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詠星学院の魔奏歌姫~星脈の秘め事と少女たちの嘘~  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)
第一部 第1章「星脈の少女たち」

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12/22

第11話「生徒会室の秘密特訓」

 「もう一度やってみなさい」


 床が冷たかった。


 石敷きの床。高窓から月光が差し込んで、生徒会室に長い矩形を作っている。その端に(かなで)は横たわっていた。背中の奥が鈍く疼く——右の肩甲骨の裏。三回目か四回目か、数えるのをやめた頃にまた転んだ。


「倒れたまま指示を仰ぐのは、詠星流(えいせいりゅう)でも天鳴流(てんめいりゅう)でも、どこの流派でもありません」


 蒼羅(そうら)の声は変わらなかった。感情の振れがない。昼の査問室でも今夜のこの部屋でも廊下でも、いつも同じ質の声で話す人だった。


 奏は起き上がった。


 ◆


 三日前のことを、もう一度たどる。


 監視付き残留の通知を受け取ったその夜、寮の部屋で一時間ほど過ごした頃、扉を二度規則的に叩く音がした。白音(しらね)はいない。どこかで誰かと話し込んでいるらしく、部屋は静かだった。


「少し時間をもらえますか」


 蒼羅だった。感情のない申し出。奏は「はい」と答えた。


 生徒会室は東棟の三階にある。遅い時間で廊下に人はなく、二人分の足音が石畳に響いた。蒼羅は二歩先を歩いていた。振り返らない。奏は蒼羅の背中の、真っ直ぐな線を見ながらついていった。凛とした背中。疲れを見せない歩き方。ランタンの光がその横顔を切り取って、また闇に戻す。


 部屋に入ると蒼羅は窓側に立ってから向き直った。


「あなたに非公式の特訓を提案します」


「非公式の」


「学院の公式カリキュラムには存在しない訓練です」と蒼羅は続けた。「目的は一つ。あなたが試演会で行ったことを、意図的に再現できるようにすること」


「できるかどうか分かりません」


「分からないからやります」


 論理の順番が逆だった。奏なら「分からないからやらない」と考えるところを、蒼羅は「だからこそやる」に変えた。


「蒼羅さんにとって、私を訓練するメリットは何ですか」


 少しだけ間があった。


「制御不能の魔奏(まそう)を持つ生徒が学院内にいることは、リスクです」と蒼羅は言った。「私の判断です」


 それで終わりだった。質問を受け付けない声の形。続きを奏が言い出す前に、蒼羅はすでに資料を開いていた。


 翌日から特訓が始まった。


 ◆


 訓練の内容はシンプルだった。シンプルすぎて、手がかりがなかった。


篠笛(しのぶえ)で一節吹いてください。詠唱符(えいしょうふ)は使いません」


 吹いた。


「もう一度」


 吹いた。


「今のとさっきで、何が違いましたか」


 分からなかった。どちらも同じように吹いた。見えた光の色も橙色で変わらず、手のひらの温度も同じ。


「違います」と蒼羅は言った。「三回目を」


「何が違うんですか」


「それを見つけることが訓練です」


 そういう夜が三回続いた。


 奏が一節吹くたびに蒼羅は黙って聞いた。ときどき「もう一度」と言い、ときどき「違います」と言い、ときどき「再度」と言った。どれが正解に近くてどれが遠いかを、教えなかった。


 (どこが違うかも分からない)


 口には出さなかった。言ったところで「見つけなさい」と返ってくるだけだという確信があったから。


 三回目の夜、奏は転んだ。


 試演会の出力を再現しようとした瞬間、力のコントロールを失って吹っ飛んだ。天井が見えた。背中が床に当たり、肺の空気が一瞬だけ消えた。冷たい石の感触が背中から骨まで伝わってきて、しばらく動けなかった。


