第13話「全てを失う夜」
芽吹が目を覚ましたのは、分かった。
奏には見えていた。医務室のベッドの上で、芽吹の手が掛け布の端をゆっくりと引き寄せるのが。奏は自分が椅子の背もたれに頭を預けたままであることに気づいて、体を起こした。背中が痛かった。医務室の椅子は背が高くて硬くて、長時間座るようにはできていなかった。
「……起こしてしまいましたか」
芽吹の声が医務室の空気の底を這うように来た。大きく出すまいとした声だった。
「眠れてなかった」と奏は言った。
嘘だった。眠れていたと思う。目を閉じた記憶があって、目を開けたら朝だった。二点の間の時間が、すっぽりと抜けていた。夢も見なかった。何も見なかった。
白音がドアのそばに立っていた。
コートを着たままだった。腕を胸の前で組んで、ドアの木目をどこか遠い目で見ていた。目が赤かった。眠れなかったのか、泣いていたのか、その両方なのか、奏には分からなかった。白音は奏と目が合うと、ゆっくりと廊下の方に顔を向けた。
「芽吹、起きた」と白音は廊下に向かって言った。
誰かに告げる声だった。
◆
禁書庫を出た翌朝、芽吹は食堂で倒れた。
朝食の最中のことだ。白音と三人で粥を食べていた。芽吹は左手で帳面を持ったまま、奏に「東域出身者の絞り込みについて確認したいことがある」と言いかけて、椅子から傾いだ。声を上げなかった。ただ静かに、重力に従うように横に傾いた。
奏は反射的に腕を伸ばして芽吹の肩を支えた。帳面が床に落ちた。白音が立ち上がる前に、芽吹はすでに意識がなかった。周囲の生徒が振り返った頃には、奏が芽吹を抱えて「誰か医務室を」と言っていた。
医師の診断は「禁書庫での過剰な精神的負荷と、外部からの軽度の星脈干渉」だった。閉じ込められていた間に、禁書庫の外から何らかの魔奏が放たれていた痕跡が芽吹の星脈の中に残っていた。命には別状ない。ただ一週間は安静が必要だと言われた。
奏は医務室を離れなかった。
白音も来た。それ以外の時間に何があったか、奏には記録がない。どの授業があったか、食堂で何を食べたか、廊下で誰とすれ違ったか。医務室の椅子の背の木の硬さと、芽吹の規則的な呼吸の音だけが、その時間に確かなものとして残った。
芽吹の父のことは、白音には言わなかった。
なぜ言わなかったかは説明できなかった。芽吹が望まないと思ったのかもしれない。あるいは、言葉にすることで何かが動き出す気がして、今はまだそれをしてはいけないと感じたのかもしれない。禁書庫で読んだ申請書の一行「申請者:穂音一貴」という文字の意味が、奏の中でまだ全部つながっていなかった。つながっていないまま誰かに話せば、つながっていないまま何かが先に進む。
だから黙っていた。白音も聞かなかった。聞かずに隣にいた。それが白音という人間だった。
◆
芽吹が倒れて三日目の昼過ぎ、白音が医務室に戻ってきた時の顔が違った。
扉を閉めてから奏を見た。いつもの白音の顔に、余分なものが混じっていた。
「芽吹の部屋の机の上に帳面があったんだけど」と白音は言った。「なかった」
奏は立ち上がった。
「全部?」
「全部かどうかは分からない。見に行ったら机の上に何もなくて、引き出しにも棚にも」
芽吹のベッドを見た。芽吹は目を閉じていた。眠っているのか起きているのか、その境界は芽吹の場合いつも分かりにくかった。だが目を閉じていても芽吹のことだから、整然と状況を整理しているかもしれなかった。
「三週間分の調査の記録が入ってた」と奏は言った。
「うん」と白音は言った。
二人はしばらく黙った。
東域なまりの声に合致する条件の照合。禁書庫に関わる者の動線。「試演会での混乱を利用する」と誰かが言った夜の記録。芽吹が細かい字でびっしりと書き込んでいた、あの帳面。試演会の前夜に楽譜が消えた時と、同じことが起きていた。
