第3話「星脈判定不能」
星脈典礼堂の天井は、夜空だった。
正確には、夜空ではない。春の昼間で、天窓から白い光が差し込んでいる。でも88の星座紋章が石に刻まれた穹窿の全面に魔奏のフィールドが張られ、紋章の一つひとつが薄く発光している。午後の光の中に星座が浮かんでいる、その取り合わせが、奏にはどうしても夜に見えた。
◆
乗合馬車が詠星学院の門をくぐったのは、午前の終わり頃だった。
東棟の赤瓦屋根と、西棟のアーチ型の礼拝堂が並んで建っている。和洋折衷という言葉の意味がこれか、と奏は馬車の窓越しに眺めた。それ以上の感想は出てこなかった。
下ろされた荷物を拾い上げて、案内の職員の後ろについて歩きながら、奏は敷石を数えていた。数えることで、それ以外のことを考えないでいられた。「星脈典礼堂での判定は入学当日に行われます。特例入学者は最後の番です」と職員は言った。「御準備を」とだけ付け加えて、廊下の先に消えた。
準備、という言葉の中身が奏には判然としなかった。
篠笛は鞄の中にある。それ以上のものを持っていないし、持つ方法も知らない。
待機室に通された。石造りの廊下の突き当たり、厚い扉の手前にある小部屋だ。長椅子が一つと、小さな鏡台。鏡に映った自分を奏は見た。着替えてはきた。昨夜、急いで出した中でいちばんきれいな上着だ。でも廊下を歩いてくるあいだに見かけた上級生の刺繡の入った袖と並べると、種類が違う。
鏡を見るのをやめた。
扉の向こうから、音が聞こえてきた。
判定が進んでいる音だった。詠唱符と呼ばれる魔奏媒体が星脈と共鳴したとき、どんな音がするのかを奏は知らなかったが、それだとわかった。一節ごとに、何かが呼応する気配が扉を通り越して伝わってくる。
奏は長椅子に座ったまま、篠笛ケースを膝の上に置いた。
革紐の感触。父が選んだ革の、少しごわついた感触。笛の傷のことをまた思い出した。昨日、石畳についた細い線。磨いても消えなかったやつ。
音が止んだ。
また始まった。
また止んだ。
そうやって入学生たちが一人ずつ判定を受けているあいだ、奏は扉の手前で音を聞いていた。ときどき、誰かの靴音が廊下を行き来した。ときどき、遠くから生徒の声がした。奏の順番はずっと最後だと言われていた。どれくらい待つのかは教えられていない。
ケースの留め具を一度開けて、また閉めた。
◆
「次は、星宮奏さん」
職員が扉を開けて言った。
奏は立ち上がり、鞄を肩にかけ直し、篠笛ケースを手に持った。それから一度だけ、廊下の突き当たりを振り返った。誰もいなかった。振り返る理由がなかった。でも振り返った。
扉が開いた。
典礼堂に入った瞬間、奏は足を止めた。
広さは想像より大きかった。正面に壇上があり、判定用の詠唱符が三本の柱の上に設置されている。側廊に沿って木製の長椅子が並び、入学生たちがすでに座っていた。奏が扉から入ったとき、視線がいっせいに集まった。感じた、というより皮膚がそれを知った。
天井を見上げた。
88の星座紋章が、薄く光っていた。
獅子、双子、蟹、乙女、天秤。それぞれの形が石に刻まれ、魔奏のフィールドに浮かんでいる。奏には名前を全部は言えなかったが、形はいくつか見覚えがあった。父の工房の本棚に、星座早見盤が一冊あった。幼い頃、何度かめくった記憶がある。
「こちらへ」と判定官が言った。
壇上の手前まで進んだ。
判定官は五十代くらいの女性で、白の法衣を着ていた。感情の読めない顔をしていた。奏を一瞥してから、書類を確認してまた奏を見た。
「特例入学の星宮奏さんですね」
「はい」
「担当楽器は」
「篠笛と、フルートです」
判定官は書類に何かを書き込んだ。
「では、篠笛で結構です。詠唱符の前に立ち、普段通りに一節お吹きください。構える楽器の種類と奏法は問いません。星脈との自然な共鳴を確認します」
普段通り、という言葉が奏の耳の中で転がった。普段通りにやれば鳴蟲を呼んだのが昨日のことだった。普段通りにやると、何が起きるかわからない。でもそれを今さら言える状況でもない。
ケースを開けた。
笛を取り出した。
傷のついた管。父が削り出した竹。指先に馴染んだ細さ。
壇上の詠唱符の前に立った。三本の柱のそれぞれに一つずつ、琥珀色の石板が据えられている。学院の職員が周囲に配置された。判定官が手を上げた。
静寂が落ちた。
典礼堂の全員が、奏を見ていた。
奏は笛を唇に当てた。
一呼吸。
吹いた。
◆
最初の一秒は何も起きなかった。
詠唱符が反応しなかった。三本の石板が、静止したままだった。典礼堂に音だけが広がった。奏の音。篠笛の音。南市場の石段でいつも吹いていた、あの音。
奏の目に、音の光が見えた。
