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詠星学院の魔奏歌姫~星脈の秘め事と少女たちの嘘~  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部 第1章「星脈の少女たち」

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第19話「英雄の翌朝と不器用な敬意」

 三日後の朝、食堂に来ると冬子(ふゆこ)がいた。



 入学してから今日まで、食堂で(かなで)の名前を呼ぶ声が友好的だったことは一度もなかった。正確に言えば、名前を呼ばれたことが稀だった。見て、囁いて、目を逸らす。それが食堂での三ヶ月だった。


 今朝は違った。


 膳を取って席を探していると、視線の種類が変わったことが分かった。何が変わったかを言葉にするのは難しかった。無視の目ではなかった、とだけ言える。奏を見て、包帯の外れた手を見て、また奏を見る。昨日より直接話しかけてくる生徒が増えた。


「大演奏会を見ていました」

「あの舞台に立った一年生の方ですよね」


 全員が友好的なわけではない。でも今朝は誰も奏を透明にしなかった。入学式の翌日から今日まで続いた無視が、三日前の夜を境に変わっていた。


 白音(しらね)が先に席を取って待っていた。


「遅い」


 と白音は言った。


「あ、包帯外れてる。よかった」


「外れただけで治ってはいないので」


 と奏は言いながら膳を置いた。


「今週は演奏を控えるように言われています」


「じゃあ次にヴァイオリンの伴奏をしてもらえるのはいつ?」


「ヴァイオリンに伴奏の概念がそもそもあるかどうかから話し合いたいのですが」


 白音はそれには答えず、湯気の立つ汁物を口に運んだ。食堂に朝の音が満ちていた。膳が当たる音、話し声、椅子が引かれる音。奏には全部が別々の光に聞こえた。汁物の湯気が朝の光に混ざって上がっていく。米の炊ける香りが空気にあった。


 そこへ冬子が来た。



 席の間の通路を歩いてくる足音を、奏は音で感じた。尺八を携えている時の重心の足音だった。一歩が正確で、浮きがなかった。


 奏は顔を上げた。


 冬子が奏の前に立っていた。


 奏は思わず一歩引いた。座ったまま引いたので椅子が床を削る音が出た。白音が箸を止めた。周囲の視線が二人の方に向いた。


 冬子は奏の反応を見た。見て、何かを確認するように少しだけ間を置いた。それから口を開いた。


「挨拶をしに来ました」


 感情を排した声だった。いつも通りの冬子の声だった。事務的な報告に近い言い方だった。


 奏は「はい」と言った。


「あなたの演奏を聞きました」


 と冬子は続けた。


礼堂(れいどう)の後方の席で聴いていました」


「はい」


「私は今でも、型なし・系譜なしの魔奏(まそう)が正しいとは思っていません」


「はい」


 と奏は言った。


 冬子は一拍置いた。


 たった一拍だったが、奏にはその一拍が何かを含んでいることが分かった。食堂の音が続いていた。遠い席の話し声が続いていた。その中に、冬子の一拍があった。三年間積み上げてきた何かを、この一拍で置いてくる。そういう種類の間だった。


「しかし」


 と冬子は言った。


「あなたの音は、届きました」


 それだけ言った。


「礼堂の後方まで届きました。私のいた場所まで来ました」


 奏は答えなかった。汁物を持ったまま、冬子の顔を見た。冬子の表情は変わっていなかった。感情の色がない顔だった。でも言葉が来た。


「認めたくはないのですが」


 と冬子は言った。最後まで起伏のない声だった。


「認めます」


 言い切った。踵を返す。食堂を出ていく背中を奏は見た。入ってきた時と同じ足音が遠ざかる。一歩が正確だった。扉が閉まった。


 白音が奏の腕を肘で突いた。


「ねえ今のって誉められたよね」


「そう、だと思います」


「ありがとうって言えばよかったんじゃない?」


 奏は閉まった扉を見た。


「そうだった」


「来年また言えばいいよ」


 奏は「そうですね」と言って、汁物を飲んだ。冷めていた。



 午後の授業が終わった後、廊下で名前を呼ばれた。


 振り返ると蒼羅(そうら)が廊下の先に立っていた。右手に書類を持っていた。生徒会の書類だった。大演奏会の事後処理の残りだと色と厚さで分かった。


「少し時間がありますか」


 と蒼羅は言った。


「あります」


 と奏は言った。


 蒼羅は書類を片方の手に持ち替えた。廊下の窓の方を一度見た。それから奏を見た。


「非公式の特訓、再開しますか」


 奏は少し驚いた。「はい」と言う前に蒼羅が続けた。


「あなたは今後も学院(がくいん)に何らかの形で関わってくるでしょう。であれば——」


 蒼羅は少しだけ間を置いた。奏には感触があった。蒼羅の言葉の運び方に、この後にまだ何かある時の種類の間だった。


「技術があった方が、いいでしょう」


 感情のない言い方だった。正確で、余分なものがなかった。いつもの蒼羅の声だった。


 でも奏には見えていた。


 三ヶ月かけて奏の体が覚えた蒼羅の声の重さと、今日の声の重さが少しだけ違う。どちらが重いのか軽いのかは言えなかった。ただ違った。


「蒼羅さんは、本当は何て言いたいんですか」


 廊下が静かになった。


 二人の前を三年生が通り過ぎた。蒼羅に気づいて会釈した。蒼羅が返した。生徒の足音が遠ざかった。また廊下が静かになった。


「……言った通りです」


 一拍遅かった。


 奏には分かった。いつも言葉が来る速さより今日は一拍遅かった。蒼羅は書類を少し持ち直した。視線が廊下の先を向いていた。奏の顔を見ていなかった。


「じゃあ、私はお願いしたいです」


 と奏は言った。


「特訓、続けてください」


「分かりました」


 蒼羅は歩き出した。廊下の先へ。書類を持って、背筋を伸ばして。一点の乱れもない歩き方だった。


 奏はその背中を見た。歩く速さが、少しだけ普段より速い。わずかな差だった。誰も気づかないくらいの差。でも奏には分かった。三ヶ月かけて体が覚えていた。今日のそれは、ほんの少しだけ違う。


