第2話「逃げ場のない二択」
「星宮 奏。あなたを今すぐ詠星学院に入学させます」
それが選択肢の片方だった。
◆
査問の間に、似つかわしくない人がいた。
徴収局の建物は石造りで古く、廊下は薄暗く、壁の漆喰には年季の染みが浮いていた。奏が連れてこられた部屋も同じで、机は傷だらけ、窓の桟には埃が積もり、訊問用の椅子は足が一本短いのか、座るたびに微かに傾く。そういう場所だった。
なのに机の向こうに座っている女は、その部屋のどこにも馴染んでいなかった。
黒の羽織。袖口に銀糸の刺繍が細かく入っていて、光の角度によって図柄が浮き上がる。四十近いか、あるいはもっと若いか、判断がつかない顔立ちをしていた。眼鏡の奥の目に、感情の色がない。机の上に一冊の帳面を開いているが、奏が椅子に座っても視線は上がらず、帳面の余白に何かを書き足している。ペンが走る音だけが部屋に満ちていた。
徴収官が出ていった。扉が閉まる音がした。
女は書くのをやめ、帳面を閉じた。
「深奏律と申します」と言った。抑揚の平らな声だった。「詠星学院の入学審査を担当しております」
奏の背筋が伸びた。
詠星学院。鳴央の高台に建つ、東西双方の魔奏技法を教える最高学府。星族の名家の子女が全寮制で学ぶ場所。奏には縁のない名前のはずだった。
「あの」と奏は言った。「魔獣を呼んだ件は」
「無許可魔奏の件について、調査は済んでいます」
深奏は机の上に書類を一枚、置いた。
奏は目を落とした。
白い紙の中央に、縦書きで太い文字が並んでいる。「詠星学院 特例入学許可証」。その下に、すでに名前が書かれていた。
「星宮 奏」と。
インクがまだ乾いていた。
「これは」
「あなたへの入学通知です」
「待ってください」奏は書類から目を上げた。「なぜ私の名前が、いつ」
「説明いたします」深奏は帳面を再び開いた。「あなたが今日起こした事案は、無許可魔奏の発動に関する第七条に該当します。初犯ですが、今回の事態は市場の公共区画で発生し、鳴蟲の大量出現という実害を伴いました。この場合、罰則は二つに絞られます」
机に何かが置かれた。
今度は一枚ではなく、薄い冊子だった。奏は手に取る前に文字を読んだ。「星脈封印執行規定」とある。
「一つ目は」と深奏が言った。「星脈の強制封印。あなたが保有する魔奏能力を、公認の術式によって永続的に封鎖します。封印を施した後は、普通の市民として生活することが可能です」
普通の市民。奏の手が、膝の上で篠笛ケースの革紐を握った。
「二つ目が」深奏は許可証の書類を指先で軽く叩いた。「学院への入学です。詠星学院の管理下において、あなたの魔奏能力を安全に制御する教育を受けること。在学中は学院の規則に従い、定期的な能力審査を受けることが条件となります。規則を守れる限り、封印は免除されます」
星脈の強制封印。
笛が吹けなくなる。
その意味が、一拍遅れてやってきた。音が見えなくなる。五歳の頃から当たり前のようにそこにあった感覚が、術式一つで、明日からは消える。指先が冷えた。気づいたのは、奏が視線を下に向けてからしばらく経った後のことだった。
「どちらかを選んでください」と深奏は言った。
「いつまでに」
「今日中に」
奏は机の上の二枚の書類を交互に見た。入学許可証と、封印執行規定。どちらも同じくらい実感がなかった。でも一方には自分の名前がすでに書いてあって、もう一方には「永続的に」という文字があった。
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「推薦者の欄が匿名になっています」奏は許可証の下部を指した。「誰が私を推薦したんですか」
深奏は帳面のページをめくった。「学院の入学審査規定に基づき、推薦者の個人情報は審査の段階では開示されません。ただし」と、ほんの少しだけ間があった。「入学後に、院内で自然に明かされることもあるかもしれません」
