第15話:沸騰する絶望と、短期決戦の業火
【2040年7月12日朝】
目が覚めた時、湊は自分がどこにいて、何をしているのか、一瞬理解できなかった。
暗く、重い空気が澱む和室。
毛布の擦れる音。
まるで半月ほども続く、泥のような悪夢の底を這い回っていたような、不思議で現実感のない感覚だった。
(……俺は、たしか床下を掘っていて……)
薄ぼんやりとした頭で周囲を見渡すと、床下の穴から這い出てきた誠と目が合った。
誠の顔は土と汗にまみれ、酷く疲弊している。
「あ……すみません、誠さん。俺、少し寝すぎたみたいで……代わります」
湊が身を起こそうとした瞬間、全身の筋肉が軋むような痛みを訴えた。
誠は力なく首を横に振り、泥だらけの手で顔を拭った。
「……いいんだ、湊。交代でやっていて、さっき義男と代わったばかりだから大丈夫だ」
「交代……?」
湊は壁に掛けられた時計を見た。
針は、朝の六時を示している。
自分が最後に時計を見たのは、深夜の十二時近かったはずだ。
「……六時間も、休まんでしまったんですね」
「六時間じゃない」
誠の返答に、湊は息を呑んだ。
「お前が倒れたのは、一昨日の夜だ。
……丸一日と少し、二十七時間寝ていたんだよ」
血の気が引くのがわかった。
二十七時間。
その途方もない空白の時間、自分がこの砦の防衛と生存の責任を完全に手放していたという事実。
だが、湊を本当に凍りつかせたのは、和室を覆う「異常なまでの静けさ」だった。
(陽太くんの、咳が聞こえない……)
嫌な予感が全身を駆け巡った。
湊は毛布を跳ね除け、よろめく足で立ち上がった。
部屋の隅を探すと、壁に背を預けるようにして座り込んでいる凛の姿があった。
凛の瞳は虚ろで、焦点が合っていない。
湊が近づいても、ピクリとも反応せず、ただ膝を抱えていた。
「凛さん……」
声をかけても、返事はない。
湊の心臓が早鐘を打ち始めた。
震える手で、隔離スペースのカーテンに手をかける。
少しだけ開いた隙間から見えた光景に、湊の脳は状況の理解を激しく拒絶した。
薄暗い隔離スペースの中で、祥子が陽太を抱きしめるようにして丸くなっていたのだ。
「……よかったねぇ、陽太。もう、苦しくないねぇ……」
祥子は虚ろな声で子守唄のように呟きながら、陽太の頭を撫でている。
だが、その腕の中にいる陽太の顔色は、まるで蝋細工のように白く、土気色に変色していた。
小さな胸は、もう一ミリも上下していない。
「う、あ……」
湊の喉から、声にならない呻きが漏れた。
「……自分を責めちゃいけないよ、湊」
背後から、ひどく掠れた声がした。
寝たきりの高橋きよだった。
彼女は悲哀に満ちた目で湊を見上げ、ゆっくりと首を横に振った。
「昨日の夜中じゃった。陽太の容態が急変してね……肺炎じゃった。呼吸ができなくなって、凛ちゃんが必死に心臓マッサージをしたんじゃが……手の施しようがなかった」
きよの言葉が、湊の脳裏に現実として突き刺さっていく。
「祥子さんも、熱と衰弱でギリギリの状態じゃ。……結衣ちゃんには、まだ誰も話せていない」
新たな病人が出ていないことだけが、唯一の救いだったが、それは九歳の少年の死という、あまりにも残酷な事実の前では何の慰めにもならなかった。
湊は、よろよろと後ずさり、壁際で固まっている凛の隣に座り込んだ。
科学と医療の知識を持ちながら、薬も器具もない世界で命が零れ落ちるのを看取るしかなかった彼女の絶望は、計り知れない。
湊は無言のまま、泥だらけの自分の手で、冷え切った凛の手を強く握りしめた。
凛は微かに肩を震わせたが、涙すら枯れ果てているようだった。
「……陽太を、移動させなければならない」
重苦しい沈黙を破ったのは、健吾だった。
目の下には真っ黒な隈ができ、頬はこけている。
だが、その目には父親としての悲痛な覚悟が宿っていた。
「駄目ぇっ!陽太を連れて行かないで!」
健吾が隔離スペースに足を踏み入れた瞬間、祥子が獣のような悲鳴を上げた。
「この子は寝てるだけよ!寒いところに連れて行ったら、風邪を引いちゃうじゃない!」
祥子は狂乱して健吾の腕を引っ掻き、噛みつこうとする。
健吾は顔を歪めながらも、妻の抵抗を力ずくでねじ伏せ、その細い腕から冷たくなった我が子を引き剥がした。
「ごめんな……祥子、ごめんなぁ……!」
健吾は泣き叫ぶ妻を後に残し、自らの腕で陽太の遺体を抱き上げ、母屋の奥、達也が眠るあの凍てつく倉庫へと向かって歩き出した。
湊は、その背中をただ見送ることしかできなかった。
無力だった。
自分の合理性も、狂気も、冷徹な決断も、この死の連鎖を止めることはできなかった。
(……どうすれば、生き延びることができる?)
絶望の淵で、湊の思考が異常な速度で回転し始める。
これ以上の犠牲を出さないために必要なのは、長期戦の構えではない。
【同日08:00】
重苦しい空気が支配する中、湊は生存者全員(隔離された祥子を除く)を和室の中心に集めた。
「……短期戦に切り替えます」
湊の声は、ひび割れていたが、鋼のような硬さを持っていた。
「床下の掘削作業に、お湯を使います」
その言葉に、大人たちがざわめいた。
「お湯だと?」
と義男が眉をひそめる。
「凍りついた土を、熱湯で溶かしながら掘り進めます。当然、今までの比じゃない量の薪を消費することになります」
「待て、湊!」
田中健一が鋭く声を上げた。
「貴重な薪を土を溶かすために使うなど、正気の沙汰じゃない。それに、井戸水の容量だって無限じゃないんだぞ!無駄な消費は避けるべきだ!」
「今のペースで掘っていても、恒温層に達する前に僕たちは全滅します」
湊は健一の言葉を冷徹に遮った。
「現状維持を選べば、一ヶ月後、薪の在庫が半分になる頃には……ここにいる仲間の半分が死んでいる。陽太くんのように、寒さと病気で次々と死んでいく。そんな未来がやってくるんです!」
湊の突きつけた残酷な現実に、反論しようとした健一の口が止まった。
「現在の薪の在庫量では、全員を救うことは不可