「もう一度やってみなさい」


「倒れたまま指示を仰ぐのは、詠星流でも天鳴流でも、どこの流派でもありません」


 奏は起き上がった。膝をついて、片足を立て、体重を前に移す。ゆっくり立ち上がる。肩甲骨の裏が鈍く疼き、右の手のひらがじわりと熱い。昨日の傷が残っている場所とは別のところが、また燃えていた。


 蒼羅が近づいた。距離を詰めたわけではなく、三歩だけ近くなった。奏の手元を見ている——篠笛を持つ指の形を確かめるような、静かな目の動き方だった。


「出力の前に、何を考えていましたか」


「音の光の色を……向きを、合わせようとしました」


「合わせた先は」


「炎が来る方向でなく、軌道の端の方に」


 蒼羅は少しだけ黙った。


「それは意図を持っていると言えます」と蒼羅は言った。「型はなくても、意図がある。それを繰り返せるかどうかが問題です」


「どうやって繰り返すか、が分からないんです」


「あなたは試演会で一度やった。やれたことは、やれるということです」


「でも——あの時は」


「あの時は白音さんが転んでいた」


 蒼羅が先に言った。奏が言おうとしていた言葉を。


 黙った。


 「やれたことはやれる」という言葉が正しいかどうか分からなかった。でも蒼羅が「白音さんが転んでいた」と言った時、その声の質がほんの少しだけ変わった——変わった、というより、あの夜の星脈典礼堂せいみゃくてんれいどうで何が起きたかを正確に知っている者の声だった。


「もう一度」


 また訓練に戻った。


 ◆


 四回目の夜に、蒼羅が黙った。


 奏が一節吹いた後のことだった。次の「もう一度」が来ない。蒼羅は窓の方を向いて、手のひらをわずかに持ち上げていた。月光の中に手をかざすように、でも月を見ているのではなく、空気の中にある何かに触れようとしている——何かを感知する時の動作だった。


 しばらくそのままだった。


 奏も音を止めて待った。夜の生徒会室に、ランタンが揺れる音だけが残る。外の木々が揺れているらしく、窓の枠から細い風が入ってきた。


「あなたの音は……光の色が変わります」


「見えるんですか? 音の色が」


「見える、というよりは——感じます」


 蒼羅の声の調子が少しだけ変わった。教えるでも問うでもない、確かめる声。「天鳴流の感知技術に、星脈(せいみゃく)の種類を判別するものがあります。私はそれを使っています。あなたの場合は」


 間があった。


「色が……複数あります」


 それだけ言って、また黙った。


 続きを待った。来なかった。


「複数というのは」と奏は言いかけた。


「今夜はここまでにします」


 蒼羅は書類を閉じて立ち上がった。奏が言葉を探す前に荷物を取り、扉に向かった。何かを言いかけた形跡が横顔にあったが、それは言葉にならずに消えた。


 扉が閉まる。


 奏は窓を見た。月が少し傾いていた。長い矩形の光が、さっきより角度を変えている。


 (複数)


 その一語だけが残った。どんな複数なのか、複数あることが何を意味するのか——続きを蒼羅は言わなかった。言えなかったのか、言わないと決めたのか、判断できなかった。部屋の空気に溶けずに浮いたまま、その言葉だけが奏の頭の中にあった。


 ◆


 五回目の夜に、芽吹(めぶき)が来た。


 扉を三度均等に叩く音がした。蒼羅が「どうぞ」と言う前に、奏には分かっていた。そういう叩き方をする人が、他にいない。


 扉が開いた。帳面を持っていた。


「入ってもいいですか」と芽吹は言った。奏にではなく、蒼羅に向けて。


 蒼羅は一拍置いてから「どうぞ」と言った。


 芽吹が入ってきた。部屋を一度見渡してから隅の椅子を選んで腰をかける。帳面を開く。場違いを感じている様子がなかった——必要があるから来た、という立ち方をする人だ。


「候補が二名になりました」と芽吹は蒼羅に向けて言った。「ただし確証がありません。状況証拠のみです」


「聞かせてください」


 芽吹が帳面を読み上げた。名前は出さず、条件と一致する状況証拠だけを。奏が聞いた声の特徴、当日の動線、学院の施設権限の有無。蒼羅は途中で一度だけ「その日の勤務記録は」と割り込んだ。芽吹が「確認中です」と答えた。


