第10話「異端審問と監視下の残留」
「退学処分を提案します」
査問委員の声は、奏の返事を待っていなかった。
質問でも意見でもなく、すでに結論として卓上に置かれた言葉だった。委員の一人――東棟の法衣を着た五十代の男が、帳面に視線を落としたまま言う。奏が口を開く前に、結論が出ていた。
証拠より先に結論が来た。
その順番の違和感が、石畳の冷気と一緒に奏の靴底から這い上がってくる。
◆
試演会の翌朝だった。
西棟の一角、来賓用の接見室に間仕切りを入れただけの臨時査問室は、椅子が六脚と長机が一つあるだけの部屋だった。窓は南向きで、春の朝の光が白く差し込んでいたが、暖かくはない。ただ明るいだけ。石造りの壁が朝の熱を吸い取ったままで、空気の底が重く冷えていた。
向かいに委員が三名。東棟の男が右端、中央に副理事長格の女性、左端にもう一名の中年の男――三人とも法衣か正式な羽織を着ていて、帳面を開いている。ペンを持っている。星宮奏だけが昨日と同じ上着のままだった。洗っている時間がなかった。袖口に昨日の煤が残っていて、指先で触れると少し硬かった。
「判定不能の特例入学生が、未制御の魔奏を発動させ、試演会を混乱させた――以上が事実認定の骨子です」と副理事長格の女性が書類を読み上げた。「先程の提案の通り、退学処分を検討します。星宮奏さん、当該の魔奏発動について説明できますか」
説明。
その言葉が部屋の中で少しの間転がった。
(何を、どこから)
奏には、どこから始めればいいかが分からなかった。鳴影獣が出た。結界が壊れた。白音が転んでいた。笛を吹いた。光が出た。事実の列挙なら言える。でも「説明」はそういうことではなかった。自分の出力が正しかったかどうか、制御されていたかどうか、なぜ他の魔奏が効かない中で自分の音だけが届いたのか――その問いに奏は、答えを持っていなかった。答えを作るための言語ごと持っていなかった。
「鳴影獣が出たので、音で応えました」
言葉にすると、それだけになった。
委員三名の視線が一様に奏の顔に集まり、また帳面に下りた。
「音で応えた」と左端の男が繰り返す。声が低くて平らだった。「制御された魔奏の発動でしたか」
「制御という意味が――」
「詠唱符を介し、所定の出力量で発動させたかということです」
「そういう形では、ありません」
「では無制御」
奏は答えなかった。否定できなかったが、「無制御」という言葉も正確ではなかった。意図はあった。白音のところに走りたかった。鳴影獣を止めたかった。その意図を、星脈学の術語に変換する方法を奏は知らない。言葉と現実の間に溝がある。その溝を、奏はどちら側からも埋められなかった。
長机の木目が目の前にあった。節があった。古い傷が一本走っていた。視線をそこに固定したまま、返す言葉を探す。
「理事長が入学を強引に押し通したことも、今回の経緯に含まれます」と東棟の男が言った。帳面から顔を上げた。感情ではなく、単純な確認として述べた口調だった。「この時点で退学を――」
扉が、開いた。
◆
「証人として発言の機会を請います」
冬子の声だった。
扉のそばに立った。法衣ではなく学院の制服で、尺八を帯に差したままだった。委員三名を順に見て、最後に奏を一度だけ見た。その目に、最初からあるものが変わっていなかった。嘲りでも同情でもなく、事実の前に立っている目だった。
「許可します」と副理事長格の女性が言った。
厳奏冬子は一歩前に出た。
「星宮さんの魔奏については、演習での先例を申し上げます」と冬子は言った。感情の色がなかった。「入学から現在まで、この生徒の魔奏は一度も系統的な制御のもとで発動されていません。詠唱符の損壊が三例。演習での出力の不安定性が記録されています。昨日の試演会での発動も、同様の文脈にあります。学院の安全に関わる問題として、対応が必要と考えます」
「以上です」と冬子は言った。「私が申し上げられるのは事実のみです」
副理事長格が「ありがとうございます」と言った。
奏は冬子の横顔を見た。
詠唱符が三枚割れた――正しい。演習場で三度飛ばされた――正しい。昨日の音が型も理論も形式もない形で出た――これも正しかった。全部事実で、反論の言葉がない。だが反論できないことと、結論に同意できることはまるで別のことで、奏はその二つの間にぽつんと立っていた。
