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ラスト・サイレンス ― 核の冬に芽吹く祈り ―  作者: tky@3作品同時連載中


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第10話:崩落する日常と、届かぬ祈り

【2040年 7月6日 08:00】


ギシッ……メキメキ、バキィッ!


凍てつくようなマイナス三十度の外気が支配する「離れ」の空間に、木材がへし折れる暴力的な破砕音が響き渡った。


湊の祖父が、大工と共に丹精込めて建てたという立派な木造の離れ。


かつては湊が幼い頃にかくれんぼをして遊び、親戚が集まれば宴会場にもなった思い出の場所だ。


だが今、その思い出は、分厚い防護服に身を包んだ男たちが振るう斧とバールによって、ただの「燃料」へと無残に解体されつつあった。


「もっと根元からだ! 折った木材はすぐに車庫へ運ぶんだ!」


湊の鋭い声が、ガムテープで密閉されたマスクの奥からくぐもって響く。


男たちは皆、無言でバールを振るっていた。


全身を覆うレインコートの下では、極寒だというのに脂汗が吹き出している。


息を吸うたびに、凍りついた空気が肺を針で刺すように痛めつけた。


「……湊」


駿が、太い梁をバールで叩き割りながら、ふと動きを止めた。


「本当に、いいんだな」


「迷っている暇はありません」


湊は自らも手に持った斧を、見慣れた床柱に向かって力任せに振り下ろした。


ゴッ、という鈍い音と共に、木片が飛び散る。


手のひらに伝わる痺れは、まるで家そのものが悲鳴を上げているかのようだった。


(ごめん、じいちゃん。でも、俺たちは生きなきゃならないんだ)


家を壊すという根源的な罪悪感と、これでまた数日分の命を繋ぐ熱源が手に入ったという安堵感。


その狂気じみた矛盾が、十五歳の少年の心をギリギリと締め付けていた。


誠や健一、義男たち大人も、誰も余計な口は利かなかった。


日常の象徴であった「家」を自らの手で解体するという行為は、彼らの心から確実に人間らしい余裕を削り取っていった。


【同日 14:00】


午前中の解体作業を終え、厳重な除染を経て居住区である和室に戻った時のことだった。


湊が凍えきった手足をストーブの火で温めようとした矢先、カーテンで仕切られた隔離スペースから、血相を変えた凛が飛び出してきた。


「湊くん……来て!」


いつもは年上の余裕を崩さない凛の顔が、恐怖に青ざめている。


湊は弾かれたように立ち上がり、急いでカーテンの奥へと足を踏み入れた。


「……嘘だろ」


そこに寝かされていた加藤達也の姿を見て、湊は息を呑んだ。


達也の顔は土気色を超えてどす黒く変色し、全身が痙攣するように震えていた。


毛布越しにも伝わるほどの異常な高熱だ。


息を吸うたびに、喉の奥からヒュー、ヒューという不気味な音が漏れている。


「敗血症よ」


凛が、震える手で達也の額の汗を拭いながら、押し殺した声で告げた。


「不衛生な環境で、傷口から細菌が入り込んだんだわ。免疫力が落ちているところに、この極寒と栄養不足……。手持ちの抗生物質はもう全部使った。でも、熱が下がらない……」