ただ今回は、芽吹がいなかった。
奏は芽吹の顔を見た。安静にしている人間の顔だった。一週間動けない人間の顔だった。その人の調査記録だけが、きれいに消えていた。
◆
その夜、奏の部屋のドアの下から紙が一枚差し込まれていた。
白音が先に気づいた。拾い上げて、奏に差し出した。「誰から?」と聞く前に開いた。細い文字が二行並んでいた。見慣れた字だった。蒼羅の字だった。
「非公式の特訓を一時中断します。あなたに関わることで余計な注目が集まっています。少しの間、距離を置いた方がいい。」
それだけだった。
奏は紙を二度読んだ。三度読んだ。言葉を数えた。三十字ほどだった。署名がなかった。それ以上のことは、どこにもなかった。
(距離を置いた方がいい)
その一行が、他の言葉より重かった。
余計な注目が集まっている、という事実は奏も知っていた。試演会の後から、廊下で奏を見る目が変わった。変わった目の全部が友好的なわけではなかった。それは分かっていた。分かっていたが、特訓のない夜がこれから続くということが、奏には予想していたより深く響いた。
生徒会室の石の床。「もう一度」という声。一拍だけ早かった帰り際の足音。そういった時間が、紙切れ一枚で急になくなった。
「大丈夫?」と白音が言った。
「大丈夫だと思う」と奏は言った。
「嘘をつかなくていいよ」
奏は返事をしなかった。
◆
翌朝、廊下で冬子が声をかけてきた。
食堂から医務室へ向かう途中だった。曲がり角の手前で、声がした。振り返ると冬子が一人で立っていた。いつもは後輩を二、三人連れている。今日は一人だった。
「少し」と冬子は言った。
奏は止まった。
「査問委員会が再開されます」冬子は奏の正面から言った。感情の色がなかった。事実を述べる声だった。「複数の委員が本件を継続案件として扱う動きがあります。次の審議で退学が確定する可能性が高い」
「そうですか」と奏は言った。
「自分から申し出た方が」と冬子は言いかけて、一拍置いた。「理事長の……」
そこで止まった。
奏は待った。
廊下に沈黙が落ちた。冬子の目が一点を見て、動かなくなった。廊下の先の石壁の、どこか特定の点を見ていた。見ている、というより考えている目だった。何かを言いかけて、その言葉の行き先に何かが待っていて、立ち止まった人間の顔だった。
「……余計なことを言いました」
冬子は言った。目を奏に戻す。感情の色は戻ってきていなかった。「失礼しました」と言って向きを変えた。帯の脇の尺八が揺れる。足音が廊下を遠ざかり、曲がり角の向こうに消えた。
奏は曲がり角の手前で、しばらく立っていた。
冬子が言いかけた言葉の続きが、宙に浮いていた。「理事長の」の先に来るはずだった言葉が、届かなかった。言うべきでないと判断した止め方だ。それだけは分かる。
奏は足を動かした。
医務室への廊下を歩きながら、石畳の目地を数えた。数えても何も解決しなかった。ただ数えていた。
◆
その夜、白音が先に眠った。
「おやすみ」と白音は言った。「奏も早く寝てね」
「うん」と奏は返した。
壁の向こうで白音の気配が静かになった。規則正しい呼吸の音が来た。
奏は机の前に座った。
帳面が消えた。蒼羅のメモが届いた。芽吹は一週間安静だ。調査の記録はない。特訓もない。査問委員会が再開される。全部が三日の中に並んでいた。一つひとつは別々の出来事だったが、並べると同じ方向を向いていた。
奏が学院にいることを、誰かが妨害している。
それは試演会の前から変わらなかった。「判定不能の新入生を計算に入れろ」という声は、奏が入学した頃から奏を道具として扱っていた。でも今は、道具として使いたいのか排除したいのか、どちらとも判断できなかった。分からないまま追い詰められていく感覚だけがあった。
