦横に走り、空間そのものが一枚の膜になっていく。きれいな光だと思った。整然として、力強く、決して揺らがない光だった。
その膜が、三打で砕けた。
和太鼓の音が演習場に満ちた瞬間、奏は背もたれから少し前に出た。
橙色の炎が塊になって前方に向かっていく。鋭さがない代わりに、とんでもない圧力があった。太鼓の打面が生み出す衝撃波が炎を纏ったような。いや、炎そのものが楽器の振動から生まれているような。奏には区別がつかなかった。ただ見えたのは、あの白銀の壁が一打目で揺れ、二打目でひびが入り、三打目で割れた、という事実だった。
上級生が外壁まで吹き飛んだ。外壁が揺れた。煤が落ちた。
静寂。
演習場の中心で、炎華が一人で立っていた。バチを持ち直すでも下ろすでもなく、ただそこにいた。目線は前方の外壁に向いていて、自分が何をしたかを確認している様子もない。やるべきことをやった、という立ち方だった。
「えっと」と深川が言った。「相手側の結界強度の想定が足りなかったようです。続けましょう。次の組は――誰か自発的に申し出る方はいますか」
長椅子の生徒たちが、互いの顔を見た。
誰も動かなかった。
たった今、天鳴流の上級生が三打で飛ばされた。それだけで十分だった。
奏は立っていた。
自分でも、いつ立ち上がったか分からなかった。長椅子から足が離れた瞬間を、意識として捉えていなかった。演習場の中心で炎華が一人でいるのを見て、体が先に動いていた。
「奏、ちょっと待って」
白音の声がした。袖を引く手が来た。振り返ると、白音の顔があった。いつも笑っている白音が、笑っていなかった。奏はそれが、今日初めて見る白音の顔だと気づいた。
「大丈夫」と奏は言った。
「大丈夫じゃないと思うけど」
「たぶん大丈夫じゃない」と奏は訂正した。「でも行く」
白音は袖から手を放した。放す指が、少しだけ遅かった。
奏は演習場の砂の上を歩いた。足音が砂に吸い込まれる。演習場に漂う煤と火の匂いが濃くなってくる。正面に炎華がいた。近づくにつれて、高さが違うことが分かった。背が高い。奏より頭一つ分は上にある。
炎華は奏を見た。
視線が上から下に流れた。上着を見た。篠笛ケースで止まった。また奏の顔に戻ってきた。
「判定不能の子でしょ」
怒っていなかった。驚いてもいなかった。
「怪我するよ」
「分かってます」と奏は言った。
演習場の中心に立つ必要があった、という感覚だけがあった。それ以上でも以下でもなかった。
炎華は少しの間、奏を見た。
それからバチを持ち直した。
◆
深川が合図を出した。
奏は篠笛を取り出した。構えた。
音の光が見えた。今日の光は赤みがかっていた。演習場の熱気に引っ張られているのか、奏が感じている緊張が反映されているのか、分からない。ふだん見る橙色より重く、焦げた色をしていた。
炎華が打った。
単純だった。複雑な技法がなかった。ただ和太鼓を一打、叩いた。
その一打が炎になった。
炎の塊が正面から来た。奏は「鎮める音」を吹こうとした。指が鍵穴に触れた瞬間、間に合わなかった。吹く前に来た。熱さより衝撃が先で、胸に当たったと思った次には体が宙にいて、砂の上に背中から落ちた。砂が口の中に入った。天井が見えた。
演習場が静かだった。
「奏!」という白音の声がした。遠い。
奏は天井を見た。採光窓から午後の光が差し込んでいる。砂の匂いがした。背中が痛かった。
(立てる)
体に聞いた。体が答えた。脚が動いた。腕で体を押し起こして、砂を蹴って立った。膝が笑っていたが、立った。
炎華がこちらを見ていた。
何も読めない目だった。
「……しつこいね」
眉がほんのわずかだけ上がっていた。
「もう一回やりますか」と深川が言った。
「はい」と奏は答えた。
◆
二度目も飛ばされた。
今度は打たれる前に吹こうとした。吹いた。音は出た。光も出た。でも炎が来る速さに、光の届く範囲が追いつかなかった。衝撃波がまた奏を飛ばした。今度は横に転がった。砂の上で一回転した。
起き上がる前に、上着の袖を見た。
右の袖口が焦げて、茶色く変色していた。父が誕生日に選んでくれた上着だった。数ある上着の中で一番きれいだったやつ。
(洗っても戻らないかな)
ぼんやりと思った。痛みと一緒に、その思考だけがはっきりしていた。
立ち上がりながら、考えた。
音が遅い。いや、音の速さは変えられない。問題は向きだ。穂音芽吹が言っていた言葉が浮かんできた。「量ではなく、方向の問題かもしれない」。詠唱符の砕け方について言っていた言葉だったが、今は別の形で意味を持っていた。
炎を止めるのではなく、軌道を変える。
炎華がまた構えた。
奏は篠笛を持つ手に力を入れて、笛を唇に当てた。見えている光を確かめた。赤みがかった橙色の光。この光を、炎の端にだけ、そっと当てる。
鎮めるのではなく、ずらす。
吹いた。
