表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
詠星学院の魔奏歌姫~星脈の秘め事と少女たちの嘘~  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部 第1章「星脈の少女たち」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/22

第17話「星原流、解放」

 結界(けっかい)が落ちた瞬間、(かなで)の全身が燃えるように熱くなった。


 吹いた。



 音が出る前に、熱が来た。


 指先から。唇から。鎖骨の奥から。そこに何かがあったのかと問われれば、ずっとあった、と今なら答えられる。五歳の時に初めて篠笛(しのぶえ)を吹いてから、音を出すたびに微かに温かくなる場所が体の中にあった。それがこの夜、初めて燃えた。


 礼堂(れいどう)の後方で節点(せってん)が落ちた音は、あの夜の試演会よりずっと低く、重かった。石が砕ける音ではなく、何かの層が剥がれる音だった。客席後方の照明が連鎖して落ちる。暗くなった部分から人が動き始める。教師が数人、通路に向かって走り出す。


 (かなで)は舞台の中央に立ったまま、篠笛を吹いた。


 一音目。


 光が出た。



 金色と白銀(はくぎん)が混ざった色だった。


 試演会の夜と同じ色だ、と思う前に、違う色が見えた。


 金でも白銀でもない、もっと深い何かが混じっていた。藍色(あいいろ)だった。紺よりも暗く、黒よりもわずかに明るい。水底の色に近い。自分の音に、知らない光が混じっている。なぜそこにあるのか、分からなかった。


 分からないまま、吹き続けた。


 礼堂の天井に向かって音が上がっていく。金と白銀と藍が螺旋を描きながら混ざり合い、礼堂の空気を満たしていく。光粒が天井から客席に降りてくる。暗くなった後方の三分の一に、光粒が届いた。


 鳴影獣(めいえいじゅう)が、止まった。


 礼堂の床から出てきていた。第四節点が落ちた箇所の近くから、黒い靄が形を成して這い出してきた。試演会の時の三体より多かった。(かなで)は数えた。五体、六体——七体が礼堂の後方と中程に散らばっていた。


 その七体が全部、奏の方を向いた。



 教師たちが後方で魔奏(まそう)を展開していた。


 天鳴流(てんめいりゅう)の白銀が数条、詠星流(えいせいりゅう)の金が数条、礼堂の後方に展開された。でも通常の出力の半分にも届いていない感触が、奏には分かった。封鎖魔奏が施されている。試演会の夜と同じだ、と体が知っていた。


(かなで)さん」


 横から声が来た。


 蒼羅(そうら)ではなかった。和音(かずね)だった。客席の端から出てきていた。両手を前に構えて、礼堂の空気の歪みを感知する時の立ち方だった。「封鎖の起点は床下だと思います。礼堂の中心よりやや後方」と和音は言った。感情の起伏がない声だった。情報として届けてくれている声だった。


「解く方法は」


「あなたに聞いています」


 奏は礼堂の後方を見た。七体の鳴影獣がまだ止まっていた。奏の音が礼堂に残っている間は止まっている。でも音が消えれば動き出す。客席からはまだ人が出ていない。五百人が礼堂の中にいる。


(鎮める音では足りない)


 試演会の夜は「鎮める音」だった。鳴影獣を一時的に止めた。でも今夜は封鎖魔奏が礼堂全体に施されている。結界を再起動させなければ、人が出ていくことができない。結界がなければ鳴影獣は外まで追ってくる。


 鎮めるのではなく、解く。


 封鎖魔奏を破る音を出すこと。蒼天(そうてん)は教えていなかった。教科書には書いていなかった。でも「届かせたい場所を決める」と言った。今夜届かせたい場所は礼堂の中心よりやや後方の床下で、そこに向けて何かを出すこと。


 何を出すかは——体が知っている、と思った。


 根拠がなかった。でも手のひらが熱かった。熱い場所が知っている。


 奏は息を吸った。



 音を変えた。


 吹き方を変えたのではない。出力を上げたのでもない。向きを変えた。礼堂の天井に向けていた音を、床に向けた。蒼天の言葉が来た。出力の向きを意識すること。量ではなく、方向を。届かせたい場所を、音を出す前に決めること。


 床に向けて吹いた。


 体の中の熱が一段上がった。


 指先から光が溢れていく感触があった。音と一緒に何かが出ていく。蓄えていたわけではなかった。でも出ていく。量は分からない。制御の感覚がない。ただ向きだけがある。床に向けて吹いた。


 礼堂の床がわずかに鳴った。


 共鳴(きょうめい)の音だった。石が共鳴する低い声。礼堂の空気が一度だけ震えた。


 封鎖の輪郭が奏には見えた。礼堂の空気の中に黒い格子のような形がある。今まで見えていなかったものが、床に向かって音を出した瞬間に現れた。封鎖魔奏の形だった。格子の目が細かい。隙間がほとんどない。教師たちの魔奏がこれに引っかかって通り抜けられなかった。


