プロローグ
1章完結まで執筆済みです。
天井が、割れていた。
88の星座紋章が刻まれた穹窿の一角、蟹座の石彫が砕け、白い粉塵が礼堂の空気に溶け込みながら漂っている。石の欠片が床に落ちるたびに低い響きが走り、その振動が奏の膝頭から脊骨の上まで伝わってくる。それでも奏は立てなかった。両膝を石畳についたまま、背骨を丸め、ただ落ちてくるものを目で追っていた。
手のひらが熱い。
いや、熱いのは手のひらだけではなかった。全身が音を出していた。骨の奥から、皮膚の内側から、何かが震えながら外に溢れようとしている。それが何なのか、名前を知らなかった。止め方も知らなかった。ただ熱くて、全部が眩しくて、自分の輪郭がどこにあるのか分からなくなっていた。
篠笛は折れていた。
足元に転がった木片を、奏は視線の端で確認した。父が工房の作業台に向かって何日もかけて削り出したあの笛が、今は二つになって、礼堂の床に散らばっている。踏まれた痕があった。白い木の断面に、靴底の土がついていた。誰に踏まれたのか、いつのことかは、もう分からない。
奏は自分の手を見た。
指先から、光が溢れている。
どこから出ているのか分からない。指の関節の間から、手のひらの皮膚の薄い部分から、細い糸のように光が漏れていた。色の名前が分からなかった。金ではなく、白銀でもない。両方に似ていて、どちらとも違った。奏にはその色を呼ぶ言葉がなかった。ただ、見たことがない、とだけ分かった。
「あの子を止めろ」
声が降ってきた。高いところから、複数の方向から、重なり合うようにして。
礼堂の後方段上から、法衣の袖を押さえながら誰かが叫んでいる。その隣でも、別の誰かが叫んでいる。奏には言葉の輪郭だけが届いた。意味は一拍遅れてついてくる。止めろ、封じろ、下がれ。それぞれが違う声で、違う方向から、重なり合いながら礼堂の天井を叩いていた。
視界がぶれていた。
焦点を合わせようとするたびに、蟹座の割れ目から新しい粉塵が落ちてきて、目を細めるしかなくなる。それでも人影は見えた。学院の制服の銀の縁飾りが光に反射している。上級生が数人、礼堂の通路に散らばって奏の方を見ていた。教師らしき大人たちが後方で何かを打ち合わせている。全員の視線が、奏の一点に集まっていた。
礼堂の床に散らばった白い光の破片が、水たまりのように揺れている。
詠星学院が創立されてから二百年余り、礼堂の結界紋がこれほど破損したのは、記録上、初めてのことのはずだった。奏の手から溢れる光が床の古い紋様の溝に流れ込み、紋様の一部が過負荷で焦げているのを、奏はぼんやりと眺めた。焦げた石の匂いがした。魔奏の残滓がまだ空気に溶けていて、鼻の奥がじりじりする。
後方の扉のそばに、一人だけ立っている人影があった。
他の生徒たちとは違う立ち方をしていた。逃げていない。距離を取っているわけでもない。ただそこに立って、奏を見ていた。輪郭の細さと背丈から、同じくらいの年齢の生徒だと奏は判断した。顔は、粉塵と光の干渉でよく見えなかった。目だけが、見えた。
氷みたいな目をした、誰か。
冷たいというより、何も映さない目だった。感情の名前を当てはめようとしても、どれも合わなかった。奏はその目と一瞬だけ視線が合い、また粉塵で視界が遮られた。目を細めて再び見た時には、人影はもうそこにいなかった。扉が、ほんのわずかに揺れていた。
奏はそれを目の端で見た。でも、考える余裕がなかった。
(白音が、笑っていた)
そのことだけが、頭の中にはっきりと残っていた。
さっきまで、笑っていた。いつもの笑顔ではなかった。食堂で見る笑顔でも、演習場で並んで特訓していた時の笑顔でも、寮の廊下で無理矢理起こしにくる時の笑顔でもなかった。形は同じだった。でも中身が、少し違った。
どう違うか、奏にはまだ言葉にできない。