 訓練が止まった状態で、奏は二人のやりとりを聞いていた。


 芽吹が単独でここへ来たのだと、後から分かった。「報告先として適切な人物」を自分で判断してきただけで、蒼羅とは事前に連絡を取っていなかった。その根拠を後から芽吹に聞いたら「感情と利害が最も交差しない立場にある人物」と言った。


「訓練を続けてください」と蒼羅は奏に言って、芽吹の方に向いた。


 奏はまた篠笛を構えた。


 背後で二人の声が低く続く。奏は音の光の色に意識を向けた。今夜は橙色。力が入っていない、ふだんの色。試演会の時の金と白銀には、まだ手が届かない。届き方が分からなかった——白音が転んでいたあの瞬間に確かに届いたものが、夜の生徒会室には宿っていなかった。


 (意図を持つことと、意図で動かすことは、違う)


 そういう気がしていた。でも言語化できなかった。


 芽吹が「失礼します」と言った。帳面を閉じる音がして、扉が開き、閉まる。


 また二人になった。


 蒼羅が元の位置に戻ってきた。


「もう一度」


 ◆


 六回目の夜に、和音(かずね)が来た。


 扉を軽く叩く音が三回あって、少し間があって、また一回。奏にはそれで分かった。そういう叩き方をする人が、他にいない。


「入ってください」と言うと、扉がゆっくり開いた。


「来ても……いいですか」


 和音の声は低かった。蒼羅を見て、奏を見て、また蒼羅に向けて言った。


 蒼羅が一瞬だけ奏を見た。奏は何も言わない。「どうぞ」と蒼羅が言った。


 和音が入ってきた。芽吹とは違う入り方だった。部屋に入って壁際に立って、少しだけ迷う。椅子を指されるまで座らない人だ。


「訓練を見ていてもいいですか」


「構いません」


 四人が生徒会室に揃ったのは、それが最初だった。


 蒼羅が指示を出し、奏が吹く。芽吹が帳面に何かを書く。和音が壁際から奏の音を聞いている。それだけのことだったが、部屋の空気が変わった。密度が上がったのか温度が上がったのか、うまい言葉が奏には来なかった。


 蒼羅が変わった。


 「変わった」は言い過ぎかもしれなかった。でも奏には感じられた。四人になった夜の蒼羅は、二人の夜より指示の言葉数がわずかに多かった。「違います」だけでなく、「今の出力の方向はさっきより安定していました」という一言が来た。


 褒めているのか分析しているのか判断できなかった。


 ただ「安定していました」という言葉が来たのは、初めてだった。


 奏は「分かりました」と言って、また吹いた。


 四人の夜は、そうして静かに続いた。


 廊下の時計が深夜を打つ頃、高窓の月は中天を過ぎていた。一日分の冷気を蓄えた石壁の向こうで、春の夜がまだ続いている。ランタンの灯りが四人の顔を温かく照らし、帳面をめくる芽吹の指音が静かな部屋に広がり、和音が椅子の上で少しだけ体重を移す音がする。蒼羅が廊下の方を確かめるように一瞬だけ向く気配。


 奏はそれらを全部、音の光の色を探すあいだに受け取っていた。


 試演会の夜の出力には、まだ届かなかった。


 でも今夜の部屋には、いつもの夜とは違う光があった。音の光ではなく、こういう場所にいる人間たちが放つ温度のある何かが。奏の共感覚はそれを音として拾えなかったが、皮膚がそれを知っていた。


 (ここに、四人がいる)