橙色の光が笛の端から伸びて、典礼堂の空気に溶けこんでいく。いつもの光だった。普段の、奏の音の光だった。
でも次の瞬間、光の色が変わった。
金になった。
白銀が混じった。
昨日の市場と同じだった。奏には止める方法がわからなかった。止めようとした。でも音は続いた。笛を鳴らし続けている指先から、唇から、何かが外に出ていこうとしている。体の内側で何かが動いた感触があった。
典礼堂が揺れた。
揺れた、というより、応えた。
88の星座紋章が、いっせいに光った。
一つではなく、全部が。獅子も、双子も、蟹も、乙女も、天秤も、魚も、射手も、山羊も、水瓶も、牡羊も、奏が名前を知らない星座も、全部が同時に輝いた。白い光が典礼堂の穹窿全体から降り注いで、一秒だけ、礼堂の中が昼よりも明るくなった。
それから、消えた。
判定官の手元で、詠唱符の石板が割れる音がした。
乾いた、短い音だった。
奏は笛を下ろした。
典礼堂に沈黙が落ちた。
判定官がもう一度石板を確認し、奏を見た。表情が変わっていた。さっきの「感情の読めない顔」とは違う、何かを処理しようとしている顔だった。
「……判定不能」
その声は典礼堂の石の壁に反響した。
奏の足元で、礼堂の敷石に白い光の焦げ跡が残っているのが見えた。南市場の石畳と同じ、光の通った跡だった。
◆
後ろから声が飛ぶまで、少しだけ間があった。
「判定不能って、何?」
質問ではなかった。確認だった。
声のした方を向かなくても、奏にはわかった。何か言われる気がしていた。振り返ると、後方の長椅子から立ち上がっている人物がいた。3年生の制服。尺八を帯の傍らに差し、背筋が真っ直ぐだった。声と同じくらい、立ち方が硬い。
「88の系譜のどれにも属さないということですか」
「あるいは」と別の声がした。前方の席から、別の1年生が言った。「星族を持っていないということ?」
「どちらでもない」と判定官は言ったが、声に迷いがあった。「判定のための詠唱符が、反応の前に損壊した。原因を確認中です」
「でも典礼堂全体の紋章が光った」
「一瞬だけ全部が光るという現象は記録にない」
声が重なり始めた。奏には一つひとつを拾えない。ただ自分を中心に、声が増えていくのがわかった。
「あなた、本当に人間ですか」
静かな声だった。
奏は声の方を向いた。
尺八を帯に差した少女が、奏の正面に立っていた。いつ近づいてきたのかわからなかった。距離は三歩ほど。目が合った。
嘲りではなかった。好奇心でもなかった。奏の知っている感情の名前がどれも当てはまらない目をしていた。ただ、事実を確認している。そういう目だった。拒絶の温度があった。奏ではなく、奏が体現している「判定不能」という現象そのものを、前に立てておけないと言っている目だった。
奏は何も言えなかった。
言葉を探した。でも見つからなかった。
人間です、と言うのは変だった。そんなことを聞かれて答える言葉を、奏は持っていなかった。
「厳奏先輩」
別の声がした。
低くて、よく通る声だった。
典礼堂の後方段上から、その声は来た。奏が振り返ると、壁際の上段に人がいた。3年生の制服に、金と銀の縁飾り。奏が今日の朝の馬車の中で一度も想像しなかった種類の美しさを持った人だった。立ち方だけで場所を持っている。そういう人が実在すると、奏は初めて知った。
「来客もいらっしゃいます。典礼堂での発言は節度をもって」
それだけだった。感情がなかった。奏を助けているのか助けていないのかも、判然としなかった。ただ声を出した、という事実だけがあった。
尺八を差した少女が、少し間を置いた。
「申し訳ありません」と言って、長椅子に戻った。
場の空気が変わった。全員の視線が、奏から外れた。
奏はまだ壇上の前に立っていた。
判定は、終わっていない。終わっていないのか、すでに終了扱いなのか、奏にはわからなかった。判定官が書類に何かを書き込んでいる。詠唱符の欠片を職員が片付けている。奏のために誰も何も言わない。奏はただそこに立っていた。
篠笛を、まだ手に持っていた。
◆
典礼堂から出るとき、横に並んできた人がいた。
奏と同じ、新入生の制服だった。茶色の髪が明るく、口元が最初から笑っている。ヴァイオリンケースと、もう一つ小ぶりなケースを両手に持っていた。
「ねえ、あなた、さっきすごかったね」
「……すごく、なかったと思うけど」
「全部光った!」
廊下で言う声の大きさではなかったが、本人は全く気にしていなかった。「88個、全部。私、それって絶対すごいことだと思う」
奏には返す言葉がなかった。
すごいことなのかどうか、奏には分からなかった。88の紋章が全部光った。詠唱符が割れた。判定は不能だった。その三つが並んでいて、どれが何を意味するのかが整理できていない。