「凛さん、何か……他に手はないんですか!? 傷口を洗うとか……」


「無理よ!」


凛が悲痛な声で叫んだ。


「ここは病院じゃないの! 清潔な水も、点滴も、血液検査の機械もない! 私が持っている知識なんて、この環境じゃ何の役にも立たない……っ!」


それは、彼女が気丈に振る舞ってきた仮面が、無力感によって砕け散る瞬間だった。


その時、達也の目がうっすらと開いた。


焦点の定まらない目で虚空を彷徨い、やがて傍らで顔を覆って泣き崩れている妻の真由美と、その袖を不安げに握りしめている五歳の莉子の姿を捉えた。


「……ま、ゆみ……」


「あなた! だめよ、喋っちゃだめ! 今、凛さんがお薬を……!」


真由美が達也の冷たくなりかけた手を両手で包み込み、必死にすがりつく。


だが、達也は自分の命の炎が今まさに消えようとしていることを、誰よりも正確に悟っているようだった。


彼はゆっくりと、わずかに動く指先で、莉子の小さな頬に触れた。


「……莉、子」


「パパ……? パパ、おねつなの……?」


莉子が、大きな瞳に涙を溜めて達也を覗き込む。


達也は、熱でひび割れた唇を無理やり吊り上げ、娘に最後の微笑みを向けようとした。


「莉子……いいか。お母さんの、言うことを……よく、聞くんだぞ」


「……うん」


「わがまま、言っちゃ、だめだ。……みんなで、仲良く、協力して……生き、なさい」


達也の濁った瞳が、莉子から真由美へ、そしてその後ろに立って唇を噛み締めている湊へと向けられた。


声には出さなかったが、その目ははっきりと『家族を、みんなを頼む』と訴えかけていた。


「湊、くんたちの、言うことを……信じて……」


「あなた! お願い、置いていかないで! 莉子にはあなたが必要なの!」


真由美の絶叫が、隔離スペースのカーテンを越えて、和室全体に響き渡った。


様子を窺っていた栞や祥子が、耐えきれずに両手で顔を覆い、声を殺して泣き始めた。


湊は、何もできなかった。


バットで人の骨を砕く覚悟を決めても、汚染された外の世界から物資を調達する冷徹な取引を行っても、今目の前で失われようとしている命一つ、引き留めることはできない。


無力。


圧倒的な無力感が、湊の背中に重くのしかかった。


【2040年 7月7日 08:00】


翌朝。


達也の呼吸はさらに浅く、不規則になっていた。


だが、誰かの死が目前に迫っていようと、マイナス三十度の外の世界は容赦なく彼らの体温を奪おうとしてくる。


止まることは、すなわち全滅を意味した。


「……行くぞ」


玄関の土間で、湊は防護服のガムテープを自らの手首に巻きつけながら、沈痛な面持ちの男たちに声をかけた。


「湊……今日は、休ませてやれないか。加藤さんの傍に、みんなを……」


誠が、絞り出すような声で懇願した。


「ダメです。薪は一か月持つ見込みですが、動けるうちに薪を確保しておかなければ、何が起こるか分かりません。すぐに離れの残りを解体して車庫に運び込むべきです。」


湊の声は、自分でも驚くほど冷酷で、機械的だった。


「湊! お前、血も涙もねぇのか!」


健吾が胸倉を掴みかからんばかりの勢いで怒鳴るが、湊は冷たい眼差しで健吾を見据え返した。


「火が消えれば、莉子ちゃんも、結衣ちゃんも、陽太も凍死します。達也さんの最期を看取るために、子供たちを巻き添えにするんですか」


その正論に、健吾はギリッと奥歯を鳴らし、力なくうなだれた。


湊の心の中では、十五歳の少年が『助けてくれ』と悲鳴を上げていた。


どうして俺がこんなことを言わなきゃならない。


どうして俺が、他人の死を悼む時間すら奪わなければならないのか。


湊は、答えの出ない問を繰り返すことしかできなかった。


【同日 16:00】


地獄のような解体作業を終え、疲れ果てて和室に戻った湊たちを待っていたのは、さらなる絶望の連鎖だった。


「……ばあさん! ばあさん、しっかりしろ!」


「お母さん! 誰か、凛さんを呼んで!」


部屋の隅で、川上鉄造と義男が悲痛な声を上げていた。


配給用の粥を取り分けようとしていた川上家の老婆・照代が、意識を失ってその場に崩れ落ちたのだ。


「そこを退いて!」


