第8話「壊された楽譜と試演前夜」
楽譜立ての上が、空だった。
奏は扉の前に戻り、金属のプレートを親指の腹で確かめた。「7」と刻んである。番号は合っている。昨日の夕方、この部屋の使用記録に名前を書いたのは自分で、鍵を返却ボックスに入れたのは夕刻を過ぎた頃だった。その後は練習室棟に戻っていない。
三週間分が消えていた。
楽譜だけではなかった。窓台の下に積み上げていた理論書の束から、上の三冊がなくなっていた。書き込みだらけのやつだ。毎晩の自主練習のたびに書き足していったメモが詰まった、あの三冊。残っているのは机の端に置き忘れた消しゴムと、椅子が三脚と、空の楽譜立てだけだった。
奏は部屋を一周した。
棚の下。椅子の下。扉の内側の隙間。どこにもない。誰かが持っていった。それ以外に説明がつかなかった。
篠笛ケースを開けた。
笛は中にあった。ただ、管の真ん中あたりに細い傷が入っていた。爪で引いたような浅い線が一本。昨日まではなかった位置に走っている。演奏には問題のない深さだが、奏の指先はそこから離れなかった。
父が削り出した竹に、知らない誰かが触れていた。
◆
図書館の読書室に芽吹はいた。
分厚い本を二冊並べて、その間に帳面を開いていた。奏が入っていくと、本から顔を上げた。
「楽譜が消えた」
奏は言った。事情を話す前に、まずそれだけ言った。
芽吹は帳面を半分閉じた。「座ってください」と椅子を指した。奏が座ると、帳面を開き直した。ペンを持って待っている。感情の順序が逆だった。芽吹は初手から帳面を開いた。
「いつ気づきましたか」
「今しがた。練習室に入ったら」
「最後に楽譜を確認したのは」
「昨日の夕方。出るときに楽譜立てにあった」
「他に持ち出されたものは」
「書き込み入りの理論書が三冊」奏は少し止まった。「それから、篠笛に傷が入っていた。新しい傷が」
芽吹のペンが帳面の上を走り始めた。「楽譜だけでなく、ケースにも手が触れた、ということですね」
「うん」
「明日は試演会ですね」
「うん」
芽吹はペンを持ったまま少し考えた。考えているのか計算しているのか、外から見ても区別がつかない顔をする人だと奏はこの一ヶ月半で学んでいた。
「練習室の使用記録を確認できますか」と芽吹は言った。
◆
練習室棟の管理室は廊下の突き当たりにある。
昼間は事務員が常駐しているが、この時間は当番の生徒が一人いるだけだった。帳面を見せてもらった。7番の室の使用記録には、奏の名前が昨日の夕刻に入っていた。その次の行に時刻だけが書いてある。「21:10」と。名前の欄は空白だった。
「無断使用です」と芽吹は当番の生徒に言った。
「そうなりますね。ただ夜の管理は引き継ぎで、鍵のボックスは……」
「施錠されていませんか」
当番の生徒が少し困った顔をした。「されていないんです、あのボックスは」
芽吹は礼を言って帳面に書いた。管理室を出た。奏もついた。
廊下を並んで歩きながら、芽吹が言った。「夜の九時十分に、この練習室を無断で使った人物がいます。名前は記録されていない」
「楽譜を持っていったのはその人だと思う」
「ほぼ確実です」と芽吹は言った。「問題は、なぜ今、この時期に」
奏は石畳を踏みながら歩いた。芽吹の言葉の続きを待ったが、続きが来なかった。芽吹は奏に問いかけていた。
「試演会が明日だから」と奏は言った。
「そうです。明日だから今夜でなければならなかった。あなたが試演会に出た時に何かが起きるように望んでいる誰かがいる、ということです」
廊下の突き当たりで奏は足を止めた。
芽吹も止まった。奏の顔を見た。
「聞いてほしいことがある」と奏は言った。「ずっと言えなくて、どう言えばいいか分からなかった」
「どうぞ」
奏は一度だけ深く息を吸った。
◆
以前の夜のことを順番に話した。
眠れなくて図書館に来たこと。禁書庫に接した小部屋の扉の隙間から声が聞こえたこと、二人いたこと。
「一方の声が言っていた。試演会での混乱を利用する、と」
「結界の第三節点が弱い、そこに仕掛けろ、と」
「あの判定不能の新入生も計算に入れろ、と。最後にそう言っていた」
話す間、芽吹は一度も口を挟まなかった。帳面も開かなかった。ただ立って奏の言葉を受け取っていた。
話し終えると、廊下に沈黙があった。どこかの窓から春の風が入ってくる音だけがした。
「なぜ今まで言いませんでしたか」
芽吹の声は静かだった。責めていない。ただ聞いていた。それが余計に奏には効いた。
「……誰に言えばいいか、分からなかった」
「私に言えませんでしたか」
「芽吹さんはいつも正確で、怒るかと思って」
「怒りません」と芽吹は即座に言った。「情報が揃っていない状態では正確な判断ができません。あなたが一人で持っていた分だけ、私の分析が遅れた。それは損失です」
感情の話ではなかった。でも奏には、それで十分だった。
「声の特徴を覚えていますか」と芽吹が帳面を開きながら言った。「二人のうち、どちらかでも」
奏は記憶を手探りした。暗い廊下、扉の隙間からの光、二種類の声。一方の声には、耳に残る質があった。
「東域なまりがあった。語尾の引き方が」
芽吹のペンが、一瞬だけ止まった。
「東域なまり」と繰り返した。帳面に書きつけた。「もう一人は」
「声が低くて、平坦な話し方だった。年齢は分からない」
「二人ともはっきり二人分の声でしたか」
「そう思う」