 その事実だけが、今夜の訓練を少しだけ違うものにした。


 ◆


「今夜はここまで」と蒼羅が言った後に、奏は和音に聞いた。


「私の星脈に、何か感じますか」


 部屋に残っていた芽吹が帳面から顔を上げた。


 和音は少しだけ目を伏せた。


 一拍。


 二拍。


「……よく聞こえます」と和音は言った。


 それだけ。それ以上の言葉が来なかった。続きを待ったが、和音は目を伏せたまま少し黙って、それから蒼羅の方を見た。


 蒼羅は何も言わなかった。


「聞こえる、というのは」と奏は言いかけた。


「今夜は遅いです」と蒼羅が言った。「続きはまた」


 荷物を片付ける気配が部屋に広がった。和音が椅子から立つ音。芽吹が帳面を閉じる音。奏は篠笛ケースを閉じながら「よく聞こえます」という言葉の形を頭の中で転がした。


 「よく」というのは——強く聞こえる、ということか。


 それとも、はっきり聞こえる、ということか。


 どちらとも取れた。和音は「何が」聞こえるかを言わなかった。「何が」と続けようとしたら蒼羅が遮った——遮ったのか、それとも単に夜の時間を気にしただけなのか、判断できなかった。


 廊下に出ると、四人の足音が石畳に広がった。


 交差点で芽吹が「また明後日」と言って一人離れた。和音が「お先に」と言って別の方向に消えた。蒼羅が「気をつけて」とだけ言って、奏の寮とは反対の方向に歩き出した。


 奏はその背中が廊下の角に消えるまで、目で追った。


 角を曲がる一歩前、蒼羅の足が——ほんの少しだけ、遅かった。


 気のせいかもしれなかった。


 ◆


 白音が待っていた。


 渡り廊下のそばで、コートを着たまま壁に背中をあずけていた。奏が近づくと顔を上げて「お疲れ」と言った。


「待ってたの」


「なんか気になって」と白音は言った。理由にもならない理由で、それ以上は説明しなかった。


 渡り廊下を並んで歩いた。春の夜の終わりの空気が廊下に入ってきていた。月が高い。足元の石畳が月の光を受けて、灰色の模様を作っている。


「蒼羅会長、来てくれたね」と白音が言った。


「そうだね」


「最初、すごく怖そうだと思ってたけど」


 白音が少しだけ黙った。渡り廊下の外に目をやって、また前を向く。


「——声が、悲しそうなんだよね」


 奏の足が、わずかに遅くなった。


「悲しそう?」


「うん」と白音は言った。「観月祭の時に話してた人は、みんな蒼羅会長の声が好きって言うじゃん。私も好きだよ、きれいだと思う。でも聞くたびに、なんか悲しくなっちゃう。なんでだろうね」


 奏は答えなかった。


 答えられなかったのではなく、すぐに言葉が出てこなかった。


 声は悲しいかどうかを選べない。その人が持っているものが出る。それだけだ。磨かれた声でも整えられた声でも、一番奥にあるものだけは隠れない。奏はそう思いながら、言わなかった。白音の言葉には、それ以上を必要としない何かがあった。


「変かな」と白音が言った。


「変じゃない」と奏は言った。


 そのまま二人で歩いた。渡り廊下が終わって寮の棟に入ると、石畳の音が消えて床板の音に変わった。それぞれの扉の前を通り過ぎていく。


 部屋の前で白音が「おやすみ」と言った。


「おやすみ」と奏は返した。


 扉が閉まる音がした。


 奏は自分の扉の前に立ったまま、少しの間動かなかった。


 蒼羅の声のことを考えていた。「私の判断です」という言葉がふだんより少しだけ多く返ってくる夜のことを。「もう一度」と言い続ける声が、夜が深まるほどほんのわずかに柔らかくなっていく気がした夜のことを。


 悲しそうなのかどうかは、奏には分からなかった。


 ただ「複数の色があります」という言葉の先を、蒼羅が言わなかったことは分かった。言わなかった——言えなかったのか、言わないと決めたのか、それも分からない。


 和音が「よく聞こえます」と目を伏せた、あの一拍のことを、また思った。


 「よく」の意味を聞けなかった。


 廊下のランタンが揺れた。


 奏は扉を開けて、部屋に入った。

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