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詠星学院の魔奏歌姫~星脈の秘め事と少女たちの嘘~  作者: 星村 流星
第一部 第1章「星脈の少女たち」
2/12

第1話「下町の篠笛吹きと、禁忌の音」

 「お前の笛が、市場の魔獣を呼んだ」


 徴収官の手が奏の衿をつかんでいた。


 鳴央(めいおう)の下町・南市場。石畳が午後の陽光を蓄えて熱く、膝をついた奏の掌に焼けるような感触が伝わってくる。空気に焦げた匂いが溶けていた。鳴蟲(なりむし)の群れが駆け抜けた後の石畳に、白い光の染みが点々と残っている。奏の足元から徴収官の足元まで、まるで誰かが火を押しつけて離したような痕が続いていた。


 三十分前まで、奏はただ笛を吹いていた。



 南市場の路上演奏はいつも昼を過ぎた頃に始まる。父の工房から楽器ケースを抱えて十五分歩けば、石畳と屋台と呼び込みの声が入り混じる南市場に出る。奏が場所に決めているのは、東棟(とうとう)の時計台が正面に見える石段の二段目。ここなら通りすがりに立ち止まる人が多く、邪魔にもなりにくい。


 篠笛を取り出して、リードを湿らせる。一度だけ音を確かめる。


 音が見えた。


 薄い橙色の光が笛の端から糸のように伸びて、春の午後の空気に溶けていく。奏にはそれが見えた。幼い頃からずっと、音には光があった。高い音は細くて明るく、低い音は太くて奥行きがある。風に乗ると形が変わり、建物の壁に当たると跳ね返ってくる。それが何なのか誰かに説明できたことは一度もなく、説明しようとすると決まって「意味がわからない」という顔をされたので、今は誰にも話さない。


 ただ見えるから、見える。それだけのことだった。


 最初の一節を吹くと、通りの人が二人、足を止めた。立ち止まった人が立ち止まった人を呼ぶのが路上演奏の仕組みで、三節目に入る頃には七、八人の輪ができていることを奏は目の端で確かめた。子供が二人。老人が一人。あとは市場帰りらしき主婦風の人たちが数名。


 吹きながら、輪の外の様子を拾っていた。


 屋台の奥で、声が上がっていた。


 骨董品を並べた老婆の店先に、大柄な男が身を乗り出している。「こんなガラクタ、この値段で売れるかってんだ」という声が市場の喧騒を押しのけて届いてくる。老婆は答えない。ただ背を丸めて、商品の埃を払い続けていた。


 その足元で、小さな子供が泣いていた。


 三歳か四歳か。口を開けたまま声を上げられないでいる。泣き方を知らないのか、泣いても意味がないと学んでしまったのか。奏は目が離せなかった。


 意識するより先に、笛の音が変わっていた。


 曲を変えたわけではない。ただ音の光の色が変わった。橙色から、何か別のものへ。子供の泣き声に寄り添うように、老婆の丸めた背中に向かうように。意図があったわけではなかった。そのとき奏の中にあったものが、篠笛を通して外に出ていっただけだった。


 光の色が、金になった。


 次の瞬間、白銀が混じった。


 見たことのない色だった。自分の音なのに、自分が知らない光だった。金と白銀が螺旋を描きながら混ざり合い、石畳の目に流れ込んでいく。地面の下に何かがあって、その何かが奏の音に応えるように動いている。


 止めようとした。


 でも音は止まらなかった。


 地面が揺れた。揺れたというより、膨らんだ。石畳の継ぎ目が白く光り、割れ目から何かが噴き出してくる。最初の一匹が出てきたとき、奏には一瞬それが何かわからなかった。親指ほどの大きさの、黒くて細長い虫のような何か。


 次の瞬間、五十匹になっていた。


 南市場に悲鳴が上がった。


 鳴蟲(なりむし)。「なりむし」と奏が最後に聞いたのは父から教わった言葉だった。「音のある場所に集まる虫だ」と父は言っていた。「普段は地下に眠っているが、強い音の波に揺り起こされると出てくる。鳴央(めいおう)の地下には古い星脈(せいみゃく)の歪みが眠っていて、そこに共鳴するほどの音があると——」


