第11話:弔えぬ死と、積み重なる重圧
【2040年 7月7日 夜】
「……灯りを消せ!」
蓮の切羽詰まった報告を受けた湊は、反射的に押し殺した声を上げた。
即座に和室のランタンがすべて消され、二十五人の生存者たちが息を潜める暗闇が訪れた。
聞こえるのは、恐怖に凍りついた大人たちの荒い呼吸音と、ストーブの中で微かに爆ぜる薪の音だけだ。
湊はバットを握りしめたまま、静かに二階の窓辺へと忍び寄った。
目張りの段ボールをほんの数ミリだけずらし、凍てつくような外気と共に、街の方角へと視線を走らせる。
「……来てる」
湊の背後で、息を殺して外を窺っていた蓮が震える声で呟いた。
暗闇に沈む黒と白の世界の向こう、山の麓に続く坂道の下に、真っ白な三つの光の束が浮かび上がっていた。
間違いなく、三台の車のヘッドライトだ。
それは獲物を探す獣の眼光のように、ゆっくりと、しかし確実に彼らの砦へと続く道を照らし出そうとしていた。
「雪に阻まれているのか……?」
湊は、ヘッドライトが坂の下で不自然に立ち往生しているのに気づいた。
皮肉なことに、数日前から降り続いた黒い雪と、その上に重なった白い雪が、天然の防壁となって自動車の進路を塞いでいるのだ。
(汚染された雪をかき分けて、歩いて登ってくる気か……? それとも、諦めて引き返すのか?)
バットの柄を握る手に、じっとりと汗が滲む。
万が一、あの中に銃器を持った暴徒がいた場合、十五歳の少年が金属バット一本で二十四人を守り切れる保証などどこにもない。
永遠にも感じられるほど長い、十分ほどの膠着状態が続いた。
遠くから、雪にタイヤを取られて空回りするような鈍いエンジン音が聞こえてくる。
やがて、先頭の車がゆっくりとUターンを始めると、それに続くように残りの二台も方向を変えた。
三つの光の束は、山の暗闇から逃げるように坂を下り、街の廃墟へと消えていった。
「……行ったか」
誠が、暗闇の中で深々と安堵の吐息を漏らした。
和室からは、張り詰めていた糸が切れたような泣き声や、胸を撫で下ろす大人たちの声が微かに漏れ聞こえてくる。
だが、湊の心は少しも晴れていなかった。
「……次は、除雪具を持ってくるかもしれない。あるいは、昼間に徒歩で偵察に来るか……」
「湊くん?」
「彼らは、この道の上に『何か』があるかもしれないと目をつけたんです。……俺たちの存在を知られるのは、もう時間の問題だ」
湊の冷徹な分析に、蓮も無言で頷いた。
現在進めている離れの解体作業は、バールや斧の音を容赦なく山に響かせる。
静寂に包まれたこの世界において、それは「ここに生存者がいる」と触れ回る致命的な呼び鈴になりかねない。
しかし、燃料は絶対に必要なのだ。
前門の虎、後門の狼。
湊は深く目を閉じ、葛藤の末に決断を下した。
「……明日も、解体作業は継続します。ただし、警戒レベルは最大に引き上げる。夜間の見張りを一人増やします。今夜から三人体制で回してください」
その夜、湊は一睡もできなかった。
窓の外の暗闇を見つめ続け、自分の一存で二十四人の生死が決まるという責任の重さに、息が止まるほどの重圧を感じていた。
【2040年 7月8日 朝】
「……止まったわ」
午前六時、凍りつくような静寂を破ったのは、凛の悲痛な呟きだった。
隔離カーテンの奥から、真由美の堰を切ったような嗚咽が和室全体に響き渡った。
「あなた……! あなたぁっ!」
誰もが言葉を失い、死の沈黙が部屋を重く支配する。
敗血症と極寒に耐え続けていた加藤達也が、ついに息を引き取ったのだ。
湊は、力なく垂れ下がった達也の手と、毛布にすがりついて泣き崩れる真由美の姿を、ただ呆然と見下ろすことしかできなかった。
その時、父親の亡骸の傍らで立ち尽くしていた莉子が、ふらふらと湊のもとへ歩み寄ってきた。
「湊兄ちゃん……」
莉子の大きな瞳は、泣き腫らして真っ赤になっていた。
だが、そこから溢れる涙を小さな手で拭いながら、莉子は湊を真っ直ぐに見つめ上げた。
「今日は、何をすればいいの? パパが言ってたの。みんなで協力して生きなさいって……」
