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詠星学院の魔奏歌姫~星脈の秘め事と少女たちの嘘~  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部 第1章「星脈の少女たち」

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16/22

第15話「大演奏会、開幕」

 舞台袖で、(かなで)は自分の呼吸を数えていた。


 息を吸う。吸った分だけ、胸が広がる。息を吐く。吐いた分だけ、何かが出ていく。何が出ていくのかは分からなかった。恐怖なのか、緊張なのか、昨夜眠れなかった時間の残滓なのか。吐くたびに少しずつ軽くなる気がして、でも吸うたびにまた満ちてきた。


 袖の奥は薄暗かった。


 西棟(にしとう)のコンサートホールではなく、今夜は学院の中心にある大礼堂だった。詠星学院(えいせいがくいん)の大演奏会は、東棟(ひがしとう)西棟(にしとう)の二つが挟む形で設けられた石造りの礼堂を使う。その舞台袖の、柱と緞帳の間の狭い空間に(かなで)は立っていた。


 正面の緞帳の向こうから、音が漏れてくる。


 (みどり)がパイプオルガンを演奏している時間だった。低音が石壁を伝ってくる。床から来る感触が靴底を通じて足の裏に届く。礼堂の天井が高い分、音が降ってくる角度も深かった。


 (かなで)は篠笛ケースを持ったまま、柱に背中をあずけた。


 朝、(かなで)が礼堂に向かう前に、蒼羅(そうら)が廊下で呼び止めた。


「少しいいですか」という言葉があって、(かなで)は足を止めた。蒼羅(そうら)は一歩だけ廊下の端に動いた。


「あなたは今夜、客席で鑑賞することになっています」と蒼羅(そうら)は言った。「正式な出番はない。それは変わりません」


「はい」


「ただ」と蒼羅(そうら)は続けた。「芽吹(めぶき)さんから連絡を受けました。仕掛けの場所が会場全体に及ぶ可能性がある、と」


 (かなで)はうなずいた。昨夜、芽吹(めぶき)から伝えられた内容だった。試演会の時の手法が、今夜はより大きな規模で繰り返されるかもしれないという話だった。


 蒼羅(そうら)は一拍置いた。


「来ないでください」と言った。「舞台袖には。あなたが会場に存在することで、彼らが計画を早める可能性があります」


「でも——」


「あなたには結界の補修ができるかもしれない。試演会でそれは分かった」と蒼羅(そうら)は遮った。「でも今夜の規模は試演会の比ではない。礼堂の収容は五百を超えます。もし制御を失えば——」


「来ます」


 (かなで)は言った。


 蒼羅(そうら)の言葉が止まった。


 続きが来なかった。来るはずの言葉が、(かなで)の声で切り取られた。蒼羅(そうら)(かなで)の顔を見た。感情の色のない目で、ただ見た。(かなで)は目を逸らさなかった。


蒼羅(そうら)さんの言っていることは分かります」と(かなで)は言った。「でも私が来なかった場合のことを考えると、来る方がいい」


「あなたの判断ですか」


「はい」


 蒼羅(そうら)(かなで)を見続けた。秒数は数えなかった。読めなかった。いつものように、蒼羅(そうら)の目の奥が読めなかった。でも今朝の顔の質は少しだけ違った。計算された冷静さではなく——何か別の静けさがあった。


「……分かりました」


 蒼羅(そうら)は言って、それ以上の言葉を重ねなかった。


 (かなで)は「ありがとうございます」と言いかけて、やめた。礼を言う場面ではない気がした。蒼羅(そうら)は礼を求めていない目をしていた。


 二人は廊下を別の方向に歩いた。


   ◆   


 パイプオルガンの音が変わった。


 (みどり)の演奏が終わりに近づいている。最後の和音が礼堂の空気に広がって、余韻が石壁を満たしていく。(かなで)は緞帳の端から、舞台の隅だけを覗いた。正面の客席は見えない。でも音の響き方で、礼堂が満員に近いことは分かった。


 音が満ちている場所には光がある。


 (かなで)の目には、礼堂全体が今夜も光粒で満ちているように見えた。(みどり)のオルガンが出す低音は藍紫色の大きな粒だった。礼堂の高い天井から降ってくる色だった。余韻が引いていくにつれて、粒が少しずつ散っていく。


