第20話「学院の夜と、確かな場所」
騒がしすぎる」と言いながら蒼羅が共奏棟の扉を開けた時、部屋の中には九人がいた。
一部は招待されていなかった。
白音が部屋を確保したのは昼の休憩時間の終わりだった。理由は特になかった。「みんなで一回集まろうよ」という言葉だけで人が動いた。白音が廊下で奏に言い、芽吹に言い、碧の実験室の扉をノックして言い、食堂で遥を捕まえて言った。炎華には「なんで私を誘うの」と言われた。雫には池の傍で声をかけた。和音は「来てもいいですか」と確認してから頷いた。波音は詩の束を抱えてすでに廊下に立っていた。
「招待してましたっけ」と芽吹が後で奏に小声で言った。
「白音さんが招待していなかったかもしれません」と奏は答えた。
「それが白音さんということですね」
「そういうことだと思います」
共奏棟の一番奥の小部屋だった。合奏の練習に使う部屋で、中央に長机が一つ、壁際に楽器の保管棚と譜面台が並んでいる。楽器が出た後は机だけが残って、人が七、八人は集まれる広さになった。白音が机の上に何かを並べ始めた。遥が持ってきた焼き菓子と、碧が実験の途中で持ってきたと言った茶葉と、波音が詩の紙束と一緒に手提げに入れてきた干し果物が並んだ。
碧は「実験データも持ってきた」と言って袋から帳面を取り出した。遥が碧の隣から手を伸ばして、帳面を静かに袋に戻す。碧が「なんで」と言った。「今日は実験なしの日だよ」と遥が言った。「誰が決めたんですか」「白音さんが」「白音さんは私に何も言いませんでしたが」「言う前にあなたを連れてきたんだと思います」
碧は少しだけ考えた後、帳面を袋に入れたままにした。
全員が揃うまで、少し時間がかかった。
雫が最後に来た。池のそばから歩いてくる時間がかかったと言った。部屋に入ってきた雫を、白音が「雫ちゃん来てくれた」と呼んだ。「声をかけていただいたので」と雫は静かに答えて、当然のような顔で机の端に座る。
奏は机の角に座っていた。部屋の中を見回した。
白音が机の中央にいた。碧が端に座って、帳面を袋に入れたまま持っていた。遥が碧の隣にいた。芽吹は机の少し外に椅子を引いている。和音が炎華の隣に座っていて、炎華は「なんで和音が隣なんだ」と言っていた。波音は窓際の席に落ち着いていた。雫が今来た席に座った。
全部で九人だった。
「今日は勉強なし!」と白音が宣言した。誰も反論しない。「それはどのような定義の勉強ですか」と芽吹が問いかけた。「全部の勉強です」と白音は言った。「詠唱符の理論もですか」「そうです」「星脈学概論もですか」「そうです」「調べ物は」「調べ物もです」芽吹は少しの間黙った後、「分かりました」と言った。
波音が茶を入れた。
急須がなかったので、備品の棚にあった金属の器を使った。お湯は廊下の給湯器から。碧の茶葉を使ったので、できあがった茶は予想より濃い色をしていた。飲んでみた遥が「これは個性的ですね」と言った。碧が「茶葉の品質は問題ないはずです」と言った。「量の問題だと思います」と和音が言った。「あの、もう少し薄くても」「茶葉の特性として濃度が高い方が」「碧さん今日は勉強なしだよ」と白音が言った。
炎華がぐいと飲んだ。「うまい」と言った。「そうですか」と碧は言う。少し嬉しそうだった。
奏も飲んだ。確かに濃い。でも体が温まった。
部屋に話し声が続いた。遥が旅の話をした。砂漠の近くで聴いた弦楽器の話で、弦が三本しかない楽器だったが音域が六本のものより広かったという内容だった。碧が「構造上あり得るんですか」と言った。「あり得ないんですが、実際に鳴っていたので」と遥は答えた。「計測したかった」と碧は言った。「計測器を持っていませんでした」「次は持っていってください」「次に行く機会があれば考えます」
炎華が箸で机を叩いて「そういや昨日の演奏会の後、うちの先輩が奏のことを話していた」と言った。「何と言っていましたか」と芽吹が聞いた。「あの篠笛、星原流じゃないかって」炎華は続ける。「どこ情報なのかは知らん。でも皆がそういうことを言い始めている」
奏は手元の茶を見た。
「……そうですか」
「そうなん?」炎華が奏の顔を見た。「本当に星原流なの」
「よく分かっていません」と奏は言った。「でも、そうかもしれないです」
「ふーん」炎華は机を指でとんと叩く。「じゃあ希少じゃん」
