第13話:亡者の遺言と、凍土の盟約
【2040年 7月9日 早朝】
和室の畳が剥がされたその場所は、もはや「家」の一部ではなかった。
剥き出しの土、重苦しい湿り気、そして底冷えする闇。
それは、生きながらにして墓穴を掘っているような不吉な光景だった。
「……湊くん、交代しましょう。手が、もう……」
傍らに跪いた栞が、震える声で湊の背中に語りかけた。
湊は答えない。
ただ、ストーブの赤熱した炭の中から、真っ赤に焼けた鉄棒を十徳ナイフのペンチで掴み出した。
ジウッ、と軍手が焦げる嫌な臭いが鼻を突く。
湊はその熱を、凍てついた床下の土へと力任せに突き刺した。
「ジウウウッ……!」
不気味な水蒸気が上がり、土がわずかに弛緩する。
その一瞬の隙を逃さず、湊はバールを振り下ろした。
カツン、と硬質な衝撃が腕を伝い、節々に痺れが走る。
一日に十数センチ。
それが、十五歳の少年が命を削って手に入れられる「地底への距離」だった。
(達也さんを、凍った倉庫に置いたままなんだ)
その罪悪感が、湊の背中を押し続けていた。
手を止めれば、あの冷たい沈黙に飲み込まれてしまう。
軍手の下で、斧を振り続けた手の平の肉が裂け、乾いた血が泥と混じって固まっている。
剥がそうとすれば激痛が走るが、その痛みさえも、彼にとっては「生」を繋ぎ止めるための楔だった。
「湊……無理をするな。俺たちが代わる」
義男がスコップを手に進み出た。
彼の顔もまた、疲労と寒さで土気色に沈んでいる。
掘り出された「温かい土」は、次々と土嚢袋に詰められ、母屋の北壁へと運ばれていった。
吹雪という名の暴力から、この薄氷の砦を守るための防波堤を作るために。
【同日 10:00】
「嫌……! 湊くん、それだけは嫌よ!」
和室に祥子の悲痛な叫びが響いた。
高熱にうなされ、胸をかきむしるように咳き込む陽太。
その小さな体を抱きしめた祥子が、湊を鬼を見るような目で見つめている。
「陽太を、あそこへ入れるなんて……! 加藤さんが亡くなった、あの場所に!」
カーテンで仕切られた隔離スペース。
数日前まで加藤達也が敗血症と戦い、そして力尽きた場所だ。
死の残り香が漂っているようなその空間へ、自分の息子を移せという湊の指示に、祥子の母性は激しく拒絶を示した。
「……あそこが、ストーブの熱が一番滞留する場所なんです」
湊の声には、起伏がなかった。
同情を排し、ただ事実だけを告げる声。
「照代さんは回復しました。次は、陽太くんを救わなければならない。縁起がいいか悪いかではなく、生きるか死ぬかで判断してください」
祥子は絶句し、湊の足元に崩れ落ちた。
湊はその肩を抱き寄せることもせず、ただカーテンを引いた。
その光景を、数メートル離れた場所から結衣がじっと見つめていた。
ウサギのぬいぐるみを抱きしめる指が、白くなるほど強く握られている。
「お兄ちゃん、死んじゃうの……?」
結衣の消え入りそうな問いに、湊は答えることができなかった。
代わりに凛が結衣の隣に座り、その細い肩を抱く。
凛の瞳にも、絶望の色が滲んでいた。
八十代のきよの骨折、そして九歳の陽太の発熱。
手元にあるのは、残り少ない解熱剤の錠剤が数粒。
(どちらを救うべきか、なんて……私に選ばせないで)
科学者としての凛の理性が、最悪のシナリオを次々と書き出していく。
和室の空気は、掘削された土の臭いと、死への恐怖で濃密に濁っていた。
【同日 13:30】
「湊! 来い、二階だ!」
見張りに立っていた駿の声が、砦の沈黙を切り裂いた。
湊は泥だらけのバールを放り出し、階段を駆け上がった。
目張りの隙間から外を覗く。
白い吹雪の向こう、坂の下で何かが停滞している。
「エンジン音か……?」
「ああ。だが、車は見えない。スタックして止まったのか、それとも……」
「わざと手前で降りたんだ」
湊は即座に断定した。
この雪の中を、徒歩で、獲物を悟らせないように近づいてくる。
それは強盗の常套手段だ。
「防衛班、全員配置に! 武器を持て! 決して声を出すな!」
誠、義男、鉄造。
大人たちがそれぞれスコップやバールを手に、玄関の影に潜む。
心臓の鼓動が耳の奥で早鐘を打つ。
その時だった。
「……おーい! 坊主! いるんだろ!」
吹雪を突き破って、野太い声が響いた。
湊は息を止める。
聞き覚えのない声。
だが、その言葉に全員が凍りついた。
「塩を持ってきたぞ! 出てこい!」
塩。
この世界において、それは米と同じか、それ以上に貴重な「命の結晶」だ。
湊は一瞬、斉藤と木本の顔を思い浮かべたが、すぐに打ち消した。
彼らが戻ってこられるはずがない。
「……俺は斉藤の友人だ! あいつの最期の願いを聞いて、ここまで来たんだよ!」
湊は、誠と視線を交わした。
誠の目は「罠だ」と語っている。
だが、もし本当だとしたら?