 奏の音は通っていた。


 格子を通り抜けた光粒が床下に届いていく。金と白銀と藍の混合色が、格子の目を縫うように通っていく。隙間に合わせているのではなく、形が合っていた。なぜ合っているのか分からなかった。でも通っていた。


 七体の鳴影獣が、再び動き始めた。奏の方を向いたまま、音に引かれて、前に出てくる。



 体が熱かった。


 指先を見た。光が溢れている。音と一緒に出ていく光の量が、試演会の夜より多かった。全身が音を出しているような感触があった。肺だけではなく、腕の内側から、背骨から、膝の裏から、全部が共鳴している。


(止められない)


 止めたら届かなかった。


 七体が近づいてくる。教師たちが後方でまだ魔奏を展開している。声が上がっている。でも奏には礼堂の音全体が一つになって聞こえていた。光粒の流れが礼堂全体で変わり始めていた。封鎖の格子が少しずつ目を広げていく。


 音が届いている。


 右手の人差し指の腹は、温かいのではなく熱い。熱いと感じた次の瞬間、ぬるい感触が来た。血だ。音を出し続けている間に、指先の皮膚が裂けていた。篠笛の指穴の縁で、力の入り方が変わった時に。一本ではなかった。複数の指から、細い線で滲んでいる。


 止めなかった。止めれば届かなかった。


 封鎖の格子があと少しで全部解ける。全部解ければ教師たちの魔奏が通る。通れば鳴影獣を制圧できる。あと少し。あと少しで全部が——


(かなで)さん」


 声が来た。


 今度は蒼羅(そうら)だった。



 舞台の上に、蒼羅が来ていた。


 いつの間に袖を出たのか、奏には分からない。気づいた時には、横に立っていた。一歩分の距離。正装の和服。白銀の袖。右手には何も持っていなかった。


 蒼羅が奏の手を見た。


 血が指先から笛の管の一部を伝っていた。


「奏さん、それ以上は——」


「大丈夫です」


「嘘をつかないでください」


 止められなかった。封鎖はまだ完全に解けていない。あと少しの場所から引いてしまえば、今夜は終わらない。


「……でも、あと少し」


 蒼羅は一拍だけ、奏を見た。


 奏には蒼羅の顔が見えた。感情の色がなかった。いつもの通りだ。でも今夜の蒼羅の顔は、いつもとわずかに違っていた。計算を一度置いた顔。理由を一度横に置いた顔。


 その顔を、奏以外には誰も見ていなかった。五百人が礼堂の混乱の中にいて、舞台の上の二人を見ていたが、蒼羅の顔のその変化を見ていた者は、奏だけだった。


 蒼羅が奏の手に、自分の手を重ねた。


 篠笛の管ごと包むように、両手で。蒼羅の手の温度が来た。奏の手のひらより高い温度だった。


 声楽が始まった。


 奏の篠笛に蒼羅の声が重なった。天鳴流の白銀の光が、奏の音の光に混ざった。金と藍の螺旋に、白銀が加わった。三つの色が一つになった瞬間、奏には礼堂全体が見えた。


 見える、というのは視野が広がったのではなかった。光粒の流れが全部同時に来た。礼堂の天井から客席の端まで、一点ずつの光粒が奏には見えた。五百人の息遣いが全部来た。教師たちの魔奏の動きが全部来た。七体の鳴影獣の輪郭が全部来た。


 届く範囲が、変わっていた。


 封鎖の格子の最後の層が、音の波に飲まれていく感触があった。格子の目が一気に広がって、最後の一枚が——


 礼堂全体が、鳴った。



 光が満ちた。


 石壁から、床から、天井から。礼堂の外周結界が一斉に再起動した。白い光の線が結界の形に沿って礼堂全体を走った。教師たちの魔奏が、封鎖の消えた空気の中を通り抜けた。七体の鳴影獣が白銀の出力を受けて、床へと引き戻されていく。一体、二体——全部が、同じ速さで消えた。


 礼堂の照明が戻った。


 客席の後方まで、光が戻った。


 奏は篠笛を下ろした。


 光が消えた。手の中の熱が一瞬で引いた。代わりに来たのは重さだった。腕の重さ。肩の重さ。膝の重さ。全部が一度に来た。前のめりになった。


 蒼羅の手が、奏の腕を掴んでいた。


「立てますか」


 声が来た。遠かった。でも確かに来た。


「……立てます」


「嘘をつかないでください」


 奏は答えなかった。


 答える前に、膝が折れた。蒼羅の肩に重さがかかった。支えられていた。


「……立てません」


 礼堂が静かだった。


 光が戻って、暖かくなった礼堂の空気の中で、奏は蒼羅の肩に寄りかかっていた。血の滲んだ指先が包帯も何もない状態で、笛を握ったまま。蒼羅の手が奏の腕を掴んだまま。


 三百人が——いや、五百人が、舞台を見ていた。


 誰も、まだ何も言わなかった。


 礼堂の天井に、光の跡が残っていた。金と白銀と、それから奏の知らない藍色が、ゆっくりと空気に溶けていく。溶けながら、消えていく。


 奏はその光を、下から見上げていた。


 蒼羅の肩が、温かかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