第14話「底の底で、決意が灯る」
本が置かれた。
低くて乾いた音だった。分厚い背表紙が閲覧机の板目に触れる、一度だけの音。奏はその音で顔を上げた。図書館の隅のベンチ、肘掛けに頭を預けたまま眠っていたらしく、頬に木の縁の跡が残っていた。
蒼天が立っていた。
いつものコートに羽織を重ねた格好で、机の表面から右手を離したところだった。本を置いてしまった後の、空になった手。奏を見ていたが、驚いた様子がない。ここにいると知っていた、という立ち方だった。奏がいつここへ来たのか、どれほど眠っていたのかを、訊ねるつもりのない顔だった。
「あなたが今、必要な本だと思います」
それだけ言って、本棚の方へ向かった。
奏は机の上の本に視線を落とした。古い紙の匂いが鼻先にある。図書館に沁みついた埃と木材の気配の中に、ひときわ年代を経た何かの匂いが混じっていた。本の背表紙に、縦書きの文字が刻まれている。「鳴響大陸音楽史 第三巻・星原流の記録」。
その一行が、視界の中で一拍だけ止まった。
◆
図書館に来たのは昨夜のことだった。
寮の部屋で目を閉じて、また開いて、また閉じて、そのうちに廊下へ出ていた。深夜の石畳を歩き、消灯後でも施錠されない図書館に入り、燭台の前のベンチで体を丸めた。いつ眠ったのかは分からない。次に気づいた時には高窓の光が白くなっていて、朝だった。
昨夜、音の光が見えなかった。
笛を吹いた。音は出た。でも橙色の光が、どこにも見えなかった。五歳の頃から当たり前にそこにあったものが、昨夜の部屋には存在しなかった。生まれて初めて味わう種類の空白だった。手の中に笛がある。唇に当てる。音は空気を揺らす。それなのに光がない。音と光が切り離された感覚が、奏には想定外の重さで内側に落ちた。
(帰ってしまえばよかった)
昨夜、何度かそう思った。思う、というより、全身でそれを望んだ時間があった。鳴央の下町。父の工房。南市場の石段の二段目に腰を下ろして、誰にも何も言われずにただ笛を吹いている時間。あそこに戻れば査問委員会はない。帳面を奪われることもない。詠唱符が砕けるたびに教室の三十人の目が一斉にこちらを向くことも、観月祭の夜に方向を見失って庭をさまよったことも、何一つない。ただ音の光を見て、それだけで時間が過ぎていく場所が確かにあった。
でも朝になっていた。
帰っていなかった。「今日一日だけ残る」と決めたわけでもない。気づいたら朝で、窓の外に梢の先が揺れていた。それだけのことが、今は少しだけ不思議だった。
本の表紙を、もう一度見た。
星原流の記録。
◆
表紙を開いた。
図書館の一般書架では一行しか見つからなかった名前が、このページには続いていた。禁書庫の資料の抜粋と思われる文章が、縦書きで静かに並んでいる。蒼天の筆跡ではなかった。もっと古い、誰かの手書きを活字に起こしたような均一さだった。紙の端が微かに波打っている。何十年もの湿気を吸ってきた紙の、頑固な波打ちだった。
「星原流の魔奏の特徴として記録に残るものは、以下の三点である」
一。音に光を見る能力。感覚的な知覚として音を色と形で受け取り、視覚的な光として処理する共感覚的な能力。この能力を持つ者は音の出力を「見て」制御するため、通常の詠唱符による測定では出力量が過剰に計測される場合がある。
指先に力が入った。
詠唱符が三枚砕けた。「三枚とも同じ箇所から」と芽吹は言った。量ではなく方向の問題だと言った。あの時の言葉が今ここで全部違う形をして戻ってきた。同じことを言っていた。ただ向きが違っていた——外側からではなく、内側から照らされた形で。
読み続けた。
二。天鳴流と詠星流の双方の属性を同時に扱う能力。通常の奏者は一方の系統の出力のみを持つが、星原流の記録によれば当該の奏者は金色と白銀の両方の光を同時に発現させる事例が複数確認されている。
試演会の夜を思った。
ホールの天井を満たした光。金と白銀が螺旋を描きながら混ざり合い、消えていったあの色。典礼堂の判定の日に88の紋章が全部光った瞬間。市場で鳴蟲を鎮めた時の、橙だったはずの光がいつの間にか変わっていたこと。全部が、この二行の中にあった。全部が、このページに先に書かれていた。
三。星脈系統の詠唱符との非互換性。星原流の出力は既存の詠唱符の系統設計に適合しないため、接触した際に詠唱符の損壊が生じることが記録されている。
指が、微かに震えた。
奏は本を閉じた。それから開いた。また閉じた。膝の上の本の重みだけが確かだった。机の木の年輪が指の腹に当たっている感触が確かだった。それ以外が、少しの間、確かでなかった。
(自分が、これなのか)
問いの先に何があるのかが分からなかった。星原流の末裔であることが何を意味するのか、何が変わるのか、何が求められるのか——全部が、分からないままページはそこにある。でも「書いてあることが全部違う」とも思えなかった。一点の例外もなく、全て当てはまった。
