第12話「禁書庫の罠」
扉が開いた瞬間、奏は「罠だ」と分かった。
遅かった。
◆
三週間が経っていた。
楽譜が消えた夜から、試演会から、査問委員会から、特訓が再開されてから。その全部を一本の線でつなぐと、芽吹の帳面に書かれた候補者名が浮かび上がる。東域なまり。学院の職員か関係者。結界管理の権限がある者。その三つの条件が交差する場所に、名前が二つあった。
「確証がほしい」と芽吹は言った。
深夜の図書館で、奏の正面に座って帳面を開きながら。いつものように、感情を排した声だった。「状況証拠では不十分です。禁書庫に関連した記録——具体的には結界管理の権限者名簿と、過去の特別許可記録を確認したい」
「禁書庫に入るんですか」
「入ることはしません」と芽吹は言った。「禁書庫の外の廊下に、管理台帳が置かれているはずです。一般の書類として」
奏は少しだけ安堵した。禁書庫の前を通るだけ、と聞こえた。廊下に人の声を聞いたあの夜のことが頭の片隅に浮かびはしたが、あの夜と今夜は違う。今夜は目的がある。芽吹が一緒にいる。それだけの違いが、奏の足を動かした。
「蒼天先生は今夜いないんですか」と奏は念のため確かめた。
「司書室に書き置きがありました。別の用事で外に出ていると」
ランタンを一つ借りて、二人で図書館の奥へ向かった。
◆
禁書庫への石段は暗かった。
芽吹が先を行き、奏が続いた。ランタンの光が石壁を橙に染めて、二人の影が揺れながら段を降りる。奏の靴底が石の角をたどるたびに、乾いた音が狭い空間に広がる。下に行くほど空気が重くなった。地下特有の湿りと、古い紙の匂いが混ざった。
芽吹が廊下の突き当たりで立ち止まった。
鉄扉がある。その脇、壁に埋め込まれた棚に一冊の台帳が置かれていた。「施設管理記録・禁書庫区域」と表紙に書いてある。芽吹が手袋をはめながら台帳を開いた。やはり事前に調べていたのか、目的のページをすぐ見つけて、帳面に書き写し始めた。
奏は扉を見た。
厚い鉄の扉。鍵穴が一つ。蒼天の腰帯に提げてある、あの鍵のための穴だ。奏がここに来たのは二度目だった。あの夜、石段の途中から眺めただけで引き返した、あの扉。近くで見ると、扉の継ぎ目に細い溝がある。防音のための加工だ、と奏は直感的に感じた。音が、この扉を越えない。
そこで気づいた。
扉の隙間に、わずかな光が見えた。
「芽吹さん」
「少し待ってください、まだ写し終わっていないので」
「扉が」
芽吹の手が止まった。台帳から顔を上げて、奏の視線の先を見た。
鉄扉の下端から、ほんの薄く、光が漏れている。内側に、光の源がある。施錠されているはずの禁書庫に、誰かがいる——あるいは、誰かが灯りをつけたまま出た——あるいは。
「罠かもしれません」と芽吹は静かに言った。
奏はうなずいた。分かっていた。分かっていながら、扉に手を伸ばした。鉄の取っ手に触れると、わずかに動いた。施錠されていない。誰かが、外から開けておいた。
「入るんですか」と芽吹が聞いた。
「入ったら罠にはまる、と分かった上で」と奏は言った。「中に何があるかだけ、確かめたい」
一拍の沈黙があった。芽吹が台帳を閉じ、棚に戻した。
「分かりました」と言って、帳面をコートの内側に収めた。「ただし、入ったら迅速に動くこと。私が言ったことだけを確認したら、すぐ出る」
「うん」
奏が扉を押した。
◆
禁書庫の内部は、思ったより広かった。
地下に広がる矩形の空間。天井が低く、壁一面に本棚が並んでいる。一般の図書館とは違う棚の作りをしていた。扉のない棚に、表紙のない書物が立てかけられている。木箱に収まった巻物がある。布に包まれた何かが積み重なっている。灯りは内側の柱に提灯が一つ掛けられていて、揺れながら橙の光を出していた。
誰もいなかった。
「罠を仕掛けて、待っているわけではないんですね」と芽吹は言った。「仕掛けたまま、出ていった」
「閉じ込めるための罠、ということ?」
「その可能性があります」