(私は白音のところに走った)
(鳴影獣は消えた)
(その二つが、事実認定の骨子に入っていない)
長机の木目を見た。さっき見た古い傷が一本走っていた。節の位置も変わっていない。見るものがない。
「以上を踏まえ」と東棟の男が帳面に目を落としたまま言った。「退学処分を――」
扉が、もう一度開いた。
◆
蒼羅が入ってきた時、部屋の空気が一拍だけ止まった。
委員三名の動きが止まった。東棟の男が口を開けたまま固まった。副理事長格の女性が書類から目を上げた。
「生徒会長として、発言の機会を請います」
獅鳴蒼羅の声は普段と変わらなかった。感情がなかった。傍聴席のないこの部屋の端に立って、委員三名を正面から見た。奏のことは見なかった。
「学院規定第二十条に基づき、生徒会は在校生に関する査問に対し資料を提出する権限を有します。本日、該当資料を持参しました」
副理事長格が「どうぞ」と言う前に、蒼羅は一枚の書類を机の端に置いた。
書類が机に触れる音がした。委員三名の視線がそちらに向かう。
奏には内容が見えなかった。でも左端の男の目線がある一行で止まるのが分かった。数字の段だと思った。
「……先週の月曜から」と男は言った。
「第三節点の数値が規定値を下回っていた記録が四日分あります」蒼羅は続けた。「施設管理部への報告が遅延していた分です。生徒会は建物の週次レポートを受領する立場ですが、当該箇所の異常は私の確認が行き届いていなかった。それは会長としての私の不手際です」
一度だけ、間があった。
「ただし、第三節点の脆弱性は昨日以前から存在していた事実は、この記録から明らかです」
部屋が静かになった。
東棟の男がペンを机に置いた。左端の男が副理事長格の女性の顔を見た。視線の交わし方が小声のやり取りより速い。
奏は長机の木目を見たままだった。何かが動いている気配が、皮膚に届いてきていた。
「鳴影獣の出現原因は、結界の既存の異常にあります」と蒼羅は言った。「星宮さんの魔奏発動は、事後的なものです。原因と結果の順序が、事実認定の骨子と逆になっています」
東棟の男が口を開いた。
「しかし、高出力の未制御魔奏の発動という事実は――」
「記録はお持ちですか」と蒼羅が言った。「第三節点の数値の推移も含め、今後の管理体制については施設部の担当者も交えた議論が必要かと思います。担当者を呼ぶことは可能ですか」
男は口を閉じた。
副理事長格の女性が「少し時間をいただきます」と言って、委員三名が小声でやり取りを始めた。一分も経たないうちに女性が顔を上げた。
「本日の審議を継続します。退学処分の提案は、現時点では保留とします」
「星宮奏さんは、引き続き学院に在籍します」と副理事長格の女性は続けた。「監視付き残留といたします。学院が指定した担当者の監督下で魔奏の訓練を継続し、三ヶ月ごとに査問を受けること。以上を条件とします」
「それと」と女性は加えた。「第三節点の管理状況については、施設部と合わせて別途確認いたします」
部屋が動き始めた。書類が閉じられ、椅子が引かれた。奏は立ち上がって、膝に置いていた手を上着の脇に落とした。手のひらがまだ少し固い。昨日の痕が残っている。
扉の方へ歩きながら、奏は東棟の男の帳面を横目で見た。
「退学処分を提案します」と書かれた最初の行――その横の時刻欄に、今朝の刻限が書いてあった。査問室に全員が揃う前の、時刻だった。
奏は目を逸らした。
◆
廊下に出ると、五月の朝の空気が当たった。
査問室の冷えた空気とは質が違う。渡り廊下を抜けてくる風が袖口を揺らした。その先の中庭に、木の葉が光を受けて揺れているのが見えた。
奏は立ち止まって、手のひらを開いた。
赤みが残っていた。皮の薄い部分が固くなっていて、指を曲げると突っ張る。傷の深さは大したことがない、と医務室で言われた。でも内側の星脈過負荷の痕は数週間残ると言われた。見えない傷だった。
蒼羅が廊下に出てきた。
扉を閉めた。奏の少し後ろに立った。並んだのではなく、同じ廊下にいた、という感じの立ち方だった。
「なぜ助けてくれたんですか」
奏は振り返らずに聞いた。聞いてから、振り返った。
蒼羅は扉の前に立っていた。奏を見ていた。感情の読めない目だった。でも昨日、舞台袖で見た目とは少しだけ違う。昨日は何かを押し殺している顔だった。今日は遠い。整理された後の顔だった。
