第9話:滅びの淵の恩義と、砦の盤石
第9話:滅びの淵の恩義と、砦の盤石
時は少し遡って【2040年 6月30日 19:00】
街の郊外にある、建設会社の資材置き場。
その片隅に残された半壊のプレハブ小屋の中で、二つの影が小さく丸まっていた。
「……ゲホッ、ゲホッ! 斉藤、この煙……肺が腐りそうだ」
痩せこけた頬を煤で汚した木村昭夫が、ひび割れた手で口元を覆いながら激しく咳き込んだ。
ドラム缶を半分に切った即席の焚き火台からは、黒く濁った煙が立ち昇っている。
外で拾い集めた、汚染された廃材を燃やしているためだ。
それが放射性物質をたっぷりと含んだ「死の煙」であることは、木村も斉藤剛も百も承知だった。
「……我慢しろ、木村。火を絶やすな。煙が汚染されてようが、凍死するよりはマシだ」
斉藤は、ドラム缶の炎に両手をかざしながら、ひきつるような声で答えた。
プレハブの隙間からは、刃物のように鋭く冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。
汚染された煙を吸い込む恐怖よりも、マイナス二十度を下回る絶対的な寒さのほうが、今の彼らにとっては直接的な脅威だった。
ドラム缶の上では、凹んだアルミ鍋がコトコトと音を立てていた。
黒い雪を布で濾した泥水の中で、白く美しい粒が踊っている。
昨夜、あの山奥の家で「坊主」から貰い受けた玄米だ。
やがて、プレハブの中に米の炊ける甘い匂いが充満し始めた。
その瞬間、木村の咳がピタリと止まった。
「……匂いがする。斉藤、米の匂いがするぞ……!」
木村の落ち窪んだ両目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「ああ。焦がすなよ、木村。一粒たりとも無駄にはできねぇ」
斉藤もまた、震える手で顔を覆い、しゃくりあげるのを必死に堪えながら、鍋を火から下ろし、薄汚れたプラスチックの器に炊きたての玄米をよそう。
おかずも塩もない、ただの米。
しかし、それを一口頬張った瞬間、二人の内臓の奥底から、言葉にならない熱いものが込み上げてきた。
「美味え……っ、美味えよぉ……」
「ああ……生きてる。俺たち、まだ生きてるんだな……」
二人は、鼻水をすすり、顔をドロドロにしながら、夢中で米を掻き込んだ。
街が焼き討ちに遭い、食料を奪われ、凍死する死体を漁る野犬の群れから逃げ惑っていた彼らにとって、それは人間としての尊厳を取り戻すための、魔法のような一食だった。
「……しかしよ、斉藤。あの坊主、何者なんだろうな」
器を舐めるように綺麗にした木村が、ドラム缶の火を見つめながらポツリとこぼした。
「さあな。だが、肝が据わったガキだ。俺たちを雪の上に叩き伏せることもできたのに、そうしなかった。……あんな綺麗な米を、10キロも渡しやがった。名前すら名乗らなかったくせにな」
「あの坊主がくれなきゃ、今頃俺たちは、雪に埋もれたカカシになってたはずだ。……なぁ、斉藤。俺、あの坊主の冷たい目が忘れられねぇんだ。怖い目だったけど、どこか……無理して背伸びしてるような、悲しい目をしてた」
斉藤は黙って頷き、アルミ鍋の底に残ったお焦げを丁寧にかき集めた。
「恩を返すまでは、意地でもくたばれねぇぞ、木村」
「ああ。塩だ。塩を死ぬ気で探す。それから、街を焼いた連中の動きもな」
彼らは、自分たちが世界から見捨てられた住人であることを知っていた。
だからこそ、あの日、名も知らぬ少年から提示された「冷徹な取引」という名の繋がりが、彼らにとって唯一の光となっていた。
【2040年 7月2日 08:00】
「坊主」との最初の取引から四日が過ぎた。
残酷な現実は、容赦なく二人の身体を蝕み始めていた。
プレハブ小屋の隅で目を覚ました木村は、口の中に広がる生温かい鉄の味で顔をしかめた。
ペッと床に唾を吐き出すと、赤黒い血がべっとりと混じっていた。
「……またか」
歯茎からの出血が止まらない。
昨日から、何を食べても口の中が砂を噛んでいるようにジャリジャリとして、味覚が完全に麻痺していた。