窓の外で梢が揺れた。朝が進んでいた。
◆
「星宮さん」
声がして、顔を上げた。
芽吹が来ていた。
本棚の列の端に立っていた。白の寝間着の上にコートを羽織った格好で、足元は室内履きのままだった。石の床の冷気が、薄い布越しに足裏まで来ているはずだった。顔色が白い。いつもより白い。眼鏡の奥の目が奏を見ていた。昨日、医務室のベッドに横たわっていたはずの芽吹が、今は図書館の入口近くに立っている。
「安静のはずでは」
「出てきました」と芽吹は言った。
声がいつもより低く、少しかすれていた。一日分の安静が足りていない声だった。でも足取りは安定していた。本棚の端から入ってきて、奏のそばの椅子を引いた。腰を下ろして、膝の上に手を置き、奏を正面から見た。コートの前を一度だけ直す動作があって、それで終わった。
「なぜ来たんですか」
「あなたが逃げようとしているように見えたので」
奏は答えなかった。
「違いますか」と芽吹は聞いた。否定も肯定も求めていない問い方だった。確認の声だった。
「……違わない、と思う」
「そうですか」
感情の色がなかった。ただ受け取った声だった。芽吹はコートの内側から小ぶりの帳面を取り出した。消えた帳面ではなく、補助用の小さいほうだった。表紙に折り目がついている。急いで持ってきた帳面だった。
「大演奏会は二週間後です」
奏は少し驚いて芽吹を見た。
「日程と会場を確認しました。試演会の結界破壊は、大演奏会に向けた前哨戦だったと考えています。同じ手法を、より大きな規模で実行する可能性がある」
「より大きな、というのは」
「試演会は西棟コンサートホールで、収容人数が三百人ほど。大演奏会は学院全体を使います。外部来賓を含めると、総数が五百を超える可能性があります」
五百という数字が落ちた。
試演会では白音が転んでいた。ホールに三体の鳴影獣が出た。三百人が混乱した。それが二倍近くになる。外部の来賓もいる。学院の外の人間が、鳴影獣と同じ空間にいる。
「病人が来ていいのか」と奏は言った。
「来ました」と芽吹は返した。
それだけだった。理由を付け加えなかった。ただ来た、という事実だけが、芽吹の姿勢の中にあった。室内履きのまま石の床の上に座っていることが、その事実の続きだった。
「私は証拠を探し続けます」と芽吹は続けた。「帳面は消えましたが、記憶は消えていない。別の形で記録します。候補者の絞り込みをやり直す。それが私にできることです」
奏は芽吹の言葉の輪郭を、一つずつたどった。
「あなたは、あなたにしかできないことをしてください」
「あなたにしかできないこと」
「星原流の魔奏です」芽吹は奏の手元の本を一度だけ見てから、奏の顔に戻った。「教科書に載っていない。私の帳面にも記録がない。でもあなたは試演会でやった。もう一度できるはずです」
奏は床の白い帯を見た。窓から差し込む光の帯が、少しだけ移動していた。時間が経っている。
(白音が、今日もここにいる)
(芽吹が、こんな状態で来た)
(蒼羅が、本当のことを言わないまま距離を置いた。それでも距離を置いた)
(蒼天が、本を置いていった)
奏は顔を上げた。
「教えてほしいことがある」
芽吹が少しだけ目を細めた。
「誰に」
「蒼天さんに」
◆
芽吹は医務室に戻った。
戻る前に「急がなくていい」と言った。急がなくていい、でも二週間しかない。その二つが矛盾していないことを芽吹は説明しなかった。奏にも説明は要らなかった。急ぐことと、焦ることは別だ。
蒼天は本棚の奥にいた。
棚の一段一段を確かめながら本を収める作業を続けていた。右手が一冊を受け取り、背表紙を読み、迷わず収める。次の一冊。また次の一冊。奏が近づくと手が止まり、一冊を棚に収めてから振り返った。
「読みましたか」
「はい」
「どうでしたか」
奏はすぐに答えなかった。
「どうだった」という問いの重さが、一言で返せる質ではなかった。書いてあったことが全部自分に当てはまった。詠唱符が砕けたことも、音に光が見えることも、金と白銀の混合色も、全部だった。全部が一冊の本の中に既に書かれていて、奏という人間が生まれる前から存在していた。
「全部、当てはまりました」
蒼天は答えなかった。
代わりにまた本棚に向かった。次の一冊を手に取り、背表紙を確かめ、収めるべき棚の段を探す。いつもの動作。何も変わっていない。でも奏には、その一連の動きが少しだけ違って見えた。水面の波紋が静まるような、ごく小さな変化だった。何かが、落ち着いた。その変化に名前をつけることはできなかった。
「教えてほしいことがあります」と奏は言った。
蒼天の手が、一冊を持ったまま止まった。
「全部じゃなくていい」と奏は続けた。「今の私に必要なことだけ。大演奏会まで二週間あります。試演会の時にやったことを、意図して再現したい。そのために——」