芽吹は棚の間を歩き始めた。迷いがない。目的地が決まっているような、真っ直ぐな動き方をしていた。奏は後ろからついた。ランタンを持つ手に、じわりと力が入った。
棚の奥、右の壁際に木箱が並んでいた。三段積みになった箱の、一番上。芽吹が手を伸ばして木箱を引いた。蓋を開けると、冊子が三つ入っていた。表紙に「星脈改竄申請書・保管原本・第一二〜一四年度」と書いてある。
芽吹の動きが止まった。
止まった、というより、固まった。
木箱の中の冊子を見たまま、指が動かなくなった。奏には芽吹の横顔しか見えなかった。眼鏡のレンズに提灯の光が反射して、表情が読めない。それでも分かった。芽吹が今、普段の顔をしていない。
「芽吹?」
答えがなかった。
数秒が経った。芽吹の指が動いた。木箱から冊子を一つだけ取り出した。表紙を確かめて、ページを開いた。
最初のページを見た。二ページ目をめくった。奏が後ろから覗き込もうとした時、ページの中ほどに書かれた文字が見えた。「申請者:穂音一貴」という名前と、その下に続く記述が。芽吹の苗字と同じ漢字だった。
奏は声を出さなかった。
出せなかった、というより、出すべきでないと感じた。
芽吹が三ページ目をめくる。奏は息を殺した。ランタンの炎が揺れた。どこかから空気が来ているらしく、提灯の光が規則的に傾いた。芽吹はページをめくる手を止めて、一点を読んでいた。目が動かない。
その静止が、何かを読んでいる人間の静止ではなかった。
何かを受け取っている人間の、静止だった。
「芽吹さん」
奏はもう一度呼んだ。今度は少しだけ声を落として。
芽吹は振り返らなかった。ページに視線を落としたまま、「少し待ってください」と言った。いつもより声が低かった。それだけが、普段と違っていた。
◆
音がした。
扉の方から来た。
金属の、重い音。鍵穴に差し込まれて回される音。奏には分かった。あの扉が今、外から施錠された。
芽吹も気づいた。冊子を閉じた。木箱に戻した。立ち上がって、扉の方を向いた。二人は棚の間から出て、扉の前に立った。
「出してください」
奏が言った。
届かなかった。
扉の向こうに音が消えていく感触があった。奏の声が、扉の表面に当たって、止まる。防音の加工が、内側からも外側からも、音を通さない。「出してください」という言葉が、禁書庫の空気に溶けた。
廊下に届かなかった。
奏は扉を叩いた。手のひらで、一度、二度。鉄の冷たさが手に刺さった。音は出るが、この音も届かないと分かっていた。叩きながら分かっていた。
「やめてください」と芽吹が言った。
「でも」
「無意味です」芽吹の声は落ち着いていた。「防音の結界が内外双方に施されているなら、いかなる音も通り抜けません。エネルギーの消費を抑えてください」
奏は手を止めた。
扉を見た。鉄の表面を、ランタンの光が橙に染めている。継ぎ目の溝。鍵穴。その向こうに廊下があって、石段があって、図書館があって、学院がある。でも今夜、その全部は奏の声が届かない場所にある。
「記録を先に確認しましょう」と芽吹は言った。
奏は振り返った。
「え」
「ここまで来たのだから」芽吹は木箱の方へ歩き出した。「閉じ込められた時間を無駄にする理由はありません」
奏はその背中を見た。
冷静だった。怖がっていないのか、怖がっていても顔に出さないのか、奏には判断できなかった。どちらにしても、芽吹の足は止まらなかった。木箱の前に戻って、さっき閉じた冊子を再び取り出した。
奏も棚の間に戻った。
芽吹の隣に立って、開かれたページを一緒に見た。
◆
「申請者:穂音一貴」という名前のある行の下に、申請の内容が縦書きで続いていた。
「対象者の星脈に施されている封印の強化を依頼する。申請理由:対象者の安全確保のため」
奏はその一行を読んだ。もう一度読んだ。
「安全確保のため」という言葉が、読むたびに形を変えた。なぜ安全確保が「封印の強化」につながるのか。封印とは何か。封印されているのが誰なのか。対象者の名前は——次の行にあった。