(帰ってしまえばいい)
思った。
鳴央の下町。父の工房の煙突。石段の二段目で笛を吹いていた南市場。あそこに戻れば、誰も追い詰めてこない。詠唱符を砕く必要がない。査問委員会も、禁書庫の謎も、何もない。ただの楽器職人の娘として毎日笛を吹いて、それで終わる。
(お父さんは大丈夫だから、来なさいと言った)
電文の言葉が戻ってきた。
それ以来、父に手紙を出していなかった。出せなかった。「帰りたい」と書けば父は「来なさい」と返すかもしれない。来なさいと書かれたら、今度こそ帰るかもしれなかった。だから書かなかった。
窓の外を見た。
春の夜の空が、曇っていた。星が見えなかった。どこかの棟の明かりが低く光っているだけで、あとは何もなかった。虫の声も聞こえなかった。
奏は鞄から篠笛ケースを取り出した。
革紐の感触。父が選んだ布の感触。ケースを開くと笛があった。管に傷がついていた。入学した日から変わらない、細くて浅い線。靴底の跡。
笛を取り出した。唇に当て、息を吸う。吹いた。音が出た。篠笛の細い音が、部屋の空気を揺らした。確かに鳴っていた。
でも光がなかった。橙色の光が、どこにも見えない。笛の端から何も出ていかなかった。空気の中には何も触れず、音だけが出た。光は、なかった。
笛を下ろす。唇に当て直した。もう一度吹いた。音は出る。光がなかった。
また笛を下ろした。
机の上に置いた。音を立てないように、ゆっくりと置いた。
月明かりを受けた管の傷が細く光っていた。触ろうとして、手が止まった。もう一度吹いてまた光が見えなかった時に、その後どうすれば良いかが分からなかった。
初めてだった。笛を吹いて、音の光が見えない夜が。
上着を羽織って、部屋を出た。
◆
消灯後の寮の廊下は静かだった。
壁際のランタンが絞られて、石畳の上に低い橙の光が落ちている。奏の影が長く伸びた。どこに行くか決めていなかった。ただ部屋にいられなかった。それだけで廊下に出た。
廊下の奥に、人影があった。
白音だった。
後ろ姿で廊下の先を向いて、一人で立っていた。
奏は「白音」と呼ぼうとした。
声が出なかった。
白音の立ち方が、違った。
普段の白音は少し前のめりに立つ。重心が前にある。どこかへいつでも走り出せるような、そういう立ち方をいつもしていた。でも今の白音は背筋が伸びていた。まっすぐ、丁寧に立っている。視線が廊下の先の石壁のどこかへ向いていた。白音の目がそこへ向く理由を奏は思いつかなかった。白音がそういう目で何かを見ている場面を、今まで一度も見たことがない。
「白音?」
呼んでいた。声が出ていた。
振り返った白音は、いつもの笑顔だった。
「あれ、奏。どうしたの、こんな時間に」
「眠れなくて」
「あー、私もちょっとね。廊下に出てた」と白音は言って、奏の方へ歩いてきた。「一緒に戻ろっか」
「うん」
並んで歩き出した。白音の足音が隣で続いた。軽くて少し急いでいるような、白音の足音だった。奏には何も言えなかった。言うべき言葉が見つからなかった。
ドアの前まで来て、白音が「おやすみ」と言った。
「おやすみ」と奏は返した。
白音が自分の部屋に入って、扉が閉まった。
奏は自分のドアの前に立ったまま、動かなかった。
廊下の先を向いていた白音の後ろ姿が、瞼の内側に残っていた。気のせいかもしれなかった。眠れていなかった。光が見えなかった。そういう夜に何かが違って見えることはある。
でも目が離せなかった。
あの後ろ姿を、まだ目が追い続けていた。
奏は部屋に入った。
机の上に笛がある。月明かりの中で管の傷が光っていた。昨日も一昨日も、変わらずそこにある。傷が。
布団に入った。目を閉じた。
光は見えなかった。




