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詠星学院の魔奏歌姫~星脈の秘め事と少女たちの嘘~  作者: 星村 流星
第一部 第1章「星脈の少女たち」
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第4話「型を持たない者」

 「星宮さん。あなたが今やったことは何ですか」


 三個目だった。


 講師・綾瀬玲の声は静かだった。怒鳴らない。感情の色もない。ただ問いかける。その静かさの方が、奏にはずっと堪えた。


 教室の正面に掲げられた黒板には「星脈(せいみゃく)共鳴学 第一章:出力の安定」と書かれている。授業開始から四十分が経っていた。そのうち奏に関係のある時間は三回だけだった。詠唱符(えいしょうふ)が砕けた瞬間が、三回。


 奏は自分の手を見た。指先に熱はない。震えもない。今し方、三個目の琥珀色の石板が砕けた事実だけが、床の破片の形でそこにある。


「……分かりません」


 言える言葉がそれしかなかった。


「分からない」


「はい」


「意図はありましたか。音を出す前に、何か考えましたか」


 何かを。考えたかどうか。奏は一拍だけ間を置いた。考えた、とは言えない。でも何も考えなかったとも違う。笛を構えた瞬間に光が見えた。その光の色に合わせて音を出した。ただそれだけのことだった。でも、それを説明する言葉を奏は持っていない。


「光が、見えました」


 綾瀬が少しだけ間を置いた。「音に、ですか」


「はい」


「光は見えません」と綾瀬は言った。「少なくとも、この教室では」


     ◆


 入学から一週間が経っていた。


 星脈共鳴学は一年生必修の基礎科目で、午前の二時限目に組まれている。詠星学院(えいせいがくいん)の西棟、白い漆喰の天井が高い教室で、石造りの長机に三十人が向き合う形で座る。窓の外には中庭の木が見えた。春の葉がまだ若くて、午前の光が斜めに差し込んで机の表面を白く染めている。風のない穏やかな朝だった。


 奏には縁のない光景ではないはずだった。教室に入ること、授業を受けること、それ自体は鳴央(めいおう)の学校でもやってきた。でも詠星学院のこの教室は、奏がこれまでいた場所とは種類が違う。机の傷の入り方が違う。生徒たちの鞄の質が違う。空気の重さが、違う。


 席に着いた奏の長机の上にも、一枚の石板が置かれていた。


 琥珀色の詠唱符。手のひらより少し大きく、均一な厚み。光を通す半透明の石で、縁に細い紋様が刻まれていた。一枚いくらするのか、奏には分からなかった。でも父の工房に置いてある素材の相場と比べると、なんとなく察せられるものがあった。


「星脈共鳴学とは、自分の星脈を安定した形で外部に発現させる技術を学ぶ学問です」


 綾瀬の声が教室の前方から流れてくる。三十代半ばで、淡い灰色の羽織を着た女性だった。感情の起伏が少なくて、話し方に余分な強調がない。「詠唱符はその発現を助ける媒体として機能します。今日は基礎の一節を使って、各自の出力を確認してもらいます。詠星流(えいせいりゅう)の方は金色の光を、天鳴流(てんめいりゅう)の方は白銀の光を石板に通してください。出力量は一割程度で構いません」


 隣の生徒が楽器を構えた。


 ヴァイオリンを短く一弓引く。金色の光が詠唱符の表面にすっと宿って、紋様のように広がった。細くて安定した光だった。綾瀬が「第三号族、詠星流確認」と帳面に書き込む。


 次の生徒は三味線だった。白銀の光が滑らかに石板を満たした。それぞれの光がそれぞれの形を作る。整然としていた。奏から見ると、何かを「やっている」というより、何かが「出てきている」という感じに見えた。


 奏の番が来るまで、十五人分のそれを見ていた。


 金色が十人。白銀が五人。光の色は違っても、石板が応える形はどれも安定していた。割れなかった。誰の石板も、割れなかった。


 (私には理論がない)


 それが問題だと、この一週間で分かっていた。技術の話ではない。言語の話だった。他の生徒たちは「なぜそうなるか」を学んだ上で演奏している。感覚の前に体系がある。それが血脈から来るものなのか、教育から来るものなのか、奏には判断できなかった。ただ確実なのは、奏にはその体系がない、ということだけだった。


 幼い頃から父の工房で篠笛を拾い、見よう見まねで音を出してきた。教わったのは「指の置き方」だけで、「なぜそこに指を置くか」は誰も教えてくれなかった。音が見えていたから、それで十分だったからだ。