 廊下の角を曲がって、背中が見えなくなった。奏はそこに少しの間、動かなかった。


(本当は何て言いたかったんですか)


 聞いた答えは「言った通りです」。でも一拍遅かった。



 夕方になって、共奏棟(きょうそうとう)の前で(はるか)(みどり)に声をかけられた。


「怪我は大丈夫ですか」と遥は言った。

「あの出力パターン、もう一回再現できますか」と碧は言った。

「それは今聞く話じゃない」と遥が碧の肩を軽く押して言った。

「なんで」と碧は言った。


 奏は少し笑う。


「ありがとうございます、お二人とも」


 と言った。


 碧は実験ノートを懐から出した。


「昨夜のデータを整理していたんですが、封鎖魔奏(まそう)の解除と結界再起動が同時に起きた時の出力曲線が通常の理論値から大幅に外れていて——」


「碧さん」


「……わかりました、それは今度」


 碧はノートを閉じた。少しの間、奏の手を見た。


「怪我は、本当に大丈夫ですか」


「完治まで二、三週間と言われました」


「演奏への影響は」


「今週は控えるように」


 碧は少しだけ複雑な顔をした。


「そうですか」


 と言ってから、


「でも封鎖が解けたんだから結果として」


 と言いかけて、遥にまた肩を押された。


「今度聞きます」


 と言って共奏棟の中に戻っていった。


 遥が「碧はあれでも心配してるんですよ」と言った。


「分かります」


 と奏は言った。


「それが碧さんの言い方なんだと思うので」


 遥は少し笑った。


「奏さんって人の変な部分に慣れるのが早いですよね。普通もっと戸惑うんですよ、碧みたいな人には」


 奏は「そうですか」と言った。


 遥は共奏棟の方向を見た。空に夕方の色が入り始めていた。石畳が橙色になっていた。


「昨日の演奏会、聴いていました。後半から合流したので後方の席でしたけど」


「届いていましたか」


 と奏は聞いた。


「届いてましたよ」


 と遥は言った。


「弦楽器の人間には分かるんですが、あの音は礼堂の外周まで行っていたと思います。封鎖が切れた後の音の広がり方が——」


 そこで少し止まった。


「なんか違う話になりましたね。とにかく届いてました。お疲れ様でした」


 奏は「ありがとうございます」と言った。


 遥は軽く手を振って共奏棟に戻っていった。


 石畳に長い影が伸びていた。奏は自分の影を踏まないように一歩ずれて、寮の方向へ歩き始めた。



 夜になった。


 消灯前の廊下は複数の足音と扉の音が混ざっている。消灯後は別の音になる。壁を伝ってくる遠い声と誰かの楽器の弦を押さえる音と窓に当たる風の音。奏は消灯後の音の方が好きだった。光粒が細かくて見やすかった。


 窓を開けた。


 夜の空気が入ってきた。冷たかった。春の終わりの夜気だった。月はなかったが星は出ていた。学院の庭の石畳が星の光だけで白く光っている。庭の木の葉が風に揺れるたびに、葉の擦れる音の光が白銀に近い色で空気を走って消えた。


 傷の残った手のひらを持ち上げた。


 包帯が外れて三日経った。指先に細い跡がある。医師に言われた通りだった。目立つほどではない。でも皮膚の質が少し変わった箇所があった。触ると少し違う感触が来る。昨日触った時は引っ張られる感触があったが今日は少し収まっていた。


 奏は手を窓の外に出した。


 庭の空気に触れた。


 虫の声が来た。石畳の端の草むらから細い声が来ていた。橙と黄緑の中間の色の光粒が草むらの上を漂っていた。遠くの棟から風が吹いてくる音の光は色がなかった。透明な帯が夜の空気を流れていった。


 また見えた。


 あの夜のことを思い出した。笛を持って吹こうとして、光が来なかった夜。音そのものが消えたわけではなかった。でも光が見えなかった。見えない間が、どんな痛みよりも静かに体に刺さった。


 今夜は見えた。


 奏は手を引き戻した。手のひらに庭の冷気が残っていた。篠笛を取り出した。今週は演奏を控えるよう言われていた。演奏はしない。ただ持った。指を当てた。指穴に、一本ずつ。


 吹かなかった。


 ただ持っていた。持っていると笛の管が体温を拾って少しずつ温まっていく。指先の傷跡が笛の縁に触れていた。痛みはなかった。跡だけがある。


 食堂の冬子の声が来た。認めたくはないのですが、認めます。


 廊下の蒼羅の背中が来た。一拍遅かった言葉と、少し速かった足音が来た。


 炎華(えんか)の「届いてた」という声が来た。白音の「来年また言えばいいよ」という笑い声が来た。


 全部が別々の光の色を持っていた。


 虫の声が続いていた。石畳の影が星の動きに合わせてわずかずつ向きを変えていた。遠くから風が来て庭の木が揺れた。木の葉の音の光が白銀に近い色で夜の空気を一瞬だけ明るくした。


 奏は篠笛を下ろした。窓を閉める。傷の残った手のひらを見た。


 音は見えた。明日も見えるかどうかは分からない。でも今夜は見えた。それだけが今夜の全部だった、と奏は思った。

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