「希少かどうかも分かっていません」
「でも蒼羅先輩が認めたくて認めたってことは」炎華は続けた。「相当なんじゃないの」
奏は答えなかった。
窓の外に夕方の光が残っていた。石畳に橙が落ちていた。少しずつ薄くなっていく時間だった。
波音が詩を読んだのは、茶が二回目になった頃だった。
「読んでいいですか」と波音は言った。誰もがいいよ、という顔をした。炎華だけが「ポエムが出るのか」と言ったが止めなかった。
波音は紙を一枚取り出した。
「星が嘆いている夜があります。でも夜明けはその嘆きから始まっている」
それだけ読んだ。
しばらく部屋が静かだった。遥が「詩人みたい」と言った。「詩人です」と芽吹が言った。また笑い声が来た。波音は少し恥ずかしそうに紙を伏せる。
奏はその笑い声を聞いていた。
一つずつが違う色をしていた。白音の笑い声は金色に近かった。炎華のは橙がかった赤で、少し大きかった。遥のは草木の緑に似た色で、落ち着いた広がり方をした。芽吹のは短かったが質が高い。澄んだ銀色で来て、すぐ消えた。碧のは笑い声と言えるかどうか曖昧な音だったが光粒は出ていた。和音は声が小さかったが、光粒が細かくて多かった。雫は笑わなかったが、視線の角度が少しだけ変わっていた。波音は自分で笑い声を出してから詩に戻った。
全部が混ざって、部屋に満ちている。
(ここが、私の場所だ)
そう思った瞬間、奏は誰にも言わなかった。ただ笑った。理由もなく、ただ。
「奏、何か面白いこと考えてた?」と白音が聞いた。
「別に」と答えた。蒼羅みたいな答え方になった。
部屋の外から人の気配がした。足音が廊下を来て、扉の前で止まった。
白音が「はーい」と言った。
扉が開いた。
「騒がしすぎる」と言いながら蒼羅が立っていた。
正装ではなく学院の通常の制服で、右手に薄い書類の束を持っていた。部屋の中を見渡した。九人の顔を一人ずつ確認するような目の動き方をした。
白音が「蒼羅会長!」と声を上げた。弾んでいた。「来ますか」と奏が聞いた。先日の廊下と同じ問いかけだった。蒼羅は少しだけ奏を見た。
「別に」と言った。
部屋の中に入ってきた。
奏は少し笑った。口に出さなかった。でも蒼羅が来た。廊下の前を通り過ぎれたはずの人が、来た。
蒼羅は机の端から少し離れた場所に椅子を置いた。壁際だった。全員が見渡せる位置だった。書類を膝の上に置く。それで部屋の中を一度だけ見て、視線を落とした。
白音が「蒼羅会長、何か飲みますか」と立ち上がった。
「飲んでいます」と蒼羅は言った。持っていなかった。
「そうじゃなくて!」
炎華が「飲んでないじゃないですか」と言った。「碧のやつ、まずいけどあったまりますよ」
「なんでまずいんですか」と碧が言った。「品質は」
「量の問題です」と和音が言った。また笑い声が来た。
蒼羅は笑わなかった。
壁際で椅子に背筋を伸ばして、書類を膝の上に置いて、笑い声が部屋に満ちる中にいた。視線は机の上のどこかを向いていた。奏は蒼羅を見ていた。
蒼羅の口元が、わずかに動いた。
動いたか動かなかったか、判断のつかない動き方だった。でも奏には見えた。笑い声が炎華から出てきた瞬間に、蒼羅の口の端が一瞬だけ上がって、また元に戻った。
それだけだった。奏を除いて、誰も蒼羅の方を見ていなかった。
波音がもう一杯茶を注いだ。
蒼羅の分も器に入れて、持っていこうとした。蒼羅が「結構です」と言う前に、波音が器を蒼羅の前に置いた。
「飲まなくても、温かいものが傍にあるといいと思うので」と波音は言った。
蒼羅は波音を見た。波音はもう机の方に戻っていた。蒼羅は器を見た。湯気が細く立っていた。一拍の後、手を伸ばして器を持った。
奏は見ていたが、見ていなかったふりをした。
「そういえば」と遥が言った。「遠い地方では演奏会の後にこういう集まりをする習慣があるそうですよ。音を出した後に、音を出した人たちが同じ場所で飲み食いする」
「それは普通では」と芽吹が言った。
「習慣として定着しているということです。儀礼的な意味合いもあるらしくて、音を共に出した者同士は同じ何かを分かち合ったという確認の行為だと」
「それは研究したいですね」と碧が言った。「出力パターンの相互影響として」
「今日は勉強なしです」と白音が言った。「碧さん」
「これは研究ではなくて習慣の話です」