「自然に」
「ええ」
深奏はそれ以上言わなかった。
奏は窓の外を見た。徴収局の建物が面している通りは狭く、向かいの家の壁しか見えない。その壁に、午後の影が斜めに伸びていた。
「父に連絡を取ることはできますか」
深奏は少し間を置いた後、「電報の使用を許可します」と言った。
◆
徴収局の電信室は廊下の奥にあった。
係の男に用紙を渡されて、奏は短い文章を書いた。
「お父さん。学院か封印か選ばないといけなくなった。どうすれば」
それだけ書いて、送った。
返信は三十分後に来た。
「行きなさい。お父さんは大丈夫だから」
奏は電文を三回読んだ。
文字の数を数えた。十二文字。電報は文字数で料金が決まる。父はいつも倹約家で、無駄な言葉を書かない人だった。短い文章に驚くべきではなかった。でも奏の手のひらの下で、電文の紙が少しだけ皺になっていた。
(大丈夫、という言葉を使う必要があった)
大丈夫でなければ、大丈夫とは書かない。大丈夫なら、書く必要もない。そのどちらかを考えかけて、奏は思考を止めた。考えるには時間が足りなかった。返事をしなければならなかった。
電信室を出て、査問の間に戻った。
「入学します」と言った。
深奏は帳面を開き、日付を書き入れた。「では明日の朝、学院行きの乗合馬車が南市場の停留所を出ます。七時半です。荷物は手荷物として持ち込める範囲で」
「荷物の量は」
「一日で用意できる範囲で」
深奏は立ち上がり、羽織の袖を整えた。「それ以外の必要品は学院側で用意します。詳細は入学後にご確認ください」と言って、奏の返事を待たずに部屋を出ていった。
奏は一人、査問の間に残された。
机の上に許可証が置かれたままだった。
自分の名前がそこに書いてある。自分では書いていない、誰かが書いた自分の名前が。
奏は立ち上がり、許可証を手に取り、折り畳んで上着の内ポケットに入れた。
窓の外の影が、また少し伸びていた。
◆
家に戻ると、父の工房の扉が閉まっていた。
昼間に閉まることは滅多にない。奏は工房の前で一度だけ足を止め、扉の木目を見た。何かを確かめようとして、確かめられる何かがそこにないことを確認して、家の方へ回った。
夕食の時間、父は炒め物を作った。奏の好きな野菜の多いやつ。箸を取りながら、父は「明日は早いな」と言った。
「うん」
「荷物は」
「荷造りする」
「着替えは多めに持っていきなさい」と父は言って、炒め物に箸を入れた。皿に料理を取り分ける手が、動いていた。奏はその手を見た。
(お父さんは大丈夫だから)
大丈夫であることを証明するために、父は夕食を作った。奏の好きなものを。そして今、普通の速度で箸を動かしている。工房の扉が閉まっていたことも、電文が十二文字だったことも、奏は聞かなかった。
「学院の話、何か知ってる?」と代わりに聞いた。
「東棟と西棟がある」と父は言った。「東域の楽器と、西洋の楽器と、両方やれる。お前には向いてると思う」
「血統がないとどうなるんだろう」
父の箸が、一拍だけ止まった。
「どうもなりはしない」と言って、また動いた。「音を出す力があるんだから、それでやっていきなさい」
奏は炒め物を食べた。
味がしっかりしていた。父の料理は、いつもそうだ。
食後、奏は自分の部屋に戻り、荷物をまとめた。着替え、洗面道具、楽譜の束。篠笛ケースを最後に手に取り、鞄の一番上に乗せた。管に残った傷を布で拭く。細くて浅い、靴底の跡。
磨いても消えなかった。
◆
翌朝、南市場の停留所に着くと、すでに馬車は来ていた。
中型の乗合馬車で、御者台には年配の男が座っている。馬車の脇に立っていた若い学院職員が、奏の名前を確認して乗り口を開けた。「特例入学の方ですね。どうぞ」という声が、抑えてあるのか小さかった。
