第18話「勝利と、手のひらの代償」
翌朝、医務室で奏が目を覚ましたとき、蒼羅が椅子に座っていた。
眠っていた。
それが分かるまでに、少し時間がかかった。背筋が伸びている。膝の上に手が揃えられていた。目は開いていたが、視点がなかった。奏を見ていない目だった。どこか少し遠い場所を、開いた目のまま見ている。
眠っている人間が、こんな座り方をするのか。
奏は天井を見た。白い石造りの天井。壁際に薬棚があって、細い明かり窓から午前の光が入ってきていた。体が重かった。腕も重い。
両手を見た。
白い布が指先から手首まで巻かれていた。包帯だった。左右どちらも同じ量の布が重なっていて、下に何かが当てられている厚みがある。ゆっくりと指を動かした。動いた。動いたが、引っ張られる感触が来た。皮膚の下を何かが引っ張る。薄い痛みだった。
「起きましたか」
声が来た。
蒼羅が目を覚ましていた。いや、眠っていたのかどうかも今となっては分からない。目を開けたまま眠っていた人が、奏が動いた瞬間にただそこにいた。背筋が伸びたまま。椅子の上で、一分も姿勢が変わっていないように見えた。
「おはようございます」と奏は言った。声がかすれていた。
蒼羅は何も言わなかった。一度だけ奏の手を見て、それから視線を壁際の棚に移した。「医師が来ます」とだけ言った。
◆
医師は中年の女性だった。名前を言ったが奏には入ってこなかった。包帯の内側を確認して、説明した。
「指先と薬指と小指の付け根あたりに裂傷があります。深くはないですが、魔奏出力の過負荷が皮膚の内側まで影響していました。完治まで二週間から三週間。状況によってはもう少しかかるかもしれません」
「演奏は」と奏は聞いた。
「今週は控えてください。傷そのものより、出力の反動が残っているので。同じ強度で演奏を繰り返せば、同じ箇所にまた傷が残ります」
「残る、というのは」
「傷跡が、残ります」と医師は言った。明確に言った。「過負荷を繰り返せば、積み重なっていきます」
奏は包帯を見た。布の下の傷が想像できた。昨夜、血が笛の管を伝っていたのは知っていた。蒼羅が気づいた時点で分かっていた。でも今朝になって、「傷跡」という言葉を聞いて、初めてそれが現実の重さで来た。
「分かりました」と奏は言った。
医師は出ていった。
部屋に奏と蒼羅だけが残った。
◆
しばらく、誰も何も言わなかった。
奏は包帯の手を膝の上に置いた。蒼羅は椅子に座ったまま、背を椅子に預けない。ずっと背筋が伸びていた。どれだけの時間をここで過ごしたのか、奏には分からなかった。昨夜から朝まで、ずっとその姿勢でいたのかもしれなかった。
「昨晩の事後処理が終わりました」と蒼羅は言った。
報告の声だった。感情の起伏がなかった。
「黒羽という補佐教官が逃走しました。学院の外に出た後の行方は今のところ不明です。芽吹さんが昨晩の段階で確保した証拠書類の一部が学院側に提出されています。第四節点の人為的な破壊と、裏動線での不審な行動についての物証がある程度揃った状態です」
「大演奏会は」
「礼堂の復旧確認の後、後半の演目が進行しました。来賓には設備点検に伴う一時中断という説明がされています」
「冥響団という名前は」
「対外的には出ていません。今の段階では、不審者による施設への干渉という扱いです」
奏は天井を見た。蒼羅の言葉が整然と並んでいく。事実の列。一つの乱れもない声で来る。
「それから」と蒼羅は続けた。「昨晩のうちに臨時の査問委員会が招集されました。あなたの身分の継続について」
奏は体を起こした。
「監視付き残留の期間が、正式に終了しました。あなたは今日から、特例の付かない正規の学院生です」
奏はしばらく蒼羅を見た。蒼羅は視線を外さなかった。
「……冬子先輩は」と奏は聞いた。
「異議なし、という立場でした」
それだけ言って、蒼羅は立ち上がった。「私は会長室に戻ります。事後処理が残っているので」
「蒼羅さん」
足が止まった。
「昨夜、隣に来てくれて」と奏は言った。「ありがとうございました」
蒼羅は奏を見た。感情の色がなかった。いつも通りだった。奏には蒼羅の顔が読めなかった。読めなかったが、今朝は何かがわずかに違った。夜明けの前の色に近い何かが、蒼羅の顔の質の中にあった。