ふと横を見ると、斉藤が虚ろな目で自分の手のひらを見つめていた。
その手には、ごっそりと抜け落ちた大量の髪の毛が握りしめられていた。
「斉藤、お前……髪が……」
「……触っただけで、このザマだ。身体中から血の気が引いていくのが分かる」
斉藤は、抜け落ちた髪を無造作にドラム缶の火の中へ投げ捨てた。
チリチリと嫌な音を立てて燃え上がるそれを、二人はただ無言で見つめていた。
「……俺たち、もう長くねぇのかな」
木村が、震える声で呟いた。
急性放射線障害。
まともな防護装備もないまま、汚染された外気の中で彷徨い歩いた代償だ。
吐き気と倦怠感は日ごとに増し、皮膚には不気味な紫色の斑点が浮かび上がっていた。
「ガタガタ抜かすな。身体が腐ろうが、手足がもげようが、動かすんだよ」
斉藤は、無理やり立ち上がり、壁に立てかけてあった鉄パイプを掴んだ。
「あの坊主に渡すための『塩』を見つけるまではな。あそこは……あの山奥の砦は、この地獄で唯一、俺たちを人間として扱ってくれた場所なんだ。泥棒扱いも、野犬扱いもしなかった。対等に『取引』をしてくれたんだ」
木村も、痛む膝を叩いてゆっくりと立ち上がった。
「……ああ、そうだな。次は味噌か、それとも防寒着か。あいつらが必要なもんを探し出そう。それが、俺たちが生きた証になる」
「行くぞ、木村。街の方へ降りて、焼け残ったスーパーの倉庫をもう一度漁る。武装集団の連中に見つかったら一貫の終わりだが、やるしかねぇ」
死を悟った二人の顔には、不思議と悲壮感はなかった。
ただ、自分たちの命の「最後の使い道」を見つけた男たちの、泥臭くも確かな矜持だけがそこにあった。
――そしてその翌日、彼らは命懸けでかき集めた塩と、武装集団の接近という情報を携え、再びあの少年の前に姿を現すことになる。
***
【2040年 7月5日 13:00】
斉藤たちとの二度目の取引の翌日。
「砦」となってから一週間、外の世界は急速にその姿を変えていた。
佐伯家のリビングでは、湊によるさらなる「リソース管理の厳格化」が宣言されていた。
「これまでは家族単位で荷物を置くなど、多少の余裕を持たせてきましたが、今日限りで撤廃します。廊下を完全に封鎖し、リビングと地続きの和室以外のすべての部屋への立ち入りを、管理班以外禁止します」
湊の宣言に、一部の大人たちから困惑の声が上がった。
「湊くん、すでに私たちはここで一緒に寝起きしているわ。それ以上に制限する必要があるの?」
「着替えや、少し一人で考えを整理する場所もなくなってしまう」
不満を口にする芳江や祥子たちを、湊は冷徹な視線で制した。
「外気温が予想以上のスピードで低下しています。マイナス三十度です。扉一枚の隙間から逃げる熱すら、今の僕たちには致命傷になる。プライバシーよりも、今は『一ヶ月先の薪』を確保することのほうが重要です」
湊の言葉は、以前決めたルールをさらに研ぎ澄ませるものだった。
すでに全員で雑魚寝をしていた和室だが、より熱を逃がさないよう配置を密着させ、使用するストーブを一台に限定する。
重苦しい雰囲気が漂う中、その空気を破ったのは、小林陽太だった。
「すっげえ! 結衣、見てみろよ! さらにギュッとなるんだって! なんか、冬眠するクマの家族みたいだな!」
陽太は、大広間のように目張りされた和室を見て、わざと明るい声を上げた。
「くまさん……? お兄ちゃん、みんなでくっついて寝るの?」
結衣も、陽太に促されるようにして、抱きしめていたウサギのぬいぐるみを湊に見せた。
「……そうだよ。みんなで温め合えば、寒くないからね」
湊の表情が、わずかに和らぐ。
親としての焦りを感じていた大人たちも、子供たちの無邪気な反応に促されるように、自分たちの居住スペースをさらに縮小し、防衛線を狭める作業に取り掛かった。
【同日 15:00】
居住区の再編を終え、管理班と防衛班の主要メンバーが集まった。
湊、誠、健一、凛、義男、そして健吾の六人だ。
テーブルの上には、第6話で駿たちが計算したノートに、新たな実測値が書き加えられていた。
