第12話:地底の微かな希望
【2040年 7月9日 朝】
「義男……みんなに迷惑をかけて、本当に済まないねぇ……」
和室の隅で、川上照代が震える声でそうこぼした。
自力で起き上がり、配給された薄い粥を数口飲み込めるまでに回復した母の姿に、大柄な義男の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「何言ってんだよ、母ちゃん。生きてりゃいいんだ……生きててくれて、本当によかった」
その安堵の涙は、極限状態の中で張り詰めていた川上家の人々、そして周囲の大人たちの心をわずかに解きほぐした。
だが、部屋全体の空気は決して明るいものではなかった。
和室の隔離スペースでは、加藤真由美と莉子が、達也のいない冷たい布団の横に座り込み、無言で倉庫の方角を見つめ続けていた。
「パパ、寒くないかなぁ……」
莉子がぽつりと呟くその無邪気な声は、大人たちの胸を鋭利な刃物でえぐるような痛みを伴っていた。
誰も、その問いに答えることはできなかった。
一方、寝たきりとなってしまった高橋きよの看病を続ける凛の顔にも、深い疲労と恐怖の色が濃く滲んでいた。
きよの肌は、栄養不足と低体温によってまるで古い和紙のように薄く、脆くなっている。
褥瘡を防ぐために二時間おきに体位を変換しているものの、凛は拭いきれない不安を一人で抱え込んでいた。
(このままでは、遅かれ早かれ感染症を防げなくなる……)
医療設備も抗生物質もないこの極寒の砦で、八十代の寝たきりの老人を生かし続けることは、奇跡に近い難題だった。
【同日 09:00】
外では、離れの解体作業がいよいよ最終局面を迎えていた。
「これで、運び込むのは最後だ」
湊は、車庫の奥に天井まで積み上げられた薪の山を見上げ、何度目かの計算を頭の中で繰り返した。
これだけあれば、節約しながら燃やして、およそ二ヶ月は持つだろう。
しかし、核の冬が半年以上続くと仮定すれば、まだ三回はこの規模の解体が必要になる計算だ。
だが、彼らの拠点にもう壊せる「離れ」は存在しなかった。
これ以上家を壊せば、居住スペースである母屋の壁を崩すことになり、防寒の観点から自滅を意味する。
湊の脳裏に、数日前に見た謎の車が不吉な影としてちらついた。
(昨日のライトが偵察だったとしたら、今日にでも戻ってくる可能性がある。……音を出しての作業は、今日で完全に終わりにしなければならない)
限界が、すぐそこまで迫っていた。
【同日 14:00】
午後になり、和室の一角で湊は一人、畳を剥がしてその下にある床板を取り外していた。
剥き出しになった床下の暗い土を、血走った目でじっと見つめている。
「凛さん、ちょっといいですか」
湊の低く押し殺したような声に、看病の手を止めた凛が歩み寄った。
呼ばれた凛は、湊の異様にやつれた顔と、泥だらけになった手を見て絶句した。
湊は震える指先で、床下の土を指差した。
「外はマイナス三十度です。でも、この土の下はどうなっていると思いますか?」
「土の下……? 一体何を言っているの?」
湊は、かつて学校の授業で習ったわずかな知識を頼りに、必死に言葉を紡いだ。
「アースチューブ、あるいは地中熱利用の概念です。……外気がどれだけ冷たくても、土の中、つまり恒温層まで行けば、地球の熱が一定の温度を保っているはずですよね」
凛の目が、驚愕に見開かれた。
「薪を燃やして空気を温めるのは、効率が悪すぎるんです。地球の熱を、この部屋の底上げに使えないでしょうか。一、二度でもいい……きよさんや莉子ちゃんが凍死しないための、ベースとなる温度が欲しいんです」
凛は専門外の知識を必死に引っ張り出し、湊の提案を科学的に検証し始めた。
(……確かに、理論的には間違っていないわ。凍結深度より下、できれば数メートル掘り下げることができれば、地中の温度は五度から十度程度を維持しているはず。直接的な暖房にはならなくても、マイナス三十度の冷気を遮断する空気の層を作れれば、断熱効果は計り知れない……)