「私の判断——」
という言葉が、来る前に止まった。
一拍だけ、来なかった。
「……どういたしまして」
蒼羅は扉を開けた。廊下に出て、閉めた。靴音が遠ざかっていく。
奏は扉を見た。音が消えた。静かになった。
手のひらの下の傷が、じっとそこにあった。
◆
炎華が来たのは、昼に近い頃だった。
ノックをせずに扉を開けた。医務室に入ってきて、奏の顔を確認した。包帯の手にも目が止まる。「あー」という声を出した。感想なのか確認なのか、判断のつかない声だった。
「昨日の演奏会、見てたよ」と炎華は言った。
「はい」と奏は言った。
「あんたの音」炎華は続けた。ためらいのない言い方だった。「ちゃんと届いてた」
床を見た。そのまま少しの間黙った。
「俺は最初、あんたが舞台袖から出てきた時に馬鹿だと思った。来るなって言われてたくせに来て、封鎖が張られた礼堂に出て行って」
「はい」
「でも届いてた」
炎華は奏の目を見た。「礼堂の後ろまで届いてた。俺のいた場所まで来た。あんたの音が」
それだけ言った。
後は何も言わなかった。二回ほど部屋の中を見渡してから、「邪魔したな」と言って出ていく。扉が閉まった。
奏は空になった部屋を見た。
窓の外に光がある。
◆
芽吹と白音が来たのは昼前だった。
白音が先に入ってきて、奏の顔を見て「よかった」と言った。声が少し揺れていた。「起きてる」と言った。「よかった、起きてる」と繰り返した。
芽吹は白音の後ろから入ってきて、一度だけ奏の手を見た。観察する目で確認して、「包帯が昨夜より増えましたね」と言った。
「医師に巻き直してもらいました」
「傷の具合は」
「二、三週間で治ると言われました」
「演奏は」
「今週は控えるように」
芽吹は小さくうなずいた。帳面を出す素振りがあって、止めた。
「査問委員会の件、聞きましたか」と芽吹は言った。
「蒼羅さんから」
「冬子先輩が異議なしを出したのは——私から見ると少し意外でした」
「私も」と奏は言った。「でも来てくれたんですよね、審議の場に」
「来ていました。前列に座っていました。議事の最初から」芽吹は少し間を置いた。「理由は言いませんでした。委員の一人が問いかけた時も、委員として審議に参加しただけですとだけ答えていました」
奏は窓の外を見た。学院の庭が見えた。石畳の上を、数人の生徒が歩いていた。普通の朝だった。昨夜に礼堂で起きたことが、外では何事もなかったように続いていた。
「芽吹」と奏は言った。
「はい」
「黒羽という人から、昨夜何か聞きましたか」
芽吹の目が少しだけ変わった。変わり方は小さかった。でも奏には見えた。
「聞きました」と芽吹は言った。「いくつか」
「話せますか」
「今日はいいです」芽吹は言った。「あなたが退院してから話します。今日話す必要のある内容ではないので」
「そのうちの一つが、あなたの父親のことですか」
芽吹は答えなかった。
十秒ほど黙った。窓の外を見た。庭の石畳を見た。それから奏に視線を戻した。
「禁書庫の資料を、もう一度確認したいと思っています」とだけ言った。「申請書の内容について」
奏は「分かりました」と言った。それ以上聞かなかった。
芽吹は頭を下げた。「今日はゆっくり休んでください」と言って、部屋を出た。
◆
白音だけが残った。
白音は奏のベッドのそばの丸椅子を引き寄せて座った。奏の横に来た。
「痛い?」と白音は言った。
「痛い」と奏は言った。
「ごめんね」
「なんで白音が謝るの」
「なんか、ごめんって言いたかった」
白音は奏の包帯の手を見た。それから恐る恐る手を伸ばした。包帯の上から白音の手が奏の手に触れる。体温が来た。白音の手の温度だった。
「怖かった」と白音は言った。
「うん」
「あの夜、礼堂で。奏が舞台に出て行った時」
白音の手が、少しだけ奏の手を握った。力を込めない握り方だった。
「でも届いてたよ」と白音は言った。「私のいた席まで届いてた。音の光、見えなくても分かった。なんか全部が静かになった感じがして、ああ奏の音だって分かった」
奏は白音の手を見た。
「白音、大丈夫でしたか。昨夜」
「大丈夫。びっくりしたけど」白音は少し笑った。目が少し赤かった。「でも夢見ちゃったよ。怖い夢」