読んだ。
奏には知らない名前に見えた。聞いたことはあった気がするが、誰のことかすぐには分からなかった。どこかの家の、どこかの人の名前らしい漢字が並んでいた。
「……私の父が」と芽吹が言った。
言いかけて、止まった。
それだけだった。奏は芽吹の横顔を見た。芽吹は申請書のページを見たまま動かない。眼鏡の奥の目が、文字の上で止まっていた。文字を読んでいるのか、もうすでに全部を受け取ってしまって、ただそこに視線が置かれているだけなのか、判断できなかった。
「芽吹さん」
「……最初に封印したのは」と芽吹は言った。声が、微かに変わっていた。ほんのわずか、質が変わった。芽吹が感情を持っている、と奏が初めて体で感じた瞬間だった。「別の誰かで。父は——強化しようとした。つまり」
一拍。
「守ろうとした」
その言葉が、禁書庫の空気に落ちた。反響しなかった。防音の空間の中で、音は生まれた場所に留まる。芽吹の言葉も、二人の間にだけあった。
「あなたを守ろうとした、ということ」芽吹がもう一度言った。「私の父が」
奏は返す言葉を探した。
見つからなかった。芽吹の父が奏の何を守ろうとしたのか、その「封印」が何を意味するのか、今夜の奏にはまだ全部が繋がっていなかった。対象者の名前が誰なのかも、どうして芽吹の父がそこに関わっているのかも。
ただ、芽吹が今、普段の顔をしていないことだけは分かった。
芽吹は冊子を閉じた。ゆっくりと、丁寧に閉じた。木箱に戻して、蓋をした。その一つひとつの動作が、いつもの芽吹とわずかに違っていた。正確さは変わらないが、速度が違った。慎重さの質が違った。
「次を確認します」と芽吹は言った。
いつもの声に戻っていた。奏は「うん」と言って、並んで棚の間を歩いた。
◆
音が来た。
施錠が解除される音だった。鍵穴に差し込まれた鍵が回る、あの音。今度は逆方向に。
奏と芽吹は同時に扉の方を向いた。
扉が開いた。
ランタンの光が外から差し込んできた。廊下の薄暗さが禁書庫の内側に流れ込んで、二つの光源がぶつかり合う。
蒼天が立っていた。
コートの上にもう一枚、夜の外出用の羽織を重ねていた。右手にランタンを持って、左手に何も持っていない。表情は、いつもの蒼天だった。穏やかで、静かで、何も驚いていない顔。「別の用事で外に出ている」はずの蒼天が、今夜この場所に来ている事実を、その顔は何も説明しなかった。
「……二人とも、怪我はありませんか」
奏は首を振った。
「ありません」と芽吹が言った。
蒼天は廊下を一度確かめた。奥を見て、石段の方を見て、また禁書庫の内側に視線を戻した。何かを確認しているのか、何かを探しているのか、その動き方の意味を奏は読めなかった。蒼天の目が、木箱の積まれた棚の方向を向いた気がした。一拍だけ。すぐに扉の方に戻った。
芽吹が口を開いた。
「これを」
蒼天を見て、一歩だけ歩いた。「読んでいいですか」
蒼天の顔が、初めて少しだけ動いた。
感情の色、とは言えなかった。何かを考えている動きに見えた。芽吹を見ていた。芽吹が持っている冊子——いや、芽吹はもう冊子を木箱に戻していた。持っていない。それでも芽吹の言葉の意味は、伝わっていると奏には分かった。蒼天には伝わっていた。何について問われているかが。
蒼天は少しの間、芽吹を見ていた。
その「少しの間」が、蒼天にしては長かった。
「今夜は持って出ないでください」と蒼天は言った。
「はい」と芽吹が答えた。
「ただ——読む分には、止めません」
廊下に沈黙が落ちた。
奏はその言葉の輪郭を追った。止めない。それは「認める」ではなく「止めない」という言い方だった。積極的な許可でなく、阻まないという消極的な許可。その違いが何を意味するのか、奏には分からなかった。でも蒼天がその言い方を選んだことは分かった。別の言い方ができたのに、その言い方を選んだ。
芽吹は「分かりました」とだけ言った。
何も付け加えなかった。感謝も、確認も、質問も。分かりました、それだけで終わらせた。
