第16話「正体、現る」
結界の第二節点が光った時、芽吹は走っていた。
裏動線の石廊は暗かった。礼堂の客席からは見えない、舞台と倉庫と機材置き場を結ぶ業者用の通路だ。灯りは突き当たりに一本だけ、油の少なくなった燭台が橙の輪を作っている。足音が壁に跳ね返って、自分の走る音が前からも来るように聞こえる。
芽吹は節点の配置を頭に入れていた。
礼堂の結界は七つの要石で支えられている。番号は一から七。第一節点が正面の演壇の真下、第二が右袖の壁、第三が左袖、第四が客席後方、第五から第七が天井裏の三箇所。通常の維持管理ではすべての節点が均等な青白い光を放っている。
第二節点だけが違った。
芽吹が右袖の通路を通った時、壁の石組みの中に埋め込まれた要石が橙の混じった黄色で揺れていた。揺れているというのは比喩ではなく、光の輪郭が一秒に数回の割合で膨らんで縮んでいた。要石の光が揺れる原因は一つだ。外部から干渉を受けている。
試演会の夜と同じだった。
芽吹はその場で足を止めなかった。右袖から後方回廊に出で、第四節点に向かって走り始めた。今夜の仕掛けが試演会と同じ手法なら、複数の節点を同時に、あるいは順番に落としにかかる。第二が揺れているなら、次は第四か第三かどちらかだ。
第四節点の位置は客席後方の壁の裏、資材の搬入口から入った先にある。
後方回廊の角を曲がった。
「止まれ」
背後から声が来た。
◆
振り返った。
男が立っていた。
三十代から四十代の間くらいの、学院の職員服を着た男だった。手に、見覚えのある帳面を持っていた。
芽吹の帳面だった。
寮の部屋に置いてきた補助帳面ではなく、禁書庫の夜の後に書き直した調査記録の帳面だった。三週間分が詰まっている方だった。今日の午後、いつの間にか消えていた。部屋に戻った時にはもうなかった。芽吹はその事実を奏に伝えず、大演奏会の準備で動いていた。
帳面を持っているということは、この男が部屋から持ち出した、ということだ。
「穂音芽吹」と男は言った。「お前が調べていたのは、これか」
声に東域なまりがあった。
奏が第五話の夜に禁書庫の前で聞いた声だと、芽吹には分からなかった。でも分からなくても、今この場に必要な情報は揃っていた。帳面を持っている。名前を知っている。後方回廊の、業者しか入れない場所にいる。
「あなたは」と芽吹は言った。
後ろへ下がりながら、出口の方向を確認した。来た角の方向と、この廊下の先の突き当たり。先の突き当たりには資材の搬入口がある。一枚だけの鉄の扉。
「黒羽鐐治だよ」と男は言った。「学院補佐教官、という肩書きは知っているだろう」
芽吹は動きを止めた。
知っていた。候補者名簿で絞り込んだ二名のうちの一人だった。東域出身、学院勤務三年、結界管理の補助業務に関わる立場にある人物。ただの候補者だった。証拠がなかった。名前を奏に告げたことも、蒼羅に伝えたこともない。芽吹の帳面の中にだけ、「候補・黒羽」という三文字が書かれていた。
その帳面が今、男の手にある。
「試演会の夜も、今夜も、あなたが」
「確認がしたければ答えてやってもいい」と黒羽は言った。感情の起伏がなかった。結果を告げる声だった。「今夜のところは、どうせお前が逃げ出せる場所はないから」
「なぜ私に話すんですか」
「お前の父親の申請書を見たんだろう」
芽吹の呼吸が、一拍だけ変わった。
「あれは私が管理している。禁書庫の最深部に置いてある木箱は、もとは私が選んだ場所だ。蒼天が後から気づいて別の場所に動かそうとしていたが、先手を打った」
「禁書庫の夜に私たちを閉じ込めたのも」
「そうだ」
答えが早かった。否定する気もない声だった。
「あの申請書は——父が自発的に提出したものですか」
廊下の空気が動かなかった。後方回廊の石壁は厚く、礼堂の音がほとんど届かない。蒼羅の声楽が遠く聞こえる気がするが、それは錯覚かもしれなかった。芽吹は帳面を持つ黒羽の手を見た。帳面の背表紙に、自分が書いた文字が見えた。細かい字で、三週間の記録が詰まっている。
「提出させた、と言う方が正確だな」
黒羽は言った。
「お前の父親は星脈改竄の技術を知っていた。私たちの組織がその技術を必要としていた」
「組織、とは」
「冥響団だよ」
◆
三文字が廊下に落ちた。
芽吹は「冥響団」という言葉を、禁書庫の古い資料の片隅で一度だけ見たことがあった。設立から現在まで存続しているかどうかも分からない、古い団体の名前として。魔奏史の傍注に一行だけあった。「冥奏流を奉じる秘密組織、約200年前に一度消滅したとされる」という記述。
消滅したとされる。
今目の前に、その組織を名乗る男がいる。
「父は何を提出させられたんですか」と芽吹は聞いた。
「別の誰かの星脈封印を強化する申請書だ」と黒羽は言った。「技術の提供を断ろうとした時に、お前の名前を出した。穂音一貴は娘が学院にいる。それだけで十分だった」
「脅したということですか」
「説得と呼ぶ方が正確だ」
芽吹は答えなかった。