その幼い問いかけは、鋭い刃となって湊の胸を深々とえぐった。
五歳の子供にすら気丈に振る舞わせている自分の無力さと、父親の遺言を健気に守ろうとする小さな命の重さ。
湊の心は、千切れるほどに激しく揺さぶられた。
「莉子ちゃん……俺は……」
湊は莉子の純粋な視線から逃げるように顔を背け、きつく目を閉じた。
そして、振り絞るようにして、周囲の大人たちに冷酷な宣告を下した。
「……解体作業を優先します。達也さんを弔う時間は、今は作れません」
「なんだと!?」
健吾が弾かれたように立ち上がり、目を血走らせて湊を睨みつけた。
「昨日まで一緒に笑ってた仲間が死んだんだぞ! 祈ることすら許されないのか!」
義男も、信じられないものを見るような目で湊を見つめている。
「湊、お前……いくらなんでも非情すぎるぞ」
大人たちの猛反発を一身に浴びながら、湊は自分自身を殺すように冷たい正論を吐いた。
「時間経過とともに、昨日の集団が戻ってくるリスクが上がります。音が漏れる危険な作業は、一刻も早く終わらせるべきだ。……泣いている暇があるなら、斧を振ってください」
それは、自分自身をも極限まで追い詰めるための言葉だった。
達也の遺体をカーテンの奥に残したまま、湊は誰よりも早く防護服を身に纏い、外の凍てつく寒さの中へ飛び出していった。
バキィッ! メキメキッ!
木材を砕く暴力的な音が、まるで達也を送る空虚な葬送の鐘のように、灰色の空へ響き渡っていった。
【同日 夕方】
作業の合間、湊たちが交代で短い休息を取っていた時のことだった。
「痛っ……!」
台所として使っている土間の方から、鈍い音と短い悲鳴が上がった。
「きよさん!」
湊と凛が駆けつけると、食料庫の整理をしていた高橋きよが、凍りついた床で足を滑らせ、不自然な体勢で倒れ込んでいた。
きよは苦悶の表情を浮かべ、自分の右足をかばうように息を荒くしている。
凛が急いで駆け寄り、手袋を外してきよの足に触れた。
「……大腿骨の骨折よ」
凛の青ざめた顔と震える声が、事態の深刻さを物語っていた。
八十代という高齢での大腿骨骨折。
本来なら、すぐに救急車を呼び、適切な手術と長期のリハビリが必要な重傷だ。
しかし、病院も薬も、十分な熱源すらないこの極寒の砦において、それは「二度と歩けない」という事実を意味していた。
寝たきりになることは、この過酷な環境下では、緩やかな死の宣告に等しい。
凛は手近にあった木片と布を使い、涙を堪えながら必死に添え木を固定した。
「大丈夫じゃよ、湊。凛ちゃんも、泣かないでおくれ」
激しい痛みに顔を歪めながらも、きよはいつものような穏やかな微笑みを浮かべた。
「ばあさんは少しドジを踏んだだけじゃ。わたしのことは気にするな。あんたたちは、自分のやるべきことをやりなさい」
その気丈な言葉が、湊の心にどれほどの重さで響いたか。
湊は、何も言えなかった。
自分はリーダーとして、皆を守るために冷徹な決断を下してきたはずだった。
それなのに、仲間は次々と傷つき、倒れていく。
湊は、きよの笑顔の裏にある残酷な現実を前に、奥歯が砕けるほど強く歯を食いしばり、自らの無力さに血が出るほど拳を握りしめた。
【同日 夜】
過酷な解体作業が終わり、ようやく達也を移動させる時間ができた頃には、すっかり夜の闇が降りていた。
地面はマイナス三十度の極寒でカチカチに凍りついており、スコップで穴を掘ることなど到底不可能だった。
湊、誠、駿の三人は、達也の亡骸を担架代わりの戸板に乗せた。
向かったのは、母屋から切り離された、冷凍庫のように冷え切った倉庫の奥だった。
「……すまない、達也さん」
湊は、遺体に向かって深く頭を下げた。
助けられなかった。
まともに弔ってやることさえできなかった。
自分が下した決断は、本当に正しかったのだろうか。
達也の亡骸を安置し、倉庫の重い扉を閉める時、その重みがそのまま十五歳の少年の肩に逃げ場のない罪悪感としてのしかかった。
暗闇の中、湊は一人、誰にも聞こえない声で嗚咽を漏らした。