三人で禁書庫を出た。蒼天が扉を閉めて施錠した。鍵が回る音が廊下に響いた。石段を上がる三人の足音が、順番に奏の耳に届いた。蒼天が先で、芽吹が続いて、奏が最後だった。
◆
図書館を出て、奏と芽吹は寮への渡り廊下を歩いた。
蒼天は図書館の内側に残った。「少し片付けをします」と言って、橙のランタンが本棚の影に消えていった。
渡り廊下に春の夜の空気が入ってきていた。
奏の横で、芽吹は一言も話さなかった。
渡り廊下を抜けて、寮棟に入った。石畳が板張りに変わる感触が靴底に届いた。廊下のランタンが等間隔で灯されていて、足元に規則的な影を作っている。芽吹の足音が奏の前を行く。均一で、正確な歩幅。いつもの芽吹の歩き方だった。でも今夜はその歩き方に、何か別のものが混じっていた。
寮棟の廊下の途中で、芽吹が立ち止まった。
奏も止まった。
芽吹は少しの間、前を向いていた。廊下の先を見ているのか、どこも見ていないのか判然としない。ランタンの光が眼鏡のレンズに当たって、目の表情が読めなかった。
「……星宮さん」
「うん」
「私の父は——」
言葉が続かなかった。
奏は待った。来るか来ないか分からない続きを、呼吸を整えながら待った。芽吹の横顔が、ほんのわずかだけ歪んだ気がした。気がしただけで、次の瞬間には元に戻っていた。
「今夜は、ごめんなさい」
それだけだった。
「謝らなくていいよ」と奏は言った。
何に対しての謝罪か、完全には分からなかった。禁書庫に入ったことへの謝罪なのか、父の名前を見つけてしまったことへの謝罪なのか、奏にはまだ全部が繋がらないまま、それでも「謝らなくていい」という言葉だけは確信を持って出てきた。
芽吹は小さくうなずいた。
それから前を向いて、また歩き出す。奏も続いた。
廊下の先に、それぞれの扉があった。分岐点で芽吹が「おやすみなさい」と言った。奏が「おやすみ」と返した。それだけだった。芽吹の扉が閉まる音がして、廊下が静かになった。
奏は自分の扉の前に立った。
手のひらがまだ、鉄扉の冷たさを覚えていた。叩いた時の感触が。届かなかった音の感触が。
(芽吹さんの父が)
頭の中でその言葉を転がした。申請書の文字列が浮かんでくる。「安全確保のため」という申請理由が。封印を強化しようとした人間の名前が。
対象者の名前は——読んだはずなのに、すでにおぼろになっていた。知らない人の名前は、印象に残りにくい。奏には関係のない名前だったから、漢字の形だけが薄く残っていた。
(誰だったんだろう)
そのことを少しだけ考えて、やめた。
今夜分かったことは一つだった。芽吹の父が、誰かの封印を強化しようとしていた。その誰かを守るために。守ろうとした対象と、守ろうとした理由は、まだ見えていない。
でも芽吹が今夜、「ごめんなさい」と言った。
謝らなくていい、と奏は思った。もう一度、今度は声に出さずに思った。
謝るべき事情が芽吹にあるとすれば、それは芽吹自身が選んだことではない。父が選んだことで、芽吹はそれを知らなかった。知らないことへの謝罪は、誰にもできない。
でも謝った。
それが今夜の芽吹にとって、唯一できることだったのかもしれない。
扉を開けた。
白音の寝息が壁の向こうから聞こえてきた。規則的で、深い。良く眠っている。奏はそっと上着を脱いで、机の前に座った。ランタンの灯りを絞った。
手のひらを見た。
冷たさが、まだそこにあった。
禁書庫の扉の鉄の感触と、芽吹の「ごめんなさい」と、蒼天の「止めません」という言葉が、今夜の残滓として奏の中に残っている。答えではない。手がかりではあった。でも謎も増えた。
でも今夜、芽吹と奏の間にある何かが、少しだけ変わった。
何が変わったかを奏は言語化できなかった。ただ、芽吹が今夜の廊下で「私の父は——」と言いかけた、あの一秒を、奏は長い間、忘れないだろうと思った。
理由もなく、そう思った。
春の虫の声が、寮の外で鳴き続けていた。