芽吹は書き続けた。小さな字が紙を埋めていく。奏には内容が読めなかった。
◆
図書館の小部屋に戻って、芽吹は資料の申請書類に名前を書き始めた。
一般の生徒が閲覧できる性質の書類ではないが、図書委員の立場から申請できる範囲に含まれる可能性があると言った。芽吹が「可能性がある」と言う時は確度が高い、と奏はこの二ヶ月で知っていた。
「東域出身で、かつ学院の職員または関係者。練習室棟への動線がある人間を絞ります」
「今夜中に分かる」
「分かるかどうかは申請が通るかによります。ただ照合できる範囲から始めます」
奏は机の端に肘をついた。燭台の炎が揺れた。窓の外は暗く、練習室棟の影が中庭に伸びている。
楽譜のことを、考えた。
三週間分のメモと試案が全部入っていた。毎晩の試行錯誤のこと、芽吹に指摘されて出力を調整した夜のこと。全部が余白に書き込まれていた。型のない演奏のための、奏なりの記録が。
型がないというのは、ゼロから組み上げるということだ。
明日、舞台に立つとして、手なしでやれるか。やれないとは思わなかった。でも手があった方がいい。
奏は真っ白な帳面を机から引いた。
「白音を呼んでいいですか」
芽吹が顔を上げた。「なぜですか」
「楽譜を書き直したい。一人より速い」
芽吹は少し間を置いてから「構いません」と言った。
◆
白音が小部屋に来たのは、それから二十分後だった。
扉を開けて中を見た。奏と芽吹を交互に見た。燭台の光が二つ。机の上の帳面と書類の束。春の夜の冷気を廊下から連れてきた白音は、コートの前を開けたまま室内に入ってきた。
「ふたりで何してるの、こんな時間に」
「楽譜が消えた」と奏は言った。
白音の目が丸くなった。「消えた?」
「練習室から。試演会の前日に」
白音は扉を閉めて椅子を引いた。机の上を確かめた。真っ白なページ、奏の手の中のペン。
「書き直すということ?」
「できれば今夜中に」
白音は少しだけ黙った。一秒か二秒だった。
それからコートの袖をまくって、「ペン貸して」と芽吹の帳面の脇から一本借りた。
「どこから書けばいい」
奏は「最初から」と言おうとして、止まった。最初というのが曖昧だった。型のない演奏の楽譜は既存の形式では書けない部分があって、奏なりの記号で補っていた箇所もある。それを白音に説明できるか。
「説明しながら書く。分からないところは聞いて」
「分かった」と白音は言った。細かいことは聞かなかった。
三人で机を囲んだ。
◆
芽吹は申請書類を仕上げた後、公開されている職員録の情報と自分の帳面の記録を照合し始めた。奏が横から覗くと、人名の断片が紙の上に並んでいた。奏は見ないことにした。
白音は楽譜を書いた。奏の説明を聞きながら、丸い文字で記号を埋めていく。「ここはこういうこと?」と確かめて、奏が「そう」と言うと先を埋めた。感情の揺れが少ない。集中している顔をする白音を、奏はあまり多くは見たことがなかった。
奏は自分の文字を書き続けた。白音が読めるように、ふだんより少し大きく。芽吹も時折覗き込んで「この記号の意味は」と確かめた。奏が説明すると「なるほど」と言って自分の帳面に書き留めた。
燭台の炎が揺れた。
春の夜が廊下を通り抜けていく。窓ガラスの向こうに月が低くある。時間が経っているのが月の位置で分かった。でも誰も眠ろうとしなかった。
(楽譜を壊した誰かは)
奏は書きながら、頭の片隅で考えていた。
(明日の試演会で、何をするつもりなのか)
第五話の夜の声が、また戻ってくる。「あの判定不能の新入生も計算に入れろ」という言葉。奏を利用したい誰かがいる。でも目的はまだ見えない。結界を壊したい。混乱を起こしたい。その混乱の中で、何かをしたい。その何かが。
「奏」
白音の声がした。ペンが止まっていたらしい。
「次のページ、続けていい?」
「うん」と奏は答えて、また書き始めた。
今夜、答えを出せるわけではない。出せなくても、楽譜だけは完成させる。それが今夜できることだった。
◆
夜が明ける少し前に、楽譜が完成した。
「できた!」
白音が立ち上がった拍子に椅子の脚が石畳を引っかいた。派手な音がして、白音はびっくりして後ろを見てから、奏と芽吹を見た。
奏が笑った。芽吹も、少しだけ笑った。
三人でしばらく笑ってから、静かになった。
奏は机の上の楽譜を手に取った。枚数はさほど多くないのに、重みがあった。三週間分の元の楽譜より重く感じた。
自分の文字が入っていた。記号の部分も、走り書きの部分も。白音の丸い文字が横に続いていた。「ここ」と書いた矢印が小さく愛らしい。芽吹の几帳面な字が、記号の説明箇所にあった。三人が書いた箇所の区別はすぐにつく。でも全部が同じ紙の上にある。
奏のものだったが、一人のものではなくなっていた。
片付けながら、芽吹が「照合の結果は後日」と言った。「今日は試演会があります。それが先です」
「うん」
「楽譜はどこに保管しますか」
奏は少し考えて「持って寝る」と言った。
「え」と白音が言った。
「ずっと持っていれば無くならない」
白音が笑った。芽吹は「合理的です」と言った。
部屋を出ると、廊下の窓から夜明け前の空が見えた。まだ暗い。でも暗さの質が変わっていた。夜の真ん中の暗さではなく、朝を待っている暗さになっていた。
奏は楽譜を胸に抱えたまま歩いた。
試演会が終わるまで、これを守ろう。
ただそれだけを考えながら、廊下の石畳を踏んでいった。