 今日まで。


「星宮さん」


 綾瀬に呼ばれた。


 前に出た。予備の詠唱符が三枚、綾瀬の机の脇に積まれていた。奏が近づくと一枚が差し出された。「基礎の一節で結構です。篠笛で」


 笛を取り出した。


 構えた。


 一節、吹いた。


 詠唱符が、割れた。


 乾いた音がした。石板の右上の角から亀裂が走り、三つに砕けた。破片が床に落ちて、教室全体が一瞬だけ静止する。奏はまだ笛を構えたまま、砕けた石板を見ていた。


「申し訳ありません」


「もう一度やってみましょう」と綾瀬は言った。怒っていなかった。「今度は出力を抑えて」


 二枚目が差し出された。


 出力を抑えるという意味が、奏には分からなかった。量を減らす。音を小さくする。でも音の大きさと出力が同じものかどうかも、定かでない。とにかく、ふだんより控えめに吹こうとした。


 二枚目が、割れた。


 同じ場所から亀裂が入った。


 教室の後方から、空気の変化があった。声ではなかった。でもざわめきの気配だった。奏には聞こえていた。「また割れた」「三回目になるの」「判定不能だって聞いたけど」。一つひとつを拾えるほど明確ではない。でも自分が中心にいる、ということだけは分かった。


「もう一度」と綾瀬は言った。


 三枚目が置かれた。


 奏は笛を持つ手を一度、膝の位置まで下げた。深呼吸した。何かを整えようとした。整えるべき何かが自分の中にあると信じて、その何かを探そうとした。でも見つからなかった。ただ見えているのは音の光で、光は鳴らす前からすでにそこにある。前の二回と、何も変わっていない。


 吹いた。


 三枚目が、割れた。


     ◆


「星宮さん。あなたが今やったことは何ですか」


 奏は篠笛を下ろした。


「基礎の一節を吹きました」


「それ以上のことは」


「分かりません」


「演奏前に、何かを意図しましたか。目標、または効果の想像」


「光の形に合わせて、吹きました」


「光の形」


「音に光が見えます。その光がどんな形になるかを想像して――」


「色は見えますか」と綾瀬は言った。


「見えます」


「何色でしたか。今の演奏で」


「金と、白銀が混じって。その奥に、別の色が少し」


「音に色は見えません」と綾瀬は言った。「少なくとも、この教室では」


 それだけだった。否定ではなかった。ただ事実として言った。奏には返せる言葉がなかった。


「先生」


 後方から声が来た。


 厳奏(げんそう)冬子が長机のそばに立っていた。尺八が帯に差されている。三年生がこの授業の教室にいることを奏は少し不思議に思ったが、後でどこかで聞いたところによれば、上級生は希望すれば下級生の授業を観覧できる制度があるのだという。


「この生徒に詠唱符を使わせ続けることは」と冬子は言った。奏ではなく、綾瀬に向けて。「学院の施設への過度な負担になるのではないでしょうか。判定不能の生徒が今日だけで三枚を損壊しています。授業の継続が適切かどうか、確認する必要があると考えます」


 感情も嘲りもなかった。ただ正確だった。


 そこが一番、堪えた。


 正確な事実を正確に述べているだけだった。反論できなかった。詠唱符が三枚砕けた。それは事実だ。意図して砕けさせた覚えはない。意図していなくても、問題は問題だった。


 奏は床の破片を見た。


 (一個、いくらするんだろう)


 そのことを考えていた。


 真剣に、頭の中で計算していた。詠星学院の備品の価格が鳴央の相場より高いのは当然として、琥珀色の石板、星脈を通す加工、あの均一な厚み、父の工房の月の稼ぎと比べると、大体どのくらいになるか。三枚分。今日の授業一日だけで。


 (場違いだ)


 感情としてではなく、数字として、その結論に至った。


     ◆


 授業が終わった後、奏は教室に残って床の破片を拾おうとした。


「放っておいていいです」と助手の職員が言って、奏の手から受け取った。


 廊下に出ると、白音が待っていた。


「大丈夫?」


「大丈夫じゃないと思う」


「そっか」と白音は言って、並んで歩き出した。それ以上聞かなかった。


 廊下の窓から中庭が見える。風がなくて、木の葉が動かない。午後の授業まで少し間があって、他の生徒たちが思い思いの方向に散っていく。奏は廊下の端を歩いた。焦げた石の匂いが、まだ上着の袖に残っている気がした。


「星宮さん」


 声が来た。


 振り返ると、眼鏡の少女が立っていた。


 馬車の中で本を読んでいた人だった。一度だけ奏を見て、また本に戻った人。穂音(ほおと)芽吹という名前を、奏はまだよく知らなかった。授業では常に前列の端に座っていて、答えるときだけ短く、正確に答える。それ以外の時間は本か帳面に向いている。