 (かなで)は篠笛を取り出した。


 ケースの革紐を外して、笛を手の中に収めた。父の工房で削り出された笛。管に傷がある。細い、靴底の跡のような傷。それがそこにある。


 向きを、決める。


 蒼天(そうてん)の言葉を、もう一度確かめた。出力の向きを意識すること。量ではなく、方向を。届かせたい場所を、音を出す前に決めること。


 (かなで)はまだ舞台に上がる予定がなかった。


 来ると言った。でも来たからといって、何をするかは決まっていない。仕掛けが来れば動く。来なければ客席で終わる。それだけのことだった——のに、朝から舞台袖にいる。蒼羅(そうら)に「来ないでください」と言われて、「来ます」と言った。


 その選択が正しかったかどうかは、まだ分からなかった。


 袖の奥で誰かの足音がした。


 振り返ると、蒼羅(そうら)がいた。


 正装の和服に、詠星流(えいせいりゅう)の金刺繍が入った帯を締めていた。声楽のための衣装だった。白銀の布地が袖に重なっている。髪が丁寧に結われていた。


芽吹(めぶき)さんが会場の裏動線を確認しています」と蒼羅(そうら)は言った。「仕掛けが来れば、あの子が最初に気づきます」


「はい」


「私が演奏を止めずに音でやり取りできます。あなたが舞台袖にいれば、出方を時間で決められる」


蒼羅(そうら)さんが止めを決めてください」と(かなで)は言った。「私は蒼羅(そうら)さんの音を聴いているので」


 蒼羅(そうら)(かなで)を見た。


「私の音を」


「はい」


 少しの間があった。


「……あなたは本当に、自分が何者か知らないで言っているんですか」


 低い声だった。感情の色がなかった。でも問いの質が、いつもの蒼羅(そうら)と違った。確認のような、確かめるような声だった。


「知りません」と(かなで)は言った。「でも音は——見えます。蒼羅(そうら)さんの声の色が、今夜どんな色をしているか。私には分かる。分かるから、合わせられる。型はないけど」


 蒼羅(そうら)は答えなかった。しばらく緞帳を見ていた。


「……分かりました」と蒼羅(そうら)は言って、舞台の方へ歩き出した。礼堂のアナウンスが来た。次の演目を告げる声が礼堂の空気を満たした。「獅鳴(しめい) 蒼羅(そうら)による声楽演奏」という言葉が、石壁に反響した。


 蒼羅(そうら)が緞帳の前に立った。


 (かなで)は柱の陰から、その背中を見た。白銀の衣装。結われた髪。礼堂全体の光粒が蒼羅(そうら)の輪郭に集まってくる感触があった。声楽を始める前の静けさが、舞台袖にまで届いてくる。(かなで)は篠笛を持ったまま、息を整えた。


 緞帳が開いた。


 蒼羅(そうら)の声が、礼堂に入った。


 一音目。


 (かなで)の手のひらが温かくなった。


 声楽の最初の一節が礼堂の天井まで上がっていく。白銀の光が、(かなで)には見えた。蒼羅(そうら)の声から出る光は、いつも天鳴流(てんめいりゅう)の白銀だった。試演会の日に二人の光が重なった夜に初めてはっきりと確かめた白銀。


 でも今夜の光は少しだけ違った。


 白銀の中に、何か別の色が混じっている。


 (かなで)は意識の焦点を変えた。音の光に集中する時のやり方で、視線ではなく感知の向きを変える。白銀の光粒の中に、細い——本当に細い、橙よりも深い何かが混じっていた。


 観月祭の帰り道の白音(しらね)の言葉が戻ってきた。


「声が、悲しそうなんだよね」


 あの夜、(かなで)はそれを「そう聞こえる」というだけだと思っていた。でも今夜、蒼羅(そうら)の声の光を見ていると——白音(しらね)の言葉が別の形をして戻ってくる。