 父の言葉はそこで途切れた記憶があった。続きは聞かなかった。聞く前に母が呼んで、その話はそのままになった。


 一体一体は小さい。でも五十匹が縦横無尽に石畳を走り回ると、それぞれが高周波の鳴き声を上げ、市場全体が音の膜に包まれたようになった。立ち止まっていた人々が散り散りになっていく。屋台が倒れた。老婆が転んだ。子供が泣き声を上げた——今度はちゃんと、聞こえる泣き声だった。


 奏は立っていた。


 膝が震えていた。でも逃げなかった。逃げようという考えは浮かびはしたが、転んだ老婆に子供が手を伸ばしているのが見えて、足が動かなかった。


 鎮めなければ、と思った。


 論理ではなかった。音を出したのは自分だという事実と、このままではまずいという感覚が、ただ一直線につながっていた。奏は篠笛を唇に当て直した。


 何を吹けばいいかわからなかった。


 それでも吹いた。


 さっきとは違う音を出した。高くもなく低くもない、静かな音。揺れを鎮める音。地面の下の何かに「もう眠ってくれ」と語りかけるような、そういう音。うまく言葉にならないけれど、見えている光の形がそれを言っていた。螺旋が解けて、広がって、石畳の割れ目に吸い込まれていく光が。


 体の中から何かが迸った。


 手のひらが燃えるように熱くなった。


 一秒。


 二秒。


 鳴蟲(なりむし)が止まった。


 五十匹が同時に動きを止めて、石畳の上で静止する。それからゆっくりと、割れ目へ戻り始めた。一匹、また一匹。奏は止めずに吹き続けた。最後の一匹が地面に消えると同時に割れ目が閉じて、南市場に静寂が落ちた。


 篠笛を下ろした。


 手のひらが、まだ熱い。


 石畳に、白い光の焦げ跡が点々と残っている。奏が立っていた場所を中心に、扇形に広がっている。鳴蟲(なりむし)の通った跡ではない。光の通った跡だった。奏の音が地面を伝った跡が、そのまま焼き付いていた。


星族番号(せいぞくばんごう)を見せろ」


 振り返ると、官服の男が立っていた。


 星族(せいぞく)徴収局の紋章が左胸に光っている。奏と同じくらいの身長だが、肩幅が倍はある。顔の造りは整っているのに目が細くて、奏の顔でも手でもなく、石畳の焦げ跡を見てから奏に戻ってくる目の動きが、値踏みする商人のそれに見えた。


「えっと」


 男が奏の衿をつかんだ。


星族番号(せいぞくばんごう)を見せろ」もう一度言った。「無許可の魔奏(まそう)は第七条に抵触する。お前の系譜番号はどこだ」


「持って、ない、です」


「ない?」


星族(せいぞく)判定を受けたことが」


「受けたことがない?」男の目が細くなった。「星族(せいぞく)でもないのに魔奏(まそう)を発動させたのか」


 答えられなかった。


 魔奏(まそう)を発動させたつもりはなかった。ただ笛を吹いた。いつもと同じように。ただ笛を吹いただけだった。でもそれが魔奏(まそう)になっていた、ということの意味が、奏にはまだ整理できていなかった。


 周囲に人が集まってきていた。


 散り散りになっていた市場の人々が、鳴蟲(なりむし)の消えた今、戻ってきていた。


星族(せいぞく)でもないのに」という男の言葉が空気の中に残って、それを拾うように誰かが繰り返した。「星族(せいぞく)でないのに?」「下町の子が魔奏(まそう)を?」「星脈(せいみゃく)もないのに、どうやって」。声が重なって、奏の耳の中で渦を巻く。


 男が奏の衿から手を放した。


 代わりに、足元の篠笛を踏んだ。


 意図があったのかなかったのかはわからなかった。男が一歩動いた先に笛があっただけかもしれない。でも踏まれた笛が石畳に当たって、乾いた音がした。


 奏は思わず膝をついた。


 笛を拾おうとした。男の足がまだそこにあった。退かない。顔を上げると、男は奏を見ていなかった。周囲の野次馬に向かって「解散しろ」と言いながら腕を広げていた。


 奏は男の足の脇から手を伸ばして、篠笛を引き抜いた。


 管の真ん中に、細い傷がついていた。


 爪で引っかいたような浅い線。演奏には支障がない。でも奏の胸の中で何かが縮んだ。父がこの笛を削り出したのは奏が五歳の時だった。篠竹を選ぶところから始めて、一週間かけて形を作り、もう一週間かけて調律を合わせた。完成した日に父は笑って言った。