意図を持って吹いた。音の光の向きを、炎の端の軌跡に沿わせるように絞った。うまく言語化できないが、そう感じたから、そう吹いた。
炎が来た。
端が、曲がった。
わずかだった。炎の主体はそのまま来て、奏はまた飛ばされた。でも今度の飛ばされ方が違った。斜め前方に、ではなく斜め横に飛んだ。炎の一番端っこの軌跡が弧を描いて、衝撃の向きが数度だけずれた。その数度の差が、奏を別の角度に転がした。
砂の上に転がりながら、確かめた。
曲がった。
炎の一端が、曲がった。
演習場が少しだけざわめいた。
◆
足音が近づいた。
炎華が奏の前に来て、止まった。見下ろしている。奏は砂の上に転がったまま、炎華を見上げた。
炎華は何も言わなかった。
しばらく、沈黙があった。
「終了です」と深川が言った。「炎華の判定勝ちです」
炎華の視線が奏から外れなかった。
「自分で立てる?」
「立てます」
「そう」
炎華は手を差し出さなかった。奏も必要なかった。腕で起き上がって、砂を踏んで立った。膝が笑っていた。それでも立った。
炎華が演習場の中心に戻りかけた。三歩ほど行ったところで、足が止まった。
振り返らなかった。
「もう一回やっといで」
それだけ言って、また歩き出した。
奏はその背中を見た。
どこに向かって言ったのか、分からなかった。奏に向けた言葉のようでもあり、演習場の空気全体に向けた言葉のようでもあった。「もう一回」の内容が何なのかも判然としない。聞き返そうとして、その背中の歩き方を見て、やめた。答えが返ってこない種類の背中だった。
◆
演習が終わり、生徒たちが共奏棟から出始めた。
奏は演習場の外の廊下に立って、焦げた袖を見ていた。
右の袖口。茶色くなった生地が硬くなっている。指でつまむと、ぱきりとした感触があった。
「炎華、あれ誉めてると思う」
白音が横から来た。
「え」と奏は言った。
「言い方が炎華さんっぽいだけで」白音は当たり前のように言った。「『もう一回やっといで』って、そういう意味でしょ」
「そうかな」
「うん。なんとなく分かる。私、そういうの」
白音が「なんとなく分かる」と言うとき、大抵あっている。奏はここ二週間でそれを学んでいた。
それでも、誉め言葉かどうかは奏には判断がつかなかった。飛ばされた事実は三回あった。炎の端が曲がったのは、ほんの少しだけだった。
廊下の窓のそばで、誰かがしゃがんでいた。
均星和音だった。演習場に面した廊下の窓のそば、石の出っ張りを腰掛け代わりにして、帳面に何かを書き込んでいる。演習の間もここにいたのかもしれない。
隣に、同じ演習を見ていた生徒が一人立っていた。
「あの音の動かし方、どの系統だっけ」
和音の声は低く、自分に言い聞かせるようだった。
「分からない」と隣の人が答えた。
和音は帳面から目を上げず、また何かを書き続けた。
奏には、その会話が全部聞こえた。
聞こえたが、考える前に白音が袖を引いた。「ほら、行こう。食堂が混む前に」。奏は引かれるままに廊下を歩き出した。和音の言葉が耳の奥に残ったが、その意味を追うより前に食堂の話が始まって、そのまま流れていった。
◆
共奏棟の出口に差しかかったとき、奏は立ち止まった。
白音が先に外に出ていた。奏だけが廊下の端で止まった。
視線の先に、人がいた。
中庭に面した廊下の柱のそばで、生徒の流れから一歩外れた場所に、獅鳴蒼羅が立っていた。奏が気づいたのは、出口まで三歩というところで顔を上げたからだった。
蒼羅は演習場の方を見ていなかった。
奏の方も見ていなかった。
共奏棟の外に向かう生徒たちの流れを、少し離れた角度から見ていた。その目がどこに焦点を合わせているのか、奏には読めなかった。考えているのか、考えていないのか、その表情では判断できない。
生徒たちが通り過ぎていく。流れが細くなっていく。
蒼羅は動かなかった。
他の上級生はすでに出ていた。残っているのは奏と、蒼羅だけになっていた。
奏が出口の柱を通り過ぎた瞬間、背後から靴音がした。
振り返ると、蒼羅が歩き出していた。別の廊下の方へ向かっている。金と銀の縁飾りが廊下の光を反射して、遠ざかっていく。奏のことを見たのか見ていなかったのか、最後まで分からなかった。
ただ、他の誰より少しだけ、立ち去るのが遅かった。
◆
外に出ると、春の午後の空気が当たった。
風がなかった。中庭の木の葉が、ほとんど揺れていない。学院の建物の向こうに、西棟の礼拝堂の尖塔が見えた。いつもと同じ景色だった。
奏は右の袖口を、もう一度だけ見た。
焦げた布。茶色くなった縁。洗っても戻らないかもしれない。
明日はまた理論の授業がある。詠唱符を砕くかもしれない。厳奏冬子に何か言われるかもしれない。「判定不能」という言葉がまた何かの形で飛んでくるかもしれない。
でも今日は――炎の一端が、曲がった。
ほんの少しだけ。拳一個分、端っこの軌跡が。
それだけで十分だった、と奏は思った。
正直なところ。