 孤独の色だ、と(かなで)は思った。


 言葉になる前の感覚として、受け取った。誰かと並んでいても届かない色。何百人の前で声を出しても、その声が本当の場所には届かないと知っている色。蒼羅(そうら)は今夜も完璧に歌っている。声の技術は何一つ乱れていない。でもその声の光の奥に、細い橙が混じっている。


 礼堂が満員で、五百人が蒼羅(そうら)の声を聴いていて、それでも蒼羅(そうら)は今夜一人だった。


 (かなで)は篠笛を握り直した。


 手の中の感触を確かめた。革の傷跡の感触を。父が削り出した形の感触を。


 蒼羅(そうら)の声が続いている。礼堂の天井に白銀の光が満ちている。その光の奥の、細い橙が見えている。


 客席の誰かには、あの橙が見えているだろうか。


 おそらく見えていない。音の技術として聴けば、完璧だった。乱れがない。揺らぎがない。だからこそ、誰も気づかない。でも(かなで)には見えた。ただ、(かなで)には見えてしまう。


 礼堂の空気が変わった。


 一節が終わって次の節に入る瞬間に、蒼羅(そうら)の声の光の色が少しだけ変わった。橙の細い混じりが、一瞬だけ大きくなった。それだけで十分だった。


 蒼羅(そうら)は今、礼堂の全体を感知している。


 声楽を続けながら、会場の状態を把握し続けている。(かなで)にはそれが、声の光の変化として見えた。


 声楽の三節目。礼堂の石壁を声が伝っていく。白銀の光粒が天井から降ってきて、客席の光と混ざり合う。五百人の息遣いが、一つの音として礼堂に存在している。


 (かなで)は緞帳の端から舞台袖の奥を確認した。


 芽吹(めぶき)はまだ戻っていない。


 会場の裏動線を確認している、と蒼羅(そうら)は言っていた。芽吹(めぶき)が戻ってこなければ、何かが起きているということかもしれなかった。あるいは戻ってくる前に、別の何かが始まるかもしれなかった。


 (かなで)蒼羅(そうら)の声を聴いた。


 孤独の色は、まだそこにある。声は途切れない。曲が続く。礼堂が音で満ちていく。


 (かなで)は手の中の篠笛の温度を確かめた。体温と変わらない温度になっていた。


 届かせたい場所は——どこか。


 今この瞬間には、まだ答えがなかった。でも答えは来ると思った。来た時に、体が知っている。


 一つだけ、蒼羅(そうら)の視線が舞台袖に来た。


 曲の転換部——声を一度止めて、次の旋律に入る前の瞬間に、蒼羅(そうら)の目が舞台袖の方を向いた。一秒にも満たない時間だった。客席からは舞台袖が見えない角度だから、誰も気づかない。


 (かなで)と目が合った。


 蒼羅(そうら)の目に、何があったのかは分からなかった。読めなかった。いつものように、読めなかった。でも「見た」という事実だけが確かだった。蒼羅(そうら)は舞台袖を一瞬だけ見て、また客席の方に視線を戻した。次の旋律が始まった。


 (かなで)の手のひらが、また温かくなった。


 来てよかった。そう思った。理由を説明できなかった。でも蒼羅(そうら)の目が舞台袖に来た一瞬に、その感覚があった。蒼羅(そうら)が自分を確認した——今夜の礼堂に、(かなで)がいることを確認した。


 篠笛の管を、指が一度だけなぞった。傷の感触。細くて浅い線。


 蒼羅(そうら)の声が四節目に入った。


 同時に、礼堂の奥から——石壁を伝わってくる音の質が変わった。音楽ではない。構造の音だった。結界石が何かに触れる時の、低い共鳴。


 (かなで)は息を止めた。


 白銀の光粒の中に、今度は別の色が混じりはじめていた。藍でも橙でもない——黒に近い、暗い揺らぎだった。試演会の夜、礼堂の結界が破れる直前に感じた空気に似ていた。


 篠笛を唇に近づけた。


 まだ吹かない。でも、いつでも吹けるように。


 蒼羅(そうら)の声が続いている。礼堂の五百人がその声を聴いている。その誰も、まだ気づいていない。(かなで)だけが、白銀の光の奥に広がりはじめた暗い揺らぎを見ていた。


 向きを、決める。


 今度は、答えがあった。

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