「すごくない、かもしれない」と奏は言った。「判定できなかっただけだから」
「それでも全部光った」少女は自分の主張を引っ込めなかった。「光ったのは事実じゃん。私なんて、双子座しか光らなかった」
「双子座が光ったんなら、判定できたってことでしょ」
「それはそうなんだけど」少女は小首を傾げた。「でも全部は光らなかった。全部って、さすがに全部だよ。記録ないって先生も言ってたし」
奏は廊下の石畳を見ながら歩いた。
記録がない。それが良いのか悪いのか、まだわからない。判定不能の先例は過去に二名だけという記録を、昨夜読んだ便覧は書いていた。三名目が自分になる。三名とも、特例入学後に退学している。
「友達第一号、名乗っていい?」
奏は少し驚いて顔を上げた。
少女は笑ったまま、「双星白音って言うんだけど」と続けた。
「……星宮奏」
「奏ちゃん!」白音は即座に呼んだ。呼び捨てより早かった。「よろしく。これからよろしく」
奏は答えた。
笑った。体の力が抜けて、そうなった。
「……こちらこそ」
白音は満足そうにうなずいた。ヴァイオリンケースを持ち直して、廊下を並んで歩き始めた。
「ところで、あの尺八の先輩に何か言われてたけど、大丈夫だった?」
「大丈夫かどうかは、よくわからない」
「まあ、あんな言い方するのはあの人だけだよ。他は普通だから」と白音は言った。「厳奏さん、3年生で有名な人なんだって。天鳴流の家元の関係者で、すっごく伝統主義なの。噂で聞いた」
「噂で?」
「馬車の中で聞いた」
「今日来たばかりなのに」
「話しかけたら教えてもらえるんだよ」白音はごく当たり前のように言った。「私、馬車ずっと話してた。奏ちゃんは?」
奏は「……本を読んでる人がいて」と答えかけて、止めた。馬車の中で眼鏡の少女が本を読んでいた。一度だけ奏を見た。それだけのことだったので、言うほどでもないと思った。
「他は誰かと話した?」
「いや」
「一人だった?」
「うん」
白音は少しだけ、奏の顔を見た。何かを言いかけて、やめた。
「じゃあ、ここからは二人だ」と言った。
奏はその言葉の軽さに、少し救われた。救われた、と気づいたのはその後だった。
◆
典礼堂を出てから少し経って、廊下の分岐点で奏は一人になった。白音が別の新入生に声をかけられて、そちらに引っ張られていった。白音自身は気にした様子もなく、行く前に「あとで!」とだけ言った。
奏は廊下の石柱の傍に立った。
荷物がある。部屋の割り当ても聞かなければならない。学院のことを何も知らない。何がどこにあるのかも、これからの予定も、何もわからない状態でここに来た。
でも今は、しばらく一人でいたかった。
石柱に背中をつけた。高い天井から白い光が差し込んで、廊下の床が明るかった。外から風が入ってくる音がした。どこかの扉が開いているらしい。春の匂いが、石の廊下に溶けこんでいた。
(全部、光った)
白音が言った言葉が、もう一度頭の中に出てきた。
奏には、それが何を意味するのか説明できない。自分の音が88の紋章全部に届いた。でもそれは、どの系譜にも「属している」ということではなくて、どの系譜にも「当てはまらない」ということだったのかもしれない。判定官は「判定不能」と言った。不能は、測れないということだ。
石柱の表面に指先を当てた。
ざらついた、冷たい石の感触。
(ここに、いていいんだろうか)
答えは出なかった。今日はまだ出なかった。
廊下の向こうから、足音がした。
誰かが近づいてくる。奏は石柱から背中を離した。顔を上げた。
廊下の先、後方段上から降りてきた人だとわかった。典礼堂の上段にいた、あの人だった。金と銀の縁飾りの制服。並んで歩く生徒が二人いたが、足を止めると二人もいっせいに止まった。
奏の前を通り過ぎようとして、横目で一瞬だけ奏を見た。
奏は動けなかった。
視線が合った。一秒か、二秒か。
奏が感情を読もうとする前に、視線が外れた。通り過ぎていった。二人の随行者がついて行った。廊下の先に消えた。
足音が遠くなった。
奏は呼吸した。
さっきまで止めていたわけではなかったのに、意識して息を吸った。どうしてそういう気持ちになるのか、うまく説明できなかった。
石柱の傍にもう少し立っていた。
春の匂いが続いていた。
廊下の遠い方から、白音の笑い声が聞こえてきた。誰かと話しているらしい。あの笑い声は、遠くからでもわかった。
奏は荷物を持ち直した。
部屋の割り当てを聞かなければならない。今日の予定を確認しなければならない。何もわからないまま立っていても仕方がない。
廊下を歩き始めた。
石畳の感触が靴底に伝わってくる。
一歩ずつ、確かめるように歩いた。