答える前に考えた。申請書に書かれた内容が今、もう一度違う形で来た。「対象者の安全確保のため、封印の強化を依頼する」という文面。父は守ろうとしていた、と芽吹は禁書庫の夜に思った。守ろうとしていた、のではなく——守らされていた。強化を依頼する立場に立たされていた。
父親が選んだのではなく、選ばされていた。
その差が、芽吹の中で何かを動かした。論理ではなかった。数値で表せないものだった。
「封印の対象者は誰ですか」
「今教える必要はない」と黒羽は言った。「今夜が終われば、全部分かる」
「今夜終わったとして——あなたたちが成功するとは限らない」
黒羽が少しだけ笑った。笑う声ではなく、口の形が笑った。目は変わらなかった。
「試演会の時と同じことを言うか。あの夜はたまたま失敗した」
「たまたまではありません」
「そうか」黒羽は帳面を一度だけ見て、また芽吹に戻した。「では今夜もたまたまでないことを祈れ」
◆
礼堂の何かが、割れた。
遠い音だった。石廊の向こう側の、礼堂の内部で。人の声があがる気配が届いてきた。壁を伝って来る振動が、足の裏に来た。
芽吹は黒羽を振り切った。
黒羽が腕を伸ばす前に、芽吹はすでに後方回廊を走り始めていた。足音を気にしている余裕がなかった。石畳を蹴って、角を曲がる。「待て」という声が後ろから来たが、振り返らなかった。振り返らなくても距離が分かった。足音の速さと壁への反射で、黒羽が追ってきていないことが分かった。追う必要がないと判断したか、あるいは別の動きに入ったか。
芽吹は礼堂への扉を探しながら走った。
裏通路から礼堂の内部に入れる扉は、中盤の右側に一箇所ある。業者が機材を搬入する時に使う扉。普段は施錠されているが今夜は開けてある——大演奏会の夜は複数の業者が出入りするため、管理担当の判断で解錠されていると資料に書いてあった。その情報を芽吹は事前に確認していた。
扉が見えた。
走ったまま押した。
礼堂の音が、一気に来た。
◆
礼堂の空気が変わっていた。
舞台袖で奏は感じていた。
蒼羅の声が続いている。演奏は止まっていない。でも礼堂全体の光の粒の流れが、数十秒前から変わっていた。奏の手のひらが冷たくなった。さっきより冷たい。冷えているのは笛の管ではなく、手のひらそのものだった。
石壁の右側で、節点の光が揺れている。
第四節点だった。客席の後方に埋め込まれた要石が、第二節点と同じ橙の混じった黄色で揺れていた。試演会の夜に試演会場の結界石が黒い光を放ったことを、奏は覚えていた。今夜の揺れ方は黒くない。黒くないが、安定していない。
揺れているものは、落ちる前に揺れる。
奏は緞帳の端をわずかに引いた。
客席が見えた。五百の席が埋まっている。前列の来賓が舞台の方を向いている。中ほどの生徒たちが、何かを感じているのかいないのか、まだ気づいていない様子だった。でも一部の上級生が隣の人間と何かを囁き合っているのが見えた。
蒼羅の声楽が最終節に入った。
奏は篠笛を握り直した。
(向きを、決める)
蒼天の言葉が来た。出力の向きを意識すること。量ではなく方向を。届かせたい場所を、音を出す前に決めること。
届かせたい場所は——どこか。
今はまだ分からなかった。でも感じていた。手のひらの冷たさが、節点の状態を伝えてくる。揺れているものが落ちる前に、温度で分かる。分かるのがなぜかは説明できなかった。星原流の記録に書いてあった「音に光を見る能力」と同じ理由で、奏には分かってしまう。
礼堂の右側後方で、光が消えた。
◆
音がした。
石が割れる音ではなかった。圧力が一点に集まって、静かに砕ける音だった。礼堂の内壁が一箇所だけ、黒く焦げた跡を作った。
第四節点が落ちた。
客席の後方に座っていた生徒が立ち上がった。悲鳴ではなく、困惑した声が上がった。「何か」「どこが」という声が客席に広がる。礼堂の照明に使っていた魔奏の灯りが、後方の三分の一で落ちた。暗くなった部分から、人が前方に向かって動き始めた。
来賓の列が揺れた。
蒼羅の声が止まった。
奏は蒼羅が演奏を止めた瞬間を感じた。声の光が消えた瞬間に、礼堂全体の光の密度が一段落ちた。蒼羅は舞台の上で礼堂全体を見渡していた。一秒で全体の状態を把握する目の動き。人の動き、節点の状態、教師たちが何人動いているか。その全部を一秒で。
蒼羅の視線が舞台袖に来た。
奏と目が合った。
蒼羅の目に、何かがあった。
読めない目だった。いつもそうだった。読めないのに、今夜この瞬間だけは何かが伝わってきた。計算でも指示でも命令でもなかった。それ以外の何かだった。
奏には名前がつかなかった。
でも体が動いた。
◆
緞帳を押した。
舞台の上に出た。
足の裏に舞台の板の感触が来た。礼堂の空気が全部来た。音と光と熱と、五百人の息遣いが全部来た。
前を向いた。
客席が奏を見ていた。舞台の上に立った人間に向けられる、礼堂全体の視線が来た。制服を着た一年生。出番のない人間。でも今そこに立っていた。
奏は篠笛を唇に当てた。
向きを決める、と思った。どこへ届かせるか。
礼堂の後方。暗くなった三分の一。そこにいる人たちが今夜ここから怪我なく出ていけるように。その一点だけを決めた。
息を吸った。
三百人が、まだ奏を見ていた。