「この笛の音だけは、お前のものだよ」


 その笛に、今、知らない靴底の跡がついていた。


「いいか、娘」徴収官が奏の正面に戻ってきた。「明日、徴収局に来い。無許可魔奏(まそう)の発動は——」


「奏ちゃん!」


 工房の前の通りで毎日顔を合わせるおばさんの声がした。野次馬の輪から腕を伸ばして叫んでいる。「逃げなさい! 奏ちゃんは悪くない!」泣きそうな声だった。


 男が「邪魔をするな」と言う。


 老婆の声がした。「この娘は鳴蟲(なりむし)を止めてくれた」。老婆が立ち上がって徴収官の後ろに来ていた。「星族(せいぞく)でなかろうが、この娘が止めなかったら市場全体が荒れていた」


「問題なのはそこではない」


「帰りな、お役人」おばさんが続けた。「この娘は何も盗んでいない。誰も傷つけていない」


 男は奏を一度だけ見た。


「明日、来い」と言って、歩き去った。


 野次馬が散り始めた。誰も奏に声をかけなかった。老婆が会釈して、よろよろと自分の店先に戻っていった。おばさんが「大丈夫か?」と言ったので「大丈夫です」と答えた。


 膝が笑っていた。


 石段に腰を下ろして、手のひらを見た。


 まだ少し熱い。熱の源がどこにあるのかもうわからなかった。体の内側のどこかが燃えたような、燻ったような、そういう感覚だけが残っている。傷はない。血も出ていない。でも確かに何かが奏の中で動いて、外に出ていった。


 笛の傷を親指の腹でなぞった。


 細くて浅い線。


 市場を後にして、路地を抜けようとしたとき、奏は立ち止まった。


 振り返る必要はなかった。でも、振り返った。


 路地の端、石造りの建物の壁に寄りかかるようにして、背の高い人物がいた。学院の制服ではない。紺の羽織に、小脇に一冊の帳面。四十歳前後に見えた。男でも女でも見える、線の細い顔立ちをしていた。


 その人は古い帳面に何かを書いていた。


 視線は帳面の上にあった。少なくとも、奏が振り返ったときには。


 奏は「すみません」と言いかけて、止めた。声をかけるべき理由が見当たらなかった。ただそこにいて、ただ帳面に何かを書いていた。


「図書館に帰ろう」


 その人が独り言を言った。


 奏に向けた言葉ではなかった。帳面を閉じながら、ひとりで言った言葉だった。それから角を曲がって、視界から消えた。


 奏は少しの間、その角を見ていた。


 何を待っているのかわからないまま、やがて工房の方へ歩き出した。



 路地を抜けると、父の工房の煙突から白い煙が細く上がっていた。


 今日の午後は木材を削っている、という意味の煙だった。いつもと同じ景色だった。何も変わっていないように見えた。でも奏の手のひらにはまだ熱が残っていて、篠笛には傷があって、徴収局に明日来いという声が耳の中に残っていた。


 工房のドアを開けると、父の背中が見えた。


 作業台に向かって、篠竹を削っている。奏の足音を聞いて振り返り、一瞬だけ手を止めた。


 その手が、わずかに震えていた。


「おかえり」と父は言った。


「ただいま」と奏は答えた。


 篠笛の傷のことも、鳴蟲(なりむし)のことも、徴収官のことも言わなかった。言おうとして、父の顔を見て、言えなかった。何かを言おうとして止めた顔だった。奏が何かを口にする前から、もう、知っている顔をしていた。


「今日はどうだった」と父は聞いた。


「普通だった」と奏は答えた。


 父は少し笑って、また作業台に向かった。篠竹を削る音が再開した。


 奏は自分の部屋に上がって、ケースから篠笛を取り出した。傷を光に当てて確かめる。爪跡のような細い線。


(音は誰のものでもない)


 父がかつて言った言葉が、ふと浮かんだ。


(でも、この笛の音だけは——お前のものだよ)


 奏はその言葉の意味を、まだ知らない。

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