「施設管理の問題は事実です」
「でも、私のために」
「私の判断です」
それだけだった。
奏はその言葉の表面と、表面の下にあるはずの何かを、しばらく見ていた。「私の判断です」は正しかった。嘘ではない。でもその判断がどこから来たのかを、蒼羅は言わなかった。言わないことで、何かにぴったり蓋をした。蓋の形が奏には見えた。中身の名前は分からなかった。
「ありがとうございました」と奏は言った。
蒼羅は一拍だけ間を置いた。
「監視担当が決まりしだい連絡が来ます。特訓はその後から再開しましょう」
奏は少し驚いた。「再開するんですか」
「あなたに技術がない状態で次の何かが起きれば、また同じことになります」蒼羅の声は変わらなかった。「私の判断です」
同じ言葉だった。でも今回は重さが少しだけ違った気がした。説明のつかない違いだったが、届いた。
蒼羅が歩き出した。
廊下の角まで行って、曲がった。曲がる一歩前の足が、ほんのわずかだけ遅い。
気のせいかもしれなかった。
◆
監視担当の通知は昼過ぎに来た。
一枚の紙だった。学院の公式書式で、担当者の欄に名前が一つ書いてあった。「響 蒼天(学院図書館司書)」。奏はその名前を見て、少しの間、部屋の窓を見た。双星白音が「どんな人なの?」と聞いたので「図書館の司書さん」と答えた。白音は「ああ、あの人ね」と言って、それ以上聞かなかった。
午後の遅い時間に、奏は図書館へ向かった。
◆
図書館の奥は静かだった。
利用者が何人かいたが声はなく、本の重みが空気を押し下げているような落ち着きが満ちていた。窓から差し込む光が西に傾いて、書棚の背表紙が橙に染まっていた。一日の中で一番長く見える光の色だった。
蒼天は書棚の間にいた。
数冊を腕に抱えて、棚の一段一段を確かめながら本を戻す作業をしていた。奏が近づくと、腕の中の一冊を棚に収めてから振り返った。驚いた様子はなかった。来ると分かっていたような、そういう静かさだった。
「よろしくお願いします、先生」
「先生ではありません。司書ですよ」
いつもの返しだった。声の質も変わっていない。穏やかで低くて、余分なものが入っていない声。「司書さん、ですね」と言い直すと「そちらで結構です」と返ってきた。
「監視という形になりますが」と奏は言った。「何をすればいいですか」
「今日は特に何もしなくていいです」
「え」
「疲れているでしょう、査問の後では」蒼天は次の本を棚に収めながら言った。「本が読みたければ読んでいいですし、ただいてもいい」
奏は拍子抜けした。もっと何かを確認されたり、約束ごとを言い渡されたりすると思っていた。でも蒼天は本の整理に戻って、それだけだった。
近くの椅子に腰をかけた。
棚に本が収まる音がした。一冊、また一冊。規則正しい音だった。奏はその音を聞きながら、手のひらを開く。赤みがある。固くなった皮が光を受けても変わらない。
「あの」と奏は言った。
「はい」
「昨日のことを――」
「あなたが昨日したことは、正しかったと思います」
奏の言葉が終わる前に来た。
蒼天は振り返らなかった。本棚を向いたまま、次の一冊を確かめながら言った。感情の強さがなかった。でも事実として言われたことで、かえって奏には届いた。
「でも皆には――」
「皆がどう言おうと、白音さんが今日ここにいるのは、あなたのおかげです」
静かな声だった。
棚に本が収まる音がした。それ以上の言葉は来なかった。蒼天は次の一冊を手に取って、また棚を確かめた。
奏は答えなかった。答えが必要な言葉ではなかった。言葉よりも先に、体の中の何かが少しだけほどけた。ほどけるというより、下がる感覚だった。肩のあたりに張りつめていたものが、少しだけ引いていく。
蒼天が黙って本の整理を続けている。
奏は椅子に座ったまま、書棚を染める橙を見ていた。日が沈むにつれて光が薄れ、代わりに図書館の燭台の光がはっきりしてくる。昼の光と夜の光が入れ替わる、そういう時間だった。
窓の外で、どこかの木の葉が揺れる音がした。
手のひらを閉じた。指が突っ張る感覚がある。傷は数週間残ると言われた。音は出た。光は届いた。白音は今日ここにいる。でも次に何が来るかはまだ何も分からない。
分からないままで、今日は終わる。
それで十分だ、と奏は思った。正直なところ。