「聞こえません」
炎華が机を叩いて笑った。
雫が花を取り出したのは、話し声が一瞬静まった間だった。
手提げから一輪取り出した。白い花だった。学院の池の傍の草むらに咲いていた、丈の低い花だった。
「持ってきました」と雫は言った。
「きれい」と波音が言った。「何という花ですか」
「名前は知りません」と雫は答えた。「池の傍にいつもいる花で、今朝咲いていたので」
白音が「じゃあ机の真ん中に置こう」と言って花を受け取った。持っていた干し果物の皿を端に寄せて、机の中央に花を置いた。
小さな花が机の中央にある。
その光景を奏は見た。焼き菓子と干し果物と茶の器と詩の紙束と、机の中央に一輪の白い花。九人と、少し離れた壁際に一人。部屋の窓から夜の色が入り始めていた。石畳の橙が消えて、星が出る前の青みがかった暗さが外にあった。
音の光が見えていた。
話し声の光が、全部違う色で部屋の中を漂っていた。遥の声の光は落ち着いた緑で、炎華の声は橙に近い赤だった。碧の声は光粒が四角形に近い形をしていた。波音の声は光粒が多くて、部屋の空気に混ざるのが早かった。雫の声は量が少なかったが一粒が重かった。白音の声は金色で、勢いがあった。
蒼羅の声は今夜は出ていなかった。
でも奏は知っていた。蒼羅の声の光は白銀だった。声楽の出力の時だけでなく、普通に話す時も白銀の光が出る。蒼羅が「騒がしすぎる」と言った瞬間に出た白銀の一粒が、奏の視野の端にまだあった。溶けきれずに漂っていた。
(蒼羅さんの光が、ここにある)
そう思った。声を出さなかった理由は分からなかった。ただそのまま、持っておきたかった。
夜が少し深くなった頃から、一人ずつ部屋を出ていった。
碧が「実験の続きがある」と言って立った。「今日は実験なしだったのでは」と白音が言った。「日付が変わったら翌日です」と碧は言った。「変わってないですよ」「変わる前に準備が必要です」碧は帳面を抱えて出ていく。遥が「お疲れ様でした」と送り出した。
和音が次に立った。「今日は呼んでいただいてよかったです」と言って、静かに出ていった。炎華が「和音まで帰るのか」と言った。「炎華さんも帰りましょう」と和音が扉の前で言った。「俺はまだいる」「消灯に間に合わなくなりますよ」「間に合う」「では一緒に帰りましょう」「なんで」。二人の声が廊下に出てから小さくなって、遠ざかった。
波音が詩の紙をまとめた。一枚ずつ端を揃えていた。「今日の話を詩に書きます」と言った。「どんな詩になりますか」と奏が聞いた。「まだ分かりません。書いてみないと」と波音は答えた。扉の前で奏の方を向いた。
「奏さんの音が」と波音は言った。「今夜は穏やかに聞こえていました。先週より、ずっと」
奏は少し驚いた。今夜は笛を吹いていない。話しただけだった。
「話し声にも音が出ているので」と波音は言って、出ていった。廊下に出てから、部屋の方を一度だけ振り返った。白音が机の片づけをしていた。振り返ったことに気づいた者は、部屋の中にいなかった。
遥が最後の一個になっていた焼き菓子を「もらってもいいですか」と聞いて、受け取って出ていった。「また来ます」と扉のところで言った。誰に向けた言葉か分からなかったが、部屋の全員に届いた。
雫が立った。花を取り上げようとして、白音が「置いていってください」と言った。雫は机の上に花を戻す。「おやすみなさい」と言って出ていった。
芽吹が帳面を抱えて立った。「呼んでいただいてありがとうございました」と白音に言った。それから奏を見た。「おやすみなさい」と言った。出ていく直前、扉を手で押さえながら奏の方をもう一度見た。何かを言おうとして、止めた。唇が一度だけ動いた。それから「また明日」と言って出ていった。
白音が机を片づけ始めた。
残っていたのは奏と白音と蒼羅の三人だった。
白音が器を重ねた。菓子の皿を端に寄せた。詩の紙の束が誰かの分が残っていたので紙の下に押し込んだ。机の中央の花だけが、まだそのままあった。
「蒼羅会長、何か飲みますか」と白音がまた聞いた。
「さっきも聞きました」と蒼羅は言った。
「さっきは断られたので改めて聞きました」
蒼羅は少しの間白音を見た。「では、いただきます」と言った。
白音が嬉しそうに器を手に取る。碧の茶葉が少し残っていた。全部入れてお湯を注いだ。