湊は防護服のフードを深く被り、ガスマスクを装着した。
「誠さん、駿さん、義男さん……外に出ます。僕を含めて六人。あとの人は、何があっても扉を開けないでください」
【同日 14:00】
玄関の重い扉が開くと、暴力的な冷気が室内に流れ込んだ。
十メートル先。
雪の中に、三人の影が立っていた。
灰色に汚れた合羽、不格好なガスマスク。
手には錆びた鉄パイプ。
実して、中央の男が胸に抱えている、ビニールに包まれた白い塊。
「……斉藤さんはどうした」
湊の声が、マスク越しに籠って響く。
「三日前に死んだよ。最後は肺をやられて、血を吐きながら笑いやがった。……木本もその翌日だ。あいつら、死ぬ間際までこの塩の袋を離さなかったぜ。『あの坊主がいなけりゃ、俺たちはもっと早く野垂れ死んでた。恩を返さなきゃならねぇ』ってな」
男の声は、吹雪に混じって低く、重く響いた。
湊の胸の奥で、何かが激しく軋んだ。
自分は彼らを利用したのだ。
米という餌を与え、情報を引き出し、用済みになれば切り捨てた。
それなのに、彼らはその冷酷な「取引」を、極限状態における唯一の「人間らしい繋がり」だと信じたのか。
「……中身を確認しろ。未開封だ。10キロある」
男が塩の袋を雪の上に置いた。
「代わりに、米を20キロ。分けてくれるか」
背後で、誠が湊の袖を強く引いた。
「湊、戻れ。奴ら、米がある場所を確認しに来ただけかもしれないぞ」
だが、湊は動かなかった。
もし、ここで拒絶すれば。
彼らは斉藤たちの遺志を裏切られたと感じ、次は「略奪者」として戻ってくるだろう。
今の砦に必要なのは、壁を厚くすることではない。
外の世界に、対等に話ができる「隣人」を作ることだ。
「……わかりました。米を準備します。その場を動かないでください」
湊は駿と義男に指示を出し、車庫から米の袋を運ばせた。
雪の上に置かれた塩と、運ばれた米。
男たちが米を抱え、二十メートルほど後退する。
湊はその隙に塩の袋を回収した。
ずしりと重い。
その重みは、死んでいった二人の男の、命の重さそのもののように感じられた。
「……坊主、いい面構えだ。斉藤が惚れるわけだぜ」
リーダー格の男が、去り際にそう吐き捨てた。
「街はもう終わりだ。次はねぇぞ。……生きろよ、ガキ」
男たちは吹雪の向こうへと消えていった。
【同日 夕方】
湊は、塩の袋を徹底的に拭ってから和室へと持ち込んだ。
だが、和室で待っていたのは歓喜ではなく、激しい議論だった。
「無茶だ、湊! 情報を売ったも同然じゃないか!」
健吾が荒い息を吐きながら詰め寄る。
「あの男たちが街で『あそこに米があるぞ』と言いふらしたらどうする! 善意なんて、この世界にあるわけがないだろう!」
「……だからこそ、取引したんです」
湊は、バールを握り直し、再び床下の暗い穴へと視線を向けた。
「奪うよりも、取引する方が『得』だと思わせる。それが、僕たちの唯一の防衛策です。彼らにとって、僕たちは『有利な取引ができる相手』でなければならない。」
湊の言葉には、十五歳とは思えない、絶望に裏打ちされたリアリズムがあった。
凛は、湊の泥だらけの、震えている手を見つめていた。
凛は静かに湊の隣に座り、汚れたその手に自分の手を重ねた。
「よくやったわ、湊くん。本当に」
凛の優しい声に、湊の肩が一瞬だけ小さく震えた。
だが、彼はすぐにその震えを抑え込み、再び凍てついた土を砕くためにバールを振り上げた。
陽太の苦しげな咳が、隔離スペースから響いてくる。
外では、汚染された白い雪が、すべてを埋め尽くそうと降り積もっている。
湊は、暗い地底の奥に、一筋の熱源を求めて、再びその身を削り始めた。