「どんな夢」
「忘れた。起きたら忘れてた。なんか暗い夢だった気がするけど、思い出せない」
奏は白音の顔を見た。
廊下でのことを思い出した。演奏会の翌朝、白音が廊下に一人で立っていた後ろ姿を。振り返った白音がいつもの笑顔だった。
「白音、今日は体調どうですか」
「普通だよ。あ、でも朝ごはんいつもより食べた気がする」
「それは体調がいいということでは」
「そうかな」白音は少し考えた。「そうかも。なんか今朝は食欲あった」
奏は少し笑った。白音も笑った。
「ねえ奏」
「うん」
「来年も、いてくれる?」
奏は白音の顔を見た。白音が笑っていた。いつもの笑い方だった。でも目が少し真剣だった。
「いますよ」と奏は言った。
白音は「よかった」と言った。手の力が少しだけ強くなった。包帯の外から、温かさが来た。
◆
午後になって、部屋に一人になった。
医師が来て包帯を確認した。問題なし、と言って今日は安静にしていることを告げて出ていった。
奏は窓の外を見た。
学院の庭に午後の日差しが落ちていた。石畳の上の光が、少しずつ角度を変えながら動いていた。生徒の姿が時おり通り過ぎた。演奏の音が遠くから聞こえてくることがあった。西棟のどこかで誰かが弦楽器を弾いていた。
奏は包帯の手を持ち上げた。
布の下の傷が想像できた。細い傷跡が、複数の指に残っている。今週は演奏を控えてください、という言葉が来た。同じ強度で繰り返せば積み重なっていく、という言葉が来た。
でも届いた。
炎華の声が来た。ちゃんと届いてた、という声が。白音の「全部が静かになった感じがした」という声が来た。蒼羅の声が横から来た夜の感触。白銀の声が奏の音に重なった瞬間に、礼堂全体が変わった感触が来た。
傷跡は残る。
でも音は届いた。
奏は手を下ろした。
窓の外に弦楽器の音が続いていた。西棟のどこかで、誰かがまだ練習を続けていた。音の光は見えなかった。距離が遠すぎた。でも音は来た。窓ガラスを伝って来た。
◆
夕方になって、廊下を通り過ぎる足音があった。
止まる気配がした。
扉が二回ノックされた。
「どうぞ」と奏は言った。
扉が開いた。
冬子が立っていた。
学院の制服。尺八のケースを手に持っていた。放課後の練習の帰りだった。奏の顔を見た。包帯の手を見た。それから部屋の中を一度確認して、また奏に視線を戻した。
「お疲れ様でした」と冬子は言った。
感情の起伏がない言い方だった。いつも通りの冬子の声だった。でも来た。扉の前まで来て、ノックをして、入ってきた。
奏は「ありがとうございます」と言った。
冬子は少しの間奏を見た。何か言いかけた気配がした。でも出てこなかった。唇が一度だけ動いて、止まった。
「今週は無理をしないように」と冬子は言った。
それだけだった。
頭を下げて、扉を閉めた。廊下を歩いていく足音が遠ざかった。
奏は閉まった扉を見た。しばらくそのままでいた。
◆
夜、芽吹は図書館に向かっていた。
蒼天は今日は別の用件があると言っていた。禁書庫の扉には鍵がかかっていない——昨日の夜からそのままのはずだった。
芽吹は扉に手をかけた。引いた。開いた。禁書庫の古い空気が出てきた。
ランタンを持って中に入った。
最深部の棚に向かって歩いた。棚の奥。壁際の目録に記録のない木箱のある場所。
木箱を引き出した。
蓋を開けた。
三冊の記録書がある。一番上の冊子を取り出した。「星脈改竄記録・保管原本」と表紙にある。ページを開いた。
父の名前が出てくる箇所まで手を動かした。
指が止まった。
申請書の内容の行。対象者の欄。
対象者の名前を、芽吹はもう一度読んだ。
禁書庫の中が静かだった。ランタンの火が揺れた。
芽吹は帳面を取り出した。何かを書こうとして、ペンを止めた。書く必要のある内容が、今夜は言葉にならなかった。ただ対象者の名前の下に書かれた申請理由の一行を読んだ。
「対象者の安全確保のため」
芽吹は本を閉じた。
木箱に戻した。蓋を閉めた。
立ち上がって、禁書庫の出口に向かった。ランタンの光が壁を照らしながら移動した。古い書物の並んだ棚の間を通り抜けた。
扉を開けた。廊下の光が入ってきた。
芽吹は禁書庫を出て、扉を閉めた。
廊下を歩き始めた。足音だけが続いた。