「少し聞いてもいいですか」


 白音が「いいよ!」と言った。奏が答える前に。


 芽吹は白音を一度見て、それから奏に戻った。「砕けた詠唱符の三枚について、です」


 帳面を開いた。走り書きの図が見える。


「三枚とも、同じ場所から亀裂が入っています」と芽吹は言った。「右上の角から、斜め四十五度の方向に。一枚目も、二枚目も、三枚目も、同じ箇所です」


 奏は「見ていたんですか」と聞いた。


「観察していました」


 ただそれだけを言った。観察した。だからメモした。そういう人だった。感情も同情も、そこにはなかった。ただ事実を記録している人間の目で、奏を見ていた。


「場所が一定ということは」と芽吹は続けた。「無制御の乱れではなく、出力の方向が固定されている可能性があります。つまり問題は量ではなく、流れている方向かもしれない。量を下げても同じ場所で砕けるのは、そのためではないかと」


 奏はその言葉を、一拍ずつ受け取った。


 量ではなく、方向。


「どうすれば、方向が変わるんですか」


「分かりません」と芽吹は言った。帳面を閉じた。「ただ、量を落とすことに注力しても、あまり効果がないと思います」


 それだけ言って、踵を返そうとした。


「ありがとう」と奏は言った。


 芽吹は少し止まった。振り返りはしなかった。「情報を提供しただけです」と言って、歩いていった。


 白音が「なんか、不思議な人だね」と言った。


「うん」


「でも親切じゃん」


 奏はその背中を目で追った。廊下の先を曲がって、消えた。


 親切かどうかは分からなかった。ただ正確だった。今の奏には、それで十分だった。


     ◆


 廊下の角を曲がりかけたところで、奏は立ち止まった。


 床に、詠唱符の欠片がひとつ落ちていた。


 職員が片付けた後に、靴で蹴られて転がり出たのかもしれなかった。大きさは親指の爪ほど。淡い琥珀色で、角が鋭く割れている。


 奏は屈んで、それを拾った。


 上着のポケットに入れた。理由は特にない。捨てていくのが気になっただけだった。


 もしかしたら、ただ捨てたくなかっただけかもしれない。


     ◆


 夕食の後、奏は寮の部屋で教科書を開いた。


「星脈共鳴学 入門」という表題の、分厚い冊子だった。入学時に全員に配布されたもので、奏はまだ最初の章しか読んでいなかった。第一節のタイトルは「星脈の起源と三大奏脈(そうみゃく)の系統」。


 ページをめくった。


 天鳴流の星脈は白銀の光を持ち、浄化と生命力の回復に作用する、と書いてある。詠星流の星脈は金色の光を持ち、知識と感応の操作に作用する、と書いてある。すべての魔奏家(まそうか)はいずれかの系統の末裔として生まれ、詠唱符はその系統の光を媒介として星脈に共鳴する。


 奏に当てはまる系統が、この教科書にはない。


 金と白銀が混じった色。あの色は、どのページにも書いていなかった。


 補足欄を見つけた。「詠唱符の損壊について」というタイトルで、小さな字が数行並んでいる。「詠唱符は通常の出力では損壊しない。損壊が生じた場合は過入力、または系統不一致による反発が原因として考えられる」と書いてある。


 系統不一致。


 奏の出力は、詠唱符が想定している系統のどれとも一致しなかった。だから砕けた。芽吹が言った「方向」とはそういうことかもしれない。でも系統不一致の場合の対処法は書いていなかった。想定されていないのかもしれなかった。


 蝋燭の炎が少し揺れた。


 寮の廊下から、誰かが話している声が聞こえてくる。遠くで誰かが笑っている。白音はさっき「先に眠るね」と言って、規則正しく息をしていた。


 奏は教科書のページをもう一枚めくった。


 明日もある。とりあえず、そう思うことにした。


 そうやって、次のページを開く。


 窓の外から、春の虫の声が入ってくる。細くて、単調で、それだけが部屋に満ちていた。


     ◆


 翌朝の朝食の途中で、奏は箸を止めた。


 食堂の窓の外、授業棟に続く渡り廊下を、誰かが歩いている気がした。紺の羽織。小脇に帳面。図書館の方角に向かう背中。


 蒼天(そうてん)司書だった、かもしれない。


 奏は確かめに行かなかった。確かめる理由も、聞くべき言葉も、なかった。


 ただ、その背中が授業棟の窓の前を通り過ぎた一瞬だけ、こちらを向いた気がした。


 気のせいかもしれない。


 奏はまた箸を動かした。白音がいつものように向かいで喋っている。今日の午後の科目のことを、昨日の夕食がどうだったかを、それから全然関係のない何かを。奏はその声を聞きながら、朝食の白い湯気を見ていた。


 詠唱符の欠片がポケットに入っている感触がした。


 (量じゃなく、方向)


 芽吹の言葉が、また浮かんだ。

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