第5話「夜の禁書庫と陰謀の種」
「入ってはいけない場所ですよ」
声は背後から来た。
奏は一歩、引いた。
振り返ると、蒼天が本を小脇に抱えて立っていた。腰に提げたランタンの橙色が廊下の石壁を縁取り、その輪郭だけを温かく浮かび上がらせている。表情は穏やかだった。穏やかすぎるほどで、深夜の廊下で人とばったり出くわした者の顔とは思えなかった。
「入ろうとしてたわけじゃ」
「分かっています」と蒼天は言った。「ここの前を通ると、みんな足が止まるんです」
◆
眠れなくなったのは消灯からしばらく後だった。
壁の向こうで白音が規則正しく息をしている。奏はその音を聞きながら天井を見ていた。石の目地が暗闇に走っているだけの、何もない天井だ。枕の硬さだけが首の裏に感じられた。
机の隅に、詠唱符の欠片がある。
昼間の授業で砕いた三枚目の破片。親指の爪ほどの、淡い琥珀色。芽吹が「三枚とも同じ箇所から亀裂が入っている」と言っていた。量ではなく、方向の問題かもしれない、とも。その「方向」が何を指すのか、奏にはまだ言葉として持っていない。教科書を読んでも当てはまる項目がなく、どの章も似たような場所で行き止まりになった。
付録を開いてみた。
「消えた奏脈に関しては付録Bを参照のこと」という一文が本文の端にあった。付録Bを繰ると、三行だった。
「星原流:約三百年前に途絶えたとされる幻の奏脈。詳細は学院禁書庫所蔵文献を参照。」
一行だけ、と言ってもいい。
奏は教科書を閉じた。開いた。また閉じた。部屋の蝋燭が風に揺れた。春の深夜の空気が廊下のどこかから漏れ込んでいるらしく、炎がわずかに傾いた。白音の寝息は変わらず続いた。
奏は起き上がった。
◆
図書館の扉は施錠されていなかった。
中に入ると、蝋燭台が数か所に置かれて低い光が書棚の間を照らしていた。利用者はいない。夜の図書館は昼より静かで、本の背表紙だけが光の中にある。石畳の冷たさが薄い靴底から伝わってきて、奏は思わず足の指を折り曲げた。
「星原流」で書架を探した。
歴史書の棚に「鳴響大陸音楽史」が並んでいた。第一巻の目次を開く。天鳴流の項目が二ページ。詠星流の項目が二ページ。星原流の項目は三行だった。「約三百年前に絶えた幻の奏脈。天鳴・詠星両流の源流であったとも言われるが、史料は乏しく詳細は不明。禁書庫に資料あり。」
別の本を引いた。星脈学の概論書。奏脈の説明の章に一段だけ注釈があった。「なお、三大奏脈以外の系統として過去に星原流が存在したとする説があるが、現在は公式には認められていない。」
公式には認められていない、という言い方。
「絶えた」と「認められていない」では言い方が違う。どちらかが正確で、どちらかが不正確なのか。それとも同じことで、奏が読みすぎているだけなのか。書架を一列、また一列と歩いた。奏脈史。星族系譜一覧。鳴響大陸の音楽大全。どれも似たような場所で止まった。詳しい資料は禁書庫に、という言葉だけが積み重なった。
どこかで音がした。
書架の奥から、布が擦れる音がした。
奏は足を止めた。
「本の整理は夜の方が静かで好きなんです」
声がして、蒼天が書架の角から現れた。本を数冊抱えて、棚と棚の間に立っていた。奏と目が合った。
「夜中に何を」
「眠れなくて。本を探していました」
「何を調べたいんですか」
奏は一拍だけ間を置いた。
「——星原流です」
蒼天の背中が、一拍止まった。
次の瞬間には歩き続けていた。本を棚に戻す手が動いていた。奏はその一拍を皮膚で受け取った。目で見た、というより、空気の変化として体が感じた。一拍分だけの、わずかな止まり方だった。
「古い奏脈の名前です」と蒼天は言った。「今は存在しない」
「消えたんですか」
「消えたとされています」
その「とされています」という部分を、奏は心の中で一度だけ繰り返した。「消えたとされている」という言い方と「消えた」という言い方は同じではない。どちらが正確で、どちらが不正確なのか。蒼天がその区別を意図したかどうかを、奏には判断できなかった。
「詳しい資料はどこにありますか」
「禁書庫だけです」と蒼天は言った。「一般には公開されていない資料しかありません」
それ以上は言わなかった。奏も続けられなかった。禁書庫の鍵を持っているのは蒼天だ。蒼天がそれ以上言わないということは、言えない何かがあるのだろうと思った。聞いても意味がない、という種類の沈黙だった。
「困っていることがあれば言ってください」と蒼天は言った。「読み方が変わります」
本を抱え直して、廊下の方へ向かった。
奏は「ありがとうございます」と言いかけて、止まった。
「一つだけ、聞いていいですか」
蒼天が足を止めた。振り返りはしなかった。待っているのだと、背中の角度で分かった。
「詠唱符が三枚割れました。三枚とも同じ箇所から。それはどういうことだと思いますか」
少し間があった。
「判定のための詠唱符は、特定の奏脈の出力に合わせて作られています」と蒼天は言った。「あなたの出力がその範囲に当てはまらなかった。それだけのことかもしれない」
「当てはまる出力の記録は、どこにありますか」
「禁書庫に」
また同じ答えだった。
蒼天は歩き出した。廊下の角を曲がって、橙のランタンの光ごと消えた。奏は図書館の入口に立って、しばらくその角を見ていた。誰もいない廊下。本の匂い。消えた光の残像。