声が少し揺れた。
揺れたことに気づいて、一拍だけ間を置いた。
「そのために、何から始めればいいか。教えてほしいです」
蒼天は振り返らなかった。
本を棚に収める音がした。次の一冊を引き出す音がした。手が動き続けていた。奏は待った。返事が来ないなら来ないで、それはそういう意味だと受け取るつもりで待った。
「……では、まず一つ」
声が来た。
蒼天が振り返った。手に本を持ったまま、奏を見た。さっきまでと変わらない顔。穏やかで、静かで、何も動かない顔。変わっているとしたら、奏には分からない場所で変わっていた。
「こちらへ」
蒼天が歩き出した。
司書室に続く廊下を抜けて、その手前の閲覧机の前で止まった。本を一冊、机の上に広げた。奏が並んで立つと、ページを開いた。図と文字が混在するページが現れた。星脈の流れを模式的に示した図だった。中央から外側へ向かって放射状に広がる矢印の群が、紙の上に描かれている。矢印の先が全部、外を向いていた。どれ一つとして内側を向いていない。
「あなたが試演会でやったことを」と蒼天は言った。「もう一度言葉にしてみてください。どんな言葉でもいい」
「鎮める音を、吹こうとしました」
「鎮める」と蒼天は繰り返した。
「でもそれだけじゃなかった。音の光の向きを変えようとした。向きが変わると、届く場所が変わる。そういう感覚がありました」
「向き」と蒼天はもう一度繰り返した。帳面に書き留めるのでなく、その言葉を一度だけ、静かに空気に置いた。「出力の向きを変えることと、量を変えることは、まったく別のことです」
「詠星流でも天鳴流でも、そういう概念は」
「ありません」と蒼天は言った。「どちらの流派も、出力の量と精度を制御することを技術の中心に置いています。向きを変えるという概念は、どちらの教科書にも載っていない」
「じゃあ、どこに」
蒼天は図のページを指でなぞった。放射状の矢印の一つを、爪の先でそっとなぞった。中央から外へ向かう矢印だった。押し出す感覚ではなく、広がる感覚を描いている形。教科書に描かれていた星脈の図は、縦か横か、どこかひとつの方向に強く押し出す形をしていた。でもこの図の矢印は波に似ていた。打ち寄せるのではなく、引き潮のように広がっていく形。
「星原流の記録の中だけに」
奏は図を見た。
「今日は一つだけ」と蒼天は言った。「出力する前に、広がる方向を意識すること。量ではなく、方向を。向きを。どちらに届かせたいかを、音を出す前に決めること。それだけを今日は試してみてください」
「試せますか、今日から」
「いつでも」
本を閉じる音がした。蒼天が本を脇に抱えた。閲覧机から離れて、書棚の方へ歩き始めた。司書室に戻る時の足取りだった。
「ありがとうございます」と奏は言った。
蒼天が足を止めた。
振り返りはしなかった。
「いいえ」
それだけだった。
奏はその「いいえ」を、しばらく持っていた。礼を断った声ではなかった。もっと別の何かを静かに否定した声だった。何を否定したのか分からなかった。でも「全然分からなかった」とも言い切れなかった。
蒼天の背中が書棚の影に消えていくのを見ながら、奏は閲覧机の上に広げられたままの図を一度だけ見た。放射状の矢印が、紙の上で静かに広がっている。中央から全方向へ、等しく、ゆっくり。
◆
図書館を出ると、渡り廊下に春の風が通っていた。
暖かかった。昨夜より確実に暖かかった。季節が進んだのか、奏の体温が上がっただけなのか、判断できない。でも昨夜の廊下にあった底冷えはなかった。
手のひらを開いた。
昨夜、笛を吹いて光が見えなかった手。今朝は熱くも冷たくもない。ただの手だった。傷もなく、跡もなく、父の工房で篠竹を何年も握ってきた跡だけが指の腹の硬さとして残っている。
(向きを、決める)
その一語を、頭の中で転がした。量ではなく方向を。音を出す前に、どちらに届かせたいかを。
試演会の夜は考えていなかった。白音のところに走ったあの時、方向を選んだ記憶がない。ただ体が動いて、音が出て、光が広がった。でも今なら分かる気がした——あの時、奏の中にあったのは、意図でも計算でもなく、「白音のところへ」という一点だけだった。届かせたい場所が、あの夜はひとつしかなかった。
届かせたい場所を決める。
それが技術になりうるかどうかは、まだ分からない。でも芽吹が「できるはずです」と言った。芽吹が「できるはず」と言う時は、大抵あっている。
渡り廊下の石が靴底を通じて伝わってくる。一枚一枚の、目地の感触。昨夜はなかった感触だった。足が、ちゃんと地面を踏んでいる。
大演奏会まで二週間。
逃げなかった朝が今日あって、その朝に本があって、蒼天が「まず一つ」と言って、芽吹が医務室から出てきた。それだけのことが今日という一日を作っていた。
明日の一日が来るかどうかは、まだ分からない。
でも今日の一日は、始まっていた。




