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詠星学院の魔奏歌姫~星脈の秘め事と少女たちの嘘~  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部 第1章「星脈の少女たち」

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エピローグ「扉の向こうの、もう一つの影」

 理事長(りじちょう)室に明かりがついていた。



 深夜の学院(えいせいがくいん)に残る灯りは少ない。消灯後の廊下は月の光だけが石畳に落ち、夜番の教師が一人、決まった経路を歩く足音だけが続く。

 東棟(ひがしとう)の端、最上階の角部屋だけが違った。窓から細く光が漏れていた。


 天奏理星(てんそうりせい)は机の前に座っていた。


 書類は脇に積んである。大演奏会の事後処理は昨日で終わった。黒羽鐐治の逃走に関する報告書、結界修復の費用試算、臨時査問委員会の議事録。全部に署名して、全部を脇に置いた。

 今夜の机の上には何もなかった。


 一枚の写真だけがあった。


 額縁に入れていない。裏向きにもしていない。ただ机の上に置いてある。昼間は引き出しの中だった。夜になると出す。

 そういう習慣が、いつからあったか自分でも覚えていない。


 写真の中の女性は笑っていた。


 若い顔だった。理星(りせい)が今の年齢になる前に撮ったものだった。笑い方が少し不器用で、目が笑うより先に口が動いていた。

 その隣に立っているのが理星(りせい)自身だった。若かった。今とは違う目をしていた。


 (かなで)に似ていた。いや、正確には逆だった。(かなで)があの人に似ているのだった。目の形と、耳の位置と、音楽を聴いている時に少し前傾みになる姿勢と。


 理星(りせい)は写真を見ていた。


 廊下に足音が来た。一歩の間隔が正確だった。扉の前で止まった。


「入りなさい」と理星(りせい)は言った。


 扉が開いた。



 蒼天(そうてん)が立っていた。


 司書室の外でこうして会うのは珍しいことではなかった。この二人にとっては。

 廊下と部屋の境目に立ったまま、蒼天(そうてん)理星(りせい)の机の上を一度だけ見た。写真を確認した。何も言わなかった。


「黒羽は逃げました」と蒼天(そうてん)が言った。


「分かっています」


「捜索令状を出すには、証拠が状況証拠に止まります。穂音(ほおと)さんの帳面は押収されていた。現時点では難しい」


「分かっています」


 蒼天(そうてん)は扉から中に入った。椅子には座らなかった。窓の方を一度見て、また理星(りせい)を見た。


冥響団(めいきょうだん)の動きが本格化しつつあります」


「黒羽は末端です。組織の本体は別にある」


「はい」


「それも分かっています」


 理星(りせい)は机の写真から視線を上げた。蒼天(そうてん)と目が合った。互いに感情の色がない顔だった。長くそうしてきた二人の顔だった。


「あの子は」と理星(りせい)は言った。「自分が何者か、まだ知りません」


「知っています」と蒼天(そうてん)は言った。「私が言っていないので」


「知らなくていい」


「今は、ということですか」


「今は」


 蒼天(そうてん)は少しの間、部屋の中を見た。積み上がった書類を見た。窓の外の夜を見た。また理星(りせい)を見た。


「何年待つつもりですか」


「あの子が準備できるまで」


「準備というのは」


「自分の足で辿り着くということです」と理星(りせい)は言った。「私に教えてもらったのでは意味がない。あなたもそう判断したから、この一年、言わなかった」


 蒼天(そうてん)は答えなかった。

 否定もしなかった。


「先週の演奏会で」と蒼天(そうてん)が言った。「あの子は、また光を出しました。色の数が試演会より増えていた」


「見ていましたか」


「見ていました」


 蒼天(そうてん)はわずかに声の調子を変えた。変えた、というよりは、変わった。


「あなたは」


「いませんでした」と理星(りせい)は言った。「書類の中にいました」


 部屋に沈黙が落ちた。

 遠くで風が木を揺らす音がした。葉が擦れて、消えた。


 蒼天(そうてん)が部屋を出ようとした。扉に手をかけた。


蒼天(そうてん)


 足が止まった。


「あなたは」と理星(りせい)は言った。「今も、彼女と同じ目をしています」


 蒼天(そうてん)は扉を持ったまま、振り返らなかった。


「そうですか」と言った。


「彼女も、待つことを選んだ。何年も、誰にも言わずに」


「はい」


「あなたは彼女の選択が正しかったと思いますか」


 しばらく間があった。廊下の石畳に月が落ちている。それ以外は静かだった。


「正しかった、ということにしています」と蒼天(そうてん)は言った。「でなければ、私がここにいる意味がなくなります」


 扉が開いた。廊下に靴音が出て、静かに遠ざかっていった。



 理星(りせい)は一人になった。


 机の上の写真を見た。笑い方が不器用な女性と、若い頃の自分。


 引き出しを開けた。

 一枚の文書が入っていた。厚手の紙に書式が古い。「星脈改竄申請書せいみゃくかいざんしんせいしょ」という標題が上部にあった。申請者の欄と対象者の欄に、それぞれ名前が入っていた。


 理星(りせい)の指が、対象者の欄の文字の上をゆっくり動いた。

 墨の色が少し薄くなっていた。何度も触れた指の痕が残っていた。文字そのものは読めた。


星宮(ほしみや) (かなで)」と書いてあった。


 理星は文書を引き出しに戻した。写真を手に取り、しばらく見た後、やはり机の上に置き直した。


 明かりを消さなかった。



 同じ夜、学院(えいせいがくいん)の外周から少し離れた場所に人影があった。


 学院の壁沿いに続く古い道だった。昼間は荷車が通ることがあったが、深夜には誰も来ない。石畳の継ぎ目に雑草が入り込んでいた。月の光がその道を細く照らしていた。


 人影は壁の外から学院の方を見ていた。


 女性だった。学院の制服を着ていなかった。旅支度に近い格好で、背に革張りのケースを背負っていた。ヴァイオリンのケースだった。


 学院の東棟の窓に明かりが残っていた。


 その明かりを、人影は見ていた。見ているとも言えなかった。ただ目が向いていた。


 月が雲の端にかかった。光が少し弱くなった。その一瞬、人影の顔が見えた。


 白音(しらね)と同じ輪郭だった。目の位置が同じで、鼻の形が同じで、唇の線も同じだった。


 目だけが違った。


 笑っていなかった。何も映していない。月明かりが返ってくるだけの、水面に近い目をしていた。


 どれだけそこにいたか分からない。


 学院のどこかで、明かりが一つ消えた。


 女性は視線を下げた。道の石畳を見た。一呼吸置いた後、踵を返した。

 来た方向へ、足音が遠ざかっていった。


 角を曲がって、消えた。



 典礼堂(てんれいどう)の天井に、88の星座紋章が刻まれていた。


 深夜の礼堂に人はいなかった。月の光が高窓から差し込んで、石の紋章の一つずつを低く照らしていた。

 獅子(しし)双子(ふたご)(かに)乙女(おとめ)天秤(てんびん)。それぞれの輪郭が影と光で浮き上がっていた。


 一つだけ、周囲と違う意匠があった。


 中央から少し外れた場所にある、小さな形だった。他の紋章と比べて彫りが浅く、石の表面に薄い線で円を描くような痕が残っているだけだった。

 名前がなかった。番号もなかった。


 深夜の典礼堂に風が入ってきた。高窓の隙間から細い風が来て、石の床を走った。


 意匠の表面を、その風が通った。


 一瞬だけ、石が白く光った。


 礼堂は静かなままだった。

 光はすぐに消えた。

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