凛は、湊の「何としてでも全員を救おうとする執念」に圧倒されていた。
「……理論的には、深く掘れば可能性はあるわ。でも、人力でそこまで掘るなんて……」
「やります。やるしかないんです」
湊の瞳に宿る狂気にも似た決意を見て、凛は小さく頷き、二人で汚染されていない深層の土を掘削するための計算をノートに書き込み始めた。
【同日 20:00】
夜の静寂が包む中、見張りに立つ三人を除いた大人たちが、和室の中心に円座になって集まった。
ランタンの薄暗い灯りが、疲労困憊した彼らの顔に深い影を落としている。
湊は、静かに、だがはっきりとした声で現状を切り出した。
「皆さんの頑張りのおかげで、薪は二ヶ月分確保できました。しかし、これ以上大きな音を出すのは危険です。明日からは、斧を振るうような作業は一切禁止します」
大人たちの間から、安堵の吐息が漏れた。
だが、湊の次の言葉が、その空気を一瞬にして凍りつかせた。
「……その代わり、明日から皆さんに協力してほしいことがあります。床下の土を、掘削します」
「はぁ!?」
即座に悲鳴に近い声を上げたのは、健吾だった。
「正気か湊! 今日の解体で、みんな体力の限界なんだぞ! この凍てつく寒さの中で、今度は土を掘れっていうのか!」
義男も、困惑したように太い眉をひそめた。
「湊、お前の気持ちはわかるが……土を掘って何になるんだ? まさか、穴を掘って墓でも作る気じゃないだろうな」
大人たちの怒りと不信感が、和室の空気を険悪なものに変えていく。
しかし、湊は表情一つ変えずに、ただ鋭い眼光で大人たちを冷徹に見据えた。
「薪が尽きれば、次は誰が倉庫に行くか選ぶことになります。……そうなりたくないから、提案しているんです」
その冷酷すぎる言葉に、健吾が激昂して湊の胸ぐらを掴もうと立ち上がった。
「てめぇ……! 達也を死なせたくせに、まだ俺たちをこき使う気か!」
「待て、健吾!」
誠が素早く健吾の腕を掴み、力ずくで押しとどめた。
「湊の言うことが一番現実的だ。俺たちは昨日、街から来た3台の車を見た。音を出しての解体は、もう本当に限界なんだよ」
荒い息を吐く健吾を前に、凛が静かに口を開いた。
「医学的な観点から言っても、きよさんの体力を維持し、子供たちを感染症から守るには、今の暖房効率では不十分です。地熱で床下の温度を数度でも安定させられれば、生存率は劇的に上がります」
凛は、大人たちを説得するように力強く言い切った。
「……これは『作業』ではありません。私たちの命を繋ぐための『延命治療』だと思ってください」
「延命」という言葉の重い響きに、大人たちは完全に沈黙した。
もはや、誰にも反論する気力も、代替案も残されてはいなかった。
重苦しい空気の中、床下の掘削作業の開始が決定された。
【同日 22:00】
重い会議が終わり、皆が冷たい毛布に潜り込んで眠りにつく中、湊は一人、剥がされた畳の下の暗い土を見つめていた。
斧を振り続けた手のひらのマメは無残に潰れ、肉が裂けて血が滲んでいる。
だが湊は、それを洗い流す水すら惜しんで、手近にあったボロ布で固く縛り上げただけだった。
痛みに顔を歪めながらも、明日はこの手でスコップを握り、凍てつく土を掘らなければならない。
(俺は、達也さんを助けられなかった。だから、これ以上は絶対に誰も死なせない)
その強迫観念にも似た罪悪感が、湊を必死に「次の一手」への作業へと駆り立てていた。
狂気の世界で正気を保つためには、感情を殺して手を動かし続けるしかなかった。
その痛々しく孤独な背中を、毛布の隙間から栞だけが遠くで見つめていた。
(湊くん……あんまり、自分を責めないで)
声をかければ、彼がギリギリで保っている糸が切れてしまうような気がして、栞のその切実な言葉は、喉の奥に飲み込まれたままだった。
果てしない核の冬の中で、十五歳の少年は暗い地底の奥に、ただ一つの微かな希望を見出そうとしていた。