奏は机の花を見ていた。
夜の光の中で、白い花が白かった。白音が蒼羅の前に器を置いた。それから自分の席に戻ろうとした。戻りかけた白音の背中を奏は見た。
背筋が、一瞬だけ伸びた。
いつもより少し、真っすぐになった。前傾みの消えた立ち方がほんの一秒だけ来て、また戻った。白音がこちらを向いた時には、いつもの笑顔だった。
奏は笑顔を見た。
白音の笑顔だった。今夜ここにいた白音の笑顔で、さっき花を「置いていってください」と言った時の声と同じ色の光だった。
「残ってる?」と白音は奏に言った。
「残ります」と奏は言った。
白音は「じゃあ後で戻る、鍵を返しに行ってくる」と言って部屋を出ていった。
部屋に奏と蒼羅だけが残った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
蒼羅は器を持っていた。湯気が少し薄くなっていた。書類は膝の上にあった。窓の外が完全に夜になっていた。石畳が星の光を受けて白く光っていた。遠い棟から誰かの楽器の音が来た。弦楽器だった。距離があったので音の光は届かなかったが、音は来た。
「帰らないんですか」と奏は聞いた。
蒼羅は窓の外を一度見た。書類を見た。それから奏を見た。
「……帰ります」
蒼羅は立ち上がった。書類を手に取った。椅子を元の場所に戻した。机の花を一瞬だけ見た。見ただけで何も言わなかった。
扉を開けた。廊下の光が入ってきた。
蒼羅は廊下の方を向いた。靴音が一歩、廊下に出た。
止まった。
蒼羅が奏を振り返った。
「今年は、あなたが来た」
奏は動かなかった。
蒼羅の顔を見た。夜の廊下の光の中に、蒼羅の横顔があった。感情の色がなかった。声に起伏がなかった。いつも通りの蒼羅の声だった。でもその言葉が来た。
「はい」と奏は言った。
「……来年も、いなさい」
それだけ言って、出ていった。扉が閉まった。靴音が廊下を遠ざかっていく。一歩が正確だった。今日の蒼羅の足音は、普段の速さよりほんの少し、遅かった。
音が消えた。
奏は机の花を見た。
白音が机の中央に置いていった白い花が、一人になった部屋の中にあった。
(来年も、いなさい)
その言葉が、聞いた後もしばらくそこにあった。空気の中に残っていた。光粒の形では見えなかった。声が来たわけでもなかった。ただ残っていた。
来年も。
入学してから今日まで、奏は何度か「ここに来るべきではなかったかもしれない」と思った。判定不能と言われた日も。詠唱符を三個砕いた日も。楽譜が消えた夜も。音の光が見えなくなった夜も。そのたびに逃げようとして、逃げなかった。逃げなかったのは選択とも言えないくらいの細い理由だったが、今日もここにいる。
蒼羅が、来年も、と言った。
来年もここにいることが、この人には当たり前のことではなかったのかもしれない。だから言った。だから一拍の後に言った。
奏は手のひらを見た。傷跡のある指先が、夜の光の中で静かにそこにあった。
扉が開いた。
白音が戻ってきた。「鍵返してきた」と言って部屋に入ってきた。花を見た。「蒼羅会長、帰った?」と聞いた。
「帰りました」
「何か言ってた?」
奏は少しだけ考えた。「来年もいなさい、と言っていました」
白音が「え」と言った。「それって蒼羅会長にしては」
「はい」
「すごくない?」
「はい」
白音がにっと笑った。「来年も一緒にいようね」と白音は言った。蒼羅の言い方とは全然違う言い方だった。でも届いた場所は同じ気がした。
「はい」と奏は言った。
白音が花を一輪持ち上げた。「これ持って帰ってもいい? 部屋に飾る」
「雫さんの花ですが」
「雫ちゃんは置いていってって言ってた」
「では」と奏は言った。
白音は花を手に持って扉を開けた。先に廊下に出て待った。奏は机の上を確認した。波音が置いていった詩の紙の一枚が残っていた。
「星が嘆いている夜があります」という書き出しで始まる紙を、奏は折って上着の内ポケットに入れた。
部屋の明かりを消した。廊下に出た。
白音が花を持って待っていた。二人で寮の方へ歩き始めた。廊下に夜の光が続いていた。石畳の上に月が出ていた。白音の手の中の白い花が、月の光を受けて白かった。
遠くの棟から弦楽器の音がまだ続いていた。
奏には音の光が見えた。夜の空気を通って来る光粒は、昼より細くて、色が澄んでいた。