駆けつけた凛が照代の脈を測り、顔をしかめた。


「脈が弱いわ……それに、ひどい栄養失調と疲労の限界。ただでさえ高齢なのに、この極寒とストレスで心臓に負担がかかりすぎている」


凛の指示で、照代は達也の寝かされている隔離スペースの隣へ運ばれた。


凛は救急箱の中から、残っていた数少ない錠剤を取り出し、水と一緒に無理やり照代の口に含ませた。


「凛さん……母ちゃんは、助かるのか?」


大柄な義男が、すがるような目で凛を見下ろす。


凛は俯き、震える両手を強く握りしめた。


「……わからない。持病の薬でもないし、ただの気休めかもしれない。この薬が本当に効くのか、今の私たちには判断できる設備も知識もないの」


その絶望的な宣告に、義男は頭を抱え、鉄造は壁を力任せに殴りつけた。


達也の死の気配が色濃く漂う空間で、今度は照代が倒れた。


健康だったはずの大人たちが、一人、また一人と環境の過酷さに耐えきれずに命を削られていく。


「……もう、ダメかもしれないわね」


芳江が、虚ろな目でポツリと呟いた。


その言葉は、和室にいる全員の心に、黒いインクのようにじわじわと広がっていった。


このままでは、冬を越す前に全員が病に倒れ、死に絶える。


誰もが、その悲壮な未来を確信し、無言でうなだれていた。


その時だった。


「……大丈夫だ」


静まり返った部屋に、湊の声が響いた。


全員の視線が、十五歳の少年に集まる。


湊の顔には、この張り詰めた絶望の空気には全くそぐわない、無理に作ったような明るい微笑みが貼り付いていた。


「大丈夫だよ、陽太、結衣ちゃん。莉子ちゃんも」


湊は、不安に震える子供たちの前にしゃがみ込み、その頭を優しく撫でた。


「離れの木材はよく乾いてるから、よく燃えるんだ。今夜はいつもよりストーブを暖かくできるぞ」


「湊、お兄ちゃん……」


陽太が、泣きそうな目で湊を見上げる。


「照代さんも、疲れて眠っているだけだ。一晩寝て、暖かい部屋にいれば元気になる。明日は、きよさんに頼んで、もっといい粥を作ろう」


湊の言葉は、根拠のない気休めだったが、絶望に押し潰されそうな子供たちにとって、リーダーである湊の「大丈夫」という言葉だけが、唯一掴める命綱だったのだ。


子供たちはわずかに表情を緩め、湊の服の裾をギュッと握りしめた。


しかし、大人たちの目は違った。


湊がどれほど虚勢を張ろうと、誰も彼と目を合わせようとはしなかった。


彼らは知っているのだ。


湊の言葉が、ただの哀しい強がりであることを。


部屋の隅で、栞だけが、一人で重すぎる十字架を背負う湊の背中を見つめながら、ポロポロと涙を流していた。


【同日 夜】


夜の闇が降り、外では相変わらず音もなく白い雪が降り積もっていた。


ストーブには解体された離れの柱がくべられ、パチパチと悲しげな音を立てて燃えている。


見張りの交代まで、湊はリビングの窓際に座り、ただ炎を見つめていた。


(俺のやり方は、間違っているのか……)


自問自答を繰り返す湊の耳に、隔離スペースから漏れ聞こえる達也の苦しげな呼吸音が、呪いのように響く。


その時、二階への階段を駆け下りる激しい足音が、静寂を切り裂いた。


「湊くん! みんな、起きてくれ!」


夜間の見張りに就いていた蓮が、血相を変えてリビングに飛び込んできた。


その顔には、かつてないほどの恐怖が張り付いている。


眠りについていた大人たちが、何事かと次々に毛布を跳ね除けて起き上がった。


「どうした、蓮先輩!」


湊がバットを手に立ち上がる。


「光だ……! 窓の隙間から見えた!」


蓮は息を呑み、震える指で街の方角を指差した。


「街の方角から、こっちの山に向かって、複数の車のヘッドライトが近づいてきてる! 間違いない、こっちを真っ直ぐ目指してるぞ!」


その報告に、全員の血の気が引いた。


斉藤たちが命懸けで伝えてくれた情報。


街を焼き尽くし、食料を求めて山間部を狙うという『武装集団』。


マイナス三十度の極寒と、病に倒れる仲間。


そして今、最も恐れていた「人間という悪意」が、満身創痍の砦に牙を剥こうとしていた。

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