第14話:凍土の聖域と、少年の傲慢
【2040年 7月10日 早朝】
カツン、カツンという無機質な音が、冷え切った床下の暗闇に吸い込まれていく。
湊は、泥と血でどす黒く変色した軍手でバールを握りしめ、ひたすらに凍土を砕き続けていた。
十徳ナイフで挟んだ赤熱する鉄棒を突き刺し、わずかに溶けた表面を削り取る。
床下の掘削現場は、大人二人が肩を寄せ合って作業するのが精一杯なほどに狭く、這いつくばるような姿勢での重労働が続く。
一日に掘り進められるのは、せいぜい十数センチの深さだった。
このままのペースで行けば、一ヶ月不眠不休で掘り続けたとしても、約五メートル。
理論上、地熱の影響を受ける恒温層に達する可能性はあるが、計算は決定的に狂っていた。
車庫に積み上げられた薪の残量は、どれだけ節約しても二ヶ月分しかない。
掘り終えてから、その地熱を和室へと循環させるシステムを構築する時間を考えれば、猶予はまったくないも同然だった。
(間に合わないかもしれない……。)
湊の脳裏を、絶望的な予測が何度もよぎる。
しかし、その思考を振り払うように、湊はさらに強くバールを振り下ろし、自分は感情を持たない機械なのだと、必死に思い込もうとしていた。
思考を止めなければ、この暗い穴がそのまま自分たち全員を飲み込む巨大な墓穴に見えてしまうからだ。
痛覚も、疲労も、恐怖も、すべてを削り落として、ただ土を掘るための歯車になることしか、十五歳の彼にできることはなかった。
【同日 10:00】
「母ちゃん……立てるのか……!」
和室の一角から、義男のくぐもった、しかし喜びに震える声が上がった。
栄養失調と心不全の疑いで昏睡状態に陥っていた川上照代が、壁に手をつきながらも、自力で立ち上がっていたのだ。
青白かった頬にはわずかに血の気が戻り、その目には生きる意志の光が宿っていた。
「義男……心配、かけたねぇ……。」
照代は震える声でそう言うと、駆け寄ってきた屈強な息子の手を取り、静かに涙を流した。
その光景は、死の影が色濃く立ち込めるこの砦において、久しぶりに咲いた希望の花だった。
周囲の大人たちも、安堵の表情でその親子の姿を見守っている。
だが、その温かい空気を、か細く震える声が切り裂いた。
「凛ちゃん……お願いがあるんじゃが……。」
声の主は、部屋の隅で寝たきりになっている高橋きよだった。
大腿骨を骨折し、自力で寝返りを打つことすらできなくなった彼女は、照代の回復を誰よりも穏やかな微笑みで見つめていた。
看病をしていた凛が、きよの口元に耳を寄せる。
「わたしを、あの倉庫へ運んでおくれ……達也さんのいる、あの場所へ……。」
その言葉の意味を理解した瞬間、凛の全身から血の気が引いた。
「きよさん、何を……!」
凛は悲鳴のような声を上げ、その場に泣き崩れた。
きよは、自分の存在がこの物資の乏しいコミュニティにおいて、どれほどの重荷になっているかを正確に理解していたのだ。
照代が回復し、陽太が熱に苦しむ今、自分のような歩けない老人は、一刻も早く口減らしのために消えるべきだと、彼女は静かに悟っていた。
凛の嗚咽が、重苦しい和室に響き渡る。
科学者としての合理的な判断と、人間としての倫理観の狭間で、凛の心は完全に悲鳴を上げていた。
自分には何が正しいのか、命の重さをどう量ればいいのか、誰にも答えを出すことはできなかった。
誰もが言葉を呑み、絶望的な沈黙が場を支配したその時だった。
「……勝手に死ぬことは、許しません。」
床下の穴から這い上がってきた湊が、泥だらけの姿で静かに言い放った。
息を切らし、目は血走っているが、その声には一切の揺らぎがなかった。
湊は、ゆっくりときよの枕元まで歩み寄り、彼女の顔を真っ直ぐに見据えた。
「生きている限り、決して見捨てない。……僕たちにはまだ、きよさんの知恵が必要なんです。この地獄を生き抜くための、昔の人の知恵が。」
それは、優しさや同情のような言葉ではなく、あえて「実利」を盾に取ったような言葉であった。
自分がまだこの砦の役に立つ存在であるという、呪いにも似た生きる理由を、きよに強引に植え付けようとしていた。
「姿勢の変え方、褥瘡の防ぎ方……。女性陣全員ができるように、凛さんから教わって、覚えてください。」
湊は、周囲の大人たちに向けて断固たる口調で指示を出した。
きよは驚きに目を見開き、目の前に立つ少年の瞳に宿る、傲慢なまでの生への執着を見つめていた。
やがて、きよは深く目を閉じ、涙をひとすじ流して、静かに微笑んだ。
「……わかったよ、湊。あんたがそこまで言うなら、ばあさんの知恵、全部絞り出してやろうねぇ……。」
【同日 夕方】
ゴホッ、ゴホッ!