ただ、あの笑顔を見た瞬間に、なにかが引っかかった。小骨が喉に刺さったような、小さくて鋭い感覚。何事もなかったように会話は続いて、奏はそれを飲み込んで、それきり忘れた。今になって、その感覚だけが戻ってくる。
白音の笑顔の、中身が、違った。
それ以上のことは分からなかった。考えようとすると、頭が揺れた。
「封じろ」という声が近くなった。
奏はとっさに立ち上がろうとした。片膝を上げて、靴の裏を石畳に押しつけた。体重を前に移した瞬間、全身の力が抜けた。過負荷を起こした星脈は、奏の命令に従わなかった。また膝が床についた。両手をついて、しばらくの間、うつむいたまま息をした。
床が冷たかった。
手のひらの熱さと、床の冷たさが、混在していた。矛盾した二つの温度が混じり合って、どちらが本物の自分の感覚か分からなくなっていく。光はまだ溢れていた。床の石畳の紋様の溝に光の糸が流れ込み、すでに焦げた部分に重なって、さらに燃えていく。止められなかった。止める方法を知らなかった。
礼堂のどこかで、何かが鳴いていた。
弦楽器が切れる直前のような、高くて細い音だった。魔奏の結界が崩れていく音だと、奏の皮膚はもう知っていた。言葉として知ったのではなく、身体が先に察知した。骨のそばを通り過ぎていく振動の質が、普通の音とは違った。二百年分の蓄積が、一つずつほどけていく音。
奏はその音を聴きながら、父のことを考えた。
(お父さんが作った笛が、折れた)
感情がどこにあるのか分からなかった。ただ、事実だけがあった。父が工房の明かりの下で黙々と削り出したあの篠笛が、今奏の足元で木片になっている。父の指の跡が残っていたあの笛が、もう吹けない。
でも白音が、笑っていた。
その事実もあった。
さっきまで、あの笑顔があった。形は笑顔だった。どんなに違和感があっても、あれは笑顔だった。奏は今もその笑顔の記憶だけをくっきりと保持していて、他のことが全部輪郭を失っていくなかで、あの笑顔だけが消えなかった。
なぜそれが最後に残るのか、奏には分からなかった。
「逃げるな」という声が来た。
違う、と思った。逃げようとしているのではない。ただ、立てない。それだけだ。でも声に向かってそれを説明できるだけの力が奏にはなかった。ただうつむいたまま、指先から流れる光を眺めていた。
また欠片が落ちた。
礼堂の中心から少し離れた場所に落ちて、白い粉塵の柱を作った。奏の額の近くに一欠片が跳ねてきて、頬をかすった。血は出なかった。痛みも、なかった。怖かった。それが、怖かった。
全身に残っているのは熱だけだった。
骨の奥から絶えず滲み出てくる、この熱だけが。
奏はゆっくりと顔を上げた。
最後の力で、天井を見た。
蟹座の石彫が砕けた場所から、夜空が見えた。鳴央の春の深夜の空気が、礼堂の内側に流れ込んでいる。粉塵が白く舞い上がり、その向こうに、星があった。
一つだけ、異様に明るく輝いている。
他の星と違った。同じように夜空にあって、同じように光っているのに、その一つだけは種類が違った。まばたきもしない。揺れもしない。礼堂が燃えても、奏が倒れても、誰かが叫んでいても、ただそこにあった。何の系譜にも属さないように、何の名前にも縛られないように、一点だけで燃え続けていた。
奏はその光を見たまま、意識を手放した。
床が冷たかった。
石畳の感触が頬に触れた瞬間、それが最後に奏の身体に残った感覚になった。光は溢れたまま、声は聞こえたまま、礼堂の音はまだ鳴っていた。でも全部が遠くなっていく。すべての音が一つの波になって、奏という一つの意識の縁を揺らし、そして超えていった。
割れた天井の向こうに、星があった。
一つだけ。消えなかった。
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物語は、すべてが始まったあの春の日に遡る。
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