エピローグ「扉の向こうの、もう一つの影」
理事長室に明かりがついていた。
◆
深夜の学院に残る灯りは少ない。消灯後の廊下は月の光だけが石畳に落ち、夜番の教師が一人、決まった経路を歩く足音だけが続く。
東棟の端、最上階の角部屋だけが違った。窓から細く光が漏れていた。
天奏理星は机の前に座っていた。
書類は脇に積んである。大演奏会の事後処理は昨日で終わった。黒羽鐐治の逃走に関する報告書、結界修復の費用試算、臨時査問委員会の議事録。全部に署名して、全部を脇に置いた。
今夜の机の上には何もなかった。
一枚の写真だけがあった。
額縁に入れていない。裏向きにもしていない。ただ机の上に置いてある。昼間は引き出しの中だった。夜になると出す。
そういう習慣が、いつからあったか自分でも覚えていない。
写真の中の女性は笑っていた。
若い顔だった。理星が今の年齢になる前に撮ったものだった。笑い方が少し不器用で、目が笑うより先に口が動いていた。
その隣に立っているのが理星自身だった。若かった。今とは違う目をしていた。
奏に似ていた。いや、正確には逆だった。奏があの人に似ているのだった。目の形と、耳の位置と、音楽を聴いている時に少し前傾みになる姿勢と。
理星は写真を見ていた。
廊下に足音が来た。一歩の間隔が正確だった。扉の前で止まった。
「入りなさい」と理星は言った。
扉が開いた。
◆
蒼天が立っていた。
司書室の外でこうして会うのは珍しいことではなかった。この二人にとっては。
廊下と部屋の境目に立ったまま、蒼天は理星の机の上を一度だけ見た。写真を確認した。何も言わなかった。
「黒羽は逃げました」と蒼天が言った。
「分かっています」
「捜索令状を出すには、証拠が状況証拠に止まります。穂音さんの帳面は押収されていた。現時点では難しい」
「分かっています」
蒼天は扉から中に入った。椅子には座らなかった。窓の方を一度見て、また理星を見た。
「冥響団の動きが本格化しつつあります」
「黒羽は末端です。組織の本体は別にある」
「はい」
「それも分かっています」
理星は机の写真から視線を上げた。蒼天と目が合った。互いに感情の色がない顔だった。長くそうしてきた二人の顔だった。
「あの子は」と理星は言った。「自分が何者か、まだ知りません」
「知っています」と蒼天は言った。「私が言っていないので」
「知らなくていい」
「今は、ということですか」
「今は」
蒼天は少しの間、部屋の中を見た。積み上がった書類を見た。窓の外の夜を見た。また理星を見た。
「何年待つつもりですか」
「あの子が準備できるまで」
「準備というのは」
「自分の足で辿り着くということです」と理星は言った。「私に教えてもらったのでは意味がない。あなたもそう判断したから、この一年、言わなかった」
蒼天は答えなかった。
否定もしなかった。
「先週の演奏会で」と蒼天が言った。「あの子は、また光を出しました。色の数が試演会より増えていた」
「見ていましたか」
「見ていました」
蒼天はわずかに声の調子を変えた。変えた、というよりは、変わった。
「あなたは」
「いませんでした」と理星は言った。「書類の中にいました」
部屋に沈黙が落ちた。
遠くで風が木を揺らす音がした。葉が擦れて、消えた。
蒼天が部屋を出ようとした。扉に手をかけた。
「蒼天」
足が止まった。
「あなたは」と理星は言った。「今も、彼女と同じ目をしています」
蒼天は扉を持ったまま、振り返らなかった。
「そうですか」と言った。
「彼女も、待つことを選んだ。何年も、誰にも言わずに」
「はい」
「あなたは彼女の選択が正しかったと思いますか」
しばらく間があった。廊下の石畳に月が落ちている。それ以外は静かだった。
「正しかった、ということにしています」と蒼天は言った。「でなければ、私がここにいる意味がなくなります」
扉が開いた。廊下に靴音が出て、静かに遠ざかっていった。
◆
理星は一人になった。
机の上の写真を見た。笑い方が不器用な女性と、若い頃の自分。
引き出しを開けた。
一枚の文書が入っていた。厚手の紙に書式が古い。「星脈改竄申請書」という標題が上部にあった。申請者の欄と対象者の欄に、それぞれ名前が入っていた。
理星の指が、対象者の欄の文字の上をゆっくり動いた。
墨の色が少し薄くなっていた。何度も触れた指の痕が残っていた。文字そのものは読めた。
「星宮 奏」と書いてあった。
理星は文書を引き出しに戻した。写真を手に取り、しばらく見た後、やはり机の上に置き直した。
明かりを消さなかった。
◆
同じ夜、学院の外周から少し離れた場所に人影があった。
学院の壁沿いに続く古い道だった。昼間は荷車が通ることがあったが、深夜には誰も来ない。石畳の継ぎ目に雑草が入り込んでいた。月の光がその道を細く照らしていた。
人影は壁の外から学院の方を見ていた。
女性だった。学院の制服を着ていなかった。旅支度に近い格好で、背に革張りのケースを背負っていた。ヴァイオリンのケースだった。
学院の東棟の窓に明かりが残っていた。
その明かりを、人影は見ていた。見ているとも言えなかった。ただ目が向いていた。
月が雲の端にかかった。光が少し弱くなった。その一瞬、人影の顔が見えた。
白音と同じ輪郭だった。目の位置が同じで、鼻の形が同じで、唇の線も同じだった。
目だけが違った。
笑っていなかった。何も映していない。月明かりが返ってくるだけの、水面に近い目をしていた。
どれだけそこにいたか分からない。
学院のどこかで、明かりが一つ消えた。
女性は視線を下げた。道の石畳を見た。一呼吸置いた後、踵を返した。
来た方向へ、足音が遠ざかっていった。
角を曲がって、消えた。
◆
典礼堂の天井に、88の星座紋章が刻まれていた。
深夜の礼堂に人はいなかった。月の光が高窓から差し込んで、石の紋章の一つずつを低く照らしていた。
獅子、双子、蟹、乙女、天秤。それぞれの輪郭が影と光で浮き上がっていた。
一つだけ、周囲と違う意匠があった。
中央から少し外れた場所にある、小さな形だった。他の紋章と比べて彫りが浅く、石の表面に薄い線で円を描くような痕が残っているだけだった。
名前がなかった。番号もなかった。
深夜の典礼堂に風が入ってきた。高窓の隙間から細い風が来て、石の床を走った。
意匠の表面を、その風が通った。
一瞬だけ、石が白く光った。
礼堂は静かなままだった。
光はすぐに消えた。