薄暗い和室に、乾いた激しい咳の音が響き渡った。
床下の穴から顔を出した湊は、即座に視線を鋭くした。
咳き込んでいたのは、祥子だった。
彼女は口元を布で押さえ、熱に浮かされたように肩で息をしている。
「凛さん、結衣ちゃんに症状は出ていませんか。」
湊の冷徹な問いかけに、凛は急いで結衣の額に手を当て、様子を確認した。
「……結衣ちゃんは大丈夫。熱もないし、咳も出ていないわ。」
その報告を聞いた湊の表情から、一切の感情が抜け落ちた。
「結衣ちゃんを、北条に預けてください。祥子さんは、陽太くんのいる隔離スペースへ移動を。」
その宣告は、非情なほどに迅速だった。
祥子は、自分が感染したことを悟り、息子の元へ行けるという安堵と、健康な娘から引き離される苦しみが入り混じった、複雑に歪んだ表情を浮かべた。
「結衣……ごめんね……ママ、すぐ良くなるからね……。」
祥子は涙を堪えながら、結衣に触れることすらできず、自ら隔離カーテンの奥へと歩を進めた。
取り残された結衣は、状況が理解できないまま、栞の腕の中で呆然としていた。
だが、カーテンが完全に閉まり、母親の姿が消えた瞬間、結衣は狂乱したように泣き叫び始めた。
「ママ! お兄ちゃん! 嫌だ、嫌だぁっ!」
結衣は栞の腕を振りほどこうと暴れ、和室の壁を小さな手で何度も何度も叩いた。
その悲痛な絶叫は、和室にいる全員の心を容赦なく引き裂いた。
湊の胸の奥で、鼓動が一つ鳴るたびに、心臓がナイフで削り取られるような激しい痛みが走った。
自分が下した決断が、幼い少女から母親を奪い、絶望の淵に突き落としたのだ。
【同日 夜】
和室の片隅で、湊は震える手で明日の作業工程表をノートに書き殴っていた。
泥と血で汚れたその手から、ポロリとペンが滑り落ちる。
それを拾い上げたのは、駿だった。
「湊、もう休め。三日まともに寝てないだろ」
駿の声に顔を上げると、見張り中の徳治と鉄造以外の防衛工作班の男たちが周囲を囲むように立っていた。
誠、健一、健吾、蓮、そして義男。
「だめです。まだ、やらなきゃいけないことが……」
再びバールを取りに行こうとする湊の肩を、誠が強く押さえつけた。
「お前が死んだら、この砦はどうなる。俺たちは誰を頼ればいいんだ」
誠の言葉は重く、しかし確かな気遣いに満ちていた。
「リーダーが狂気にとり憑かれれば、コミュニティは一瞬で崩壊する。湊、お前の過労は、砦にとって最大のリスクだ」
蓮が眼鏡を押し上げながら、冷静な口調で事実を突きつける。
健一も静かに頷き、その場の全員が厳しい表情で湊を見つめていた。
「生意気なガキだがな、お前に死なれたら俺の家族が路頭に迷うんだよ。……少しは大人を頼れ」
健吾が吐き捨てるように言ったが、その声には以前のような反発ではなく、不器用な信頼が滲んでいた。
義男が湊から強引にバールを奪い取る。
「今日の掘削は俺たちで回す。お前は寝ろ。これは防衛工作班全員の総意だ」
大人たちの重圧と、砦を支えようとする強い意志。
湊は反論する気力を失い、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。
「……すみません。少しだけ、休みます」
毛布を被り、横になる湊を、大人たちは安堵の表情で見守った。
【同日 深夜】
だが、湊は眠れなかった。
結衣の泣き声が、幻聴のように湊の耳の奥にこびりついて離れない。
大人たちの優しさは痛いほどわかっていたが、目を閉じれば迫り来るタイムリミットの恐怖が彼を締め付けた。
湊は音を立てぬよう毛布を抜け出した。
防衛工作班の男たちが、狭い床下で交互に背を丸め、苦悶に近い声を漏らしながら土を掘っている。
その背中を横目に、湊は別の道具を手に取ろうとした。
「……どこへ行くの、湊くん」
背後から低く、抗いがたい威圧感を持った声がした。
凛だった。
彼女の瞳は昏く、その表情には砦の健康を預かる身としての非情さと、姉のような慈愛が混濁していた。
「掘削が間に合わないかもしれないんです。僕が行かないと……」
「いいえ。あなたは今、ここで壊れるわけにはいかないの」
凛は湊の細い手首を掴むと、驚くほどの力で湊を立たせ、暗い廊下の奥へと強引に連行した。
そこには、結衣を寝かし付けた栞が待っていた。
二人は言葉を交わすこともなく、湊を挟み込むようにして布団へと押し込んだ。
「やめてください、凛さん、栞さん……僕は……!」
湊の抵抗は、二人の女性の決然とした沈黙の前に霧散した。
凛が湊の肩を強く押し込み、栞が背後から彼の視界を塞ぐように抱きしめる。
暗闇の中、湊の鼻腔を微かな薬品の臭いと、湿った布の感触が掠めた。
何かが湊の項に触れ、あるいは喉元を通り過ぎた。
それが凛の指先による圧迫だったのか、栞が含ませた何かだったのか、湊には判別がつかなかった。
意識の縁が、急速に泥のように濁っていく。
「おやすみなさい、湊くん。あとは大人に任せなさい……」
凛の囁きが遠ざかる。
湊の身体から急激に力が抜け、抗う術を失ったまま、底のない深い闇へと突き落とされた。
十五歳の少年は、自らの魂を削りながら戦い続けたその果てに、強制的な安らぎの中に沈んでいった。