◆
図書館の奥に戻るつもりで歩いた。
でも足は、書架の突き当たりで止まった。
禁書庫への廊下は一般書架の突き当たりを右に折れて、地下に向かう石段を降りた先にある。入学時に渡された案内図に、奏はそう書き込んでいた。入ったことはない。立入禁止の表示が扉に貼られていると聞いた。でも今夜は別の考えが来なかった。詳しい資料は禁書庫にしかない、という答えが四回積み重なった後に、他に行ける場所がどこにあったのか。
折れた角の手前で一度だけ止まった。
入ってはいけない。蒼天もそう言っていた。奏自身、入るつもりはない。ただ廊下の先がどうなっているかを、一度だけ確かめてみたかった。それだけのことだった。
石段を、見えるところまで降りた。
灰色の石段がランタンの光の届く先で途切れる。その向こうは暗い。扉の影だけが見えた。鉄扉。分厚くて、重い。閉まっている。奏が探していた資料はあの向こうにある。今夜は無理だ、と思った。
引き返そうとした。
光が見えた。
扉に接した狭い部屋の、ドアの隙間から、光が漏れていた。蝋燭の色をしていた。揺れていない。安定した炎の光だった。
声もした。
奏は動けなくなった。
「試演会での混乱を利用する」
低い男の声だった。東域のなまりがある。語尾の引き方に独特の癖があった。東棟の方面で耳にしたことのある、山の多い地域の出身者に特有の声の質だ。
「結界の第三節点が弱い。そこに仕掛ければいい」
別の声が応えた。年齢を感じさせない、感情の起伏がない、平坦な声だった。
「タイミングは試演会の前日にする。当日では修正できない」
「あの判定不能の新入生も計算に入れろ」と東域なまりの声が言った。「あれが自発的に魔奏を発動すれば言い訳が立つ。出力の制御ができていないのは証明されている。使いやすい」
奏の手のひらが、石段の壁に触れていた。
冷たい。石の冷気が掌から肘まで伝わってくる。声は続いている。聞こえている。でも体が固まっていた。動かし方を考える間もなく、すでに何かが奏の中で止まっていた。
使いやすい。
その言葉が耳の奥に落ちた後、しばらく何も動かなかった。
廊下の石畳を踏む音が、部屋の中で始まった。
二人が動く気配があった。奏の足は動いていた。考える前に石段を登り、廊下を折れて書架の陰に滑り込んだ。
扉が開いた。
廊下の石畳を踏む音が二つ、重なって聞こえた。一つは規則正しく、もう一つは間隔がわずかにずれていた。引きずるような、不均一な足の運び方だった。二人が廊下に出て、左右を確認する気配があった。
奏は書架の角材に背中をくっつけて、呼吸を止めた。
足音が止まった。
また動いた。遠くなっていく。角を曲がる気配。やがて聞こえなくなった。
呼吸を再開した。ゆっくり、意識して吸った。
書架の木が背中に当たっていた。冷たい。体温が少しずつ奪われていく感触だけが確かで、それ以外は頭の中をぐるぐる回る言葉だけだった。
試演会での混乱。結界の第三節点。判定不能の新入生。言い訳が立つ。
順番に繰り返した。繰り返すたびに輪郭がはっきりし、はっきりするほど重さが増した。
誰かに言うべきだ、という考えは来た。でも次が続かなかった。蒼天は禁書庫の鍵を持っていて「言えない」という態度の人だ。入学手続きの時、事務官は推薦者の名前を隠して押し通した。芽吹は「情報を提供しただけです」と言って歩いていった。蒼羅は奏の顔を一度だけ見て、一拍後に視線を外した人だった。
今夜は、誰にも言えない。
言えない理由があったのではなく、誰に言えばいいのかがまだ分からなかった。それだけだった。
奏は書架から離れた。図書館の出口に向かいながら、上着の袖を引いて手のひらを確かめた。熱はない。昼間に詠唱符を砕いた後の熱は、もうとうに消えていた。ただ手のひらだけがある。父が削り出した篠笛を何千回となく支えてきた、変哲のない手のひらだけがある。
廊下を歩いた。
春の夜の冷気が、書架の間にいた時よりもずっと深くなっていた。
◆
寮の廊下の角を曲がると、白音が扉のそばに座っていた。
袖口を合わせた寝間着のまま、廊下の石畳に足を投げ出して壁に背中をつけている。奏の足音を聞いて顔を上げる。眠っていたのか、目が少し細い。
「どこ行ってたの」
「……図書館」
「そんな顔して?」
白音は立ち上がった。足元の冷えた石畳を踏んで、奏の顔を正面から見た。眠そうな目をしているのに、視線だけはまっすぐだった。「そんな顔」がどんな顔なのかを、奏には確かめる方法がなかった。
白音はそれ以上聞かなかった。
奏の隣に並んで、「眠れない時は笑うのが一番だよ」と言った。それから理由もなく、にっと笑った。
奏は少し笑い返した。なぜおかしいわけでもなく、ただ白音が笑ったから笑った。それだけのことだったが、胸の中で固まっていた何かが、ほんの少しだけほぐれた。
部屋に入った。白音はあっという間に布団に戻って、また規則正しく息をし始めた。奏は机の前に座った。ポケットから詠唱符の欠片を出して、手のひらに乗せた。
親指の爪ほどの、淡い琥珀色の破片。
ポケットの中では冷えていたが、手のひらの上でしばらくすると、石の温度が皮膚に馴染んでいく気がした。
(試演会で、何かが起きる)
春の虫の声が窓の外に満ちていた。単調で、細くて、止まない声。奏はその声を聞きながら天井を見た。答えのないまま、夜だけが続いていた。