「燃料の計算を修正しました。健一さん」
健一が、厳しい表情で口を開いた。
「……半年持つという当初の計算を撤回する。外気温が低すぎて、ストーブの消費効率が悪すぎるんだ。このままでは在庫は一ヶ月強で底を突く。そして、山の木を伐採して薪にしても黒い雪に汚染されていて、煙を吸い込むだけで放射線障害を招く。……手が出せない」
「一ヶ月だと……? 冗談じゃねえぞ。核の冬はこれからが本番だろうが!」
義男が苛立ったように言った。
「はい。ですから、明日から『砦』の解体計画を始めます」
湊の静かな声に、全員の視線が集中した。
「母屋と倉庫を繋いでいる接続部分、および離れの物置。そこを切り離し、乾燥した木材として燃料に転用します。屋根続きというメリットは捨てがたいですが、今は暖房範囲を削ってでも、火を絶やさないことが優先です」
「待てよ、湊くん!」
健吾が立ち上がった。
「繋がっている場所を壊せば、移動のたびに冷たい空気に晒されることになる。それに、政府の救助が来た時、この家をボロボロにしてしまっていいのか!」
「健吾さん、全員で生存する為に、できることはすべてやる、そう話したはずです」
湊は、健吾の目を真っ直ぐに見据えた。
「日常は戻りません。家具も、家の装飾も、今は命を繋ぐための『燃料』でしかない。凍死してから綺麗な家を残しても意味がないんです」
健吾は反論しようとしたが、湊の揺るぎない覚悟を前に、力なく椅子に座り直した。
議論は、燃料から衛生と健康の問題へと移る。
「水の使用も、限界まで絞る必要があります。凛さん」
凛はノートに目を落としながら、深刻な表情で答えた。
「……深刻なのは、肌のトラブルよ。入浴はおろか、体を拭くお湯さえ制限しているせいで、大人も子供も皮膚炎が出始めている。不衛生な状態が続けば、感染症のリスクが跳ね上がるわ」
「それと、食料の栄養不足だ」
凛はさらに言葉を重ねた。
「斉藤さんたちが運んでくれた塩で、なんとかナトリウムは確保できている。でも、玄米とわずかな備蓄だけではビタミンが足りない。陽太くんたちの口角が切れているのを見た? ……壊血病の初期症状よ。免疫力が落ちれば、風邪一つでこのコミュニティは全滅する」
「……こんな生活、いつまで持つんだ!」
健吾が再び、絞り出すような声を上げた。
「俺たちが決めた役割を必死にこなして、それでも子供たちが病気になっていくのを、ただ黙って見ていろっていうのか!」
親としての焦燥。
それがリビングの空気を張り詰めさせる。
「健吾さん」
凛が、冷徹な、しかし確信に満ちた声で告げた。
「以前も言いました。私たちが、ここでの政府なんです。誰も助けに来ない。私たちが今、ここで出す答えだけが、あの子供たちを救う唯一の法律なの。嘆いている時間があるなら、解体する柱の優先順位を決めましょう」
健吾は唇を噛み締め、黙って俯いた。
「……会議はここまでです」
湊がノートを閉じた。
「明日から防衛・工作班は離れの解体を始めます。それと、斉藤さんたちがくれた『武装集団』の情報。見張りは二十四時間、常に二人一組で武器を持って立つこと。……以上です」
【同日 18:00】
ランタンの灯りが絞られた廊下。
湊の前に、一椀の粥を乗せた栞が立った。
「湊くん……お疲れ様。これ、食べて」
「……北条か。悪いな」
温かい湯気が、湊のこわばった顔をわずかに解かす。
「……みんなに、ひどいことを強いている自覚はあるんだ。俺は、独裁者に見えるかな」
「ううん。湊くんがいなきゃ、私たちはとっくに雪の中で凍えてたよ。みんな、湊くんのことを信じてる」
栞の言葉に、湊は小さく頷き、粥を口にした。
(斉藤さん、木村さん……あんたたちが命懸けで運んでくれた情報と塩を、絶対に無駄にはしない)
湊は窓の隙間から、真っ白に染まった外の世界を見つめた。
自分たちが作り上げたこの「砦」が、いつまで持つのか、湊にも分からない。
だが、十五歳の少年の瞳には、何としても守り抜くという、鋼のような決意が宿っていた。