踏み台に足をかけて、中に入った。
車内はすでに何人か乗っていた。制服を着た少女たちが三人、左側の座席に並んでいる。奏より年上に見えた。鞄がいい。靴がいい。髪の結い方が手が込んでいる。奏が入ってきた瞬間、三人の視線が一斉に上がって、一斉に下がった。
奏は右側の窓際の席に座った。
膝の上に鞄を置いた。
視線は感じていた。正面を向いたまま、耳だけが左側の会話を拾っていた。囁くような声で、でも意図して小さくしているのか、わざと届かせているのか、判断がつかない音量だった。
「あら、見て。あの安っぽい楽器ケース」
「革じゃないのね。布製だわ」
「星族番号、持っているのかしら」
奏は膝の上の鞄に視線を落とした。布製の鞄。地元の革職人に作ってもらった篠笛ケース。父が誕生日に、と言って渡してくれたやつ。安くはなかった。でも詠星学院の生徒が持つものとは、種類が違うのかもしれない。
篠笛ケースの革紐を、少しだけ強く握った。
馬車が動き始めた。
窓の外、南市場の石畳が流れていく。屋台の準備をしている人たちの声が、馬蹄の音に混じって聞こえてくる。いつもの朝の市場だった。奏が毎日歩いていた石畳。骨董品の老婆の店先も、昨日は荒れた状態で今朝は片付けられているはずの場所も、馬車の速度で通り過ぎていく。
鞄の中に、昨夜の内に集めた資料が一冊入っていた。
工房の本棚の隅にあった、古い「鳴響大陸教育機関便覧」。詠星学院の項目を開くと、入学資格の欄に一文が添えられていた。
「星族第1号族より第12号族までの血脈を持つ者を優先入学とする。非星族者による特例入学は過去に三名の実績があるが、三名いずれも入学後に不測の事態が生じ、自主退学または勧告退学となっている」
三名、全員。
奏は昨夜、その一文を三回読んだ。便覧は二十年前の版だったので、もしかしたら今は違うかもしれない。でも事実として、特例で入学した者は誰も残れていない。奏が読んだのはそういう記録だった。
馬車が石畳から外れて、街道に入った。揺れが大きくなった。
窓に額を近づけると、外の景色が速くなる。下町の家並みが続いて、それから間隔が広くなって、やがて空が大きく開けた。
父の工房の煙突が、まだ見えた。
馬車の速度が上がっている。少しずつ、少しずつ、遠くなっていく。奏は窓から目を離せなかった。遠ざかる煙突を、視界の端が届く限り追い続けた。今の時間は父はまだ工房を開けていないはずで、煙突から煙は出ていない。ただ空に向かって突き出ている、細い煙突だけが見えた。
三人の囁き声は止まっていた。
いつの間にか車内が静かになっていた。奏の他に乗っている誰かが、ずっと本を読んでいた。右側の少し前の席、奏が乗り込んだ時からずっとそこにいた眼鏡の少女が、分厚い本を膝の上に広げて黙読している。奏が窓に張り付いている間も、囁き声が行き来している間も、視線一つ動かさなかった。
本のタイトルは、背表紙が奏の方に向いていて読めなかった。
眼鏡のレンズが車窓の光を反射して、表情がよく見えない。ただ目が、ページの上を一定の速度で動いている。速い。普通に読んでいる速度より、かなり速い。
その少女が、一度だけ奏を見た。
一秒にも満たない視線だった。奏と目が合い、それから本に戻った。奏が何かを感じ取る間もなく、また黙読に戻っていた。
煙突が見えなくなった。
最後にそこにあったはずの空の一点を、もう少しの間だけ見ていた。それから奏は窓から目を離した。
手を膝に戻す。
「また会いましょう」も「行ってらっしゃい」も、昨夜父は言わなかった。朝に「気をつけて」と言って、それだけだった。電文は十二文字で、夕食は奏の好きなものだった。
篠笛ケースを鞄の上に乗せた。布製のケースの手触りを指先で確かめる。父が選んだ布の、ごわついた感触。
手のひらがまだ、少し熱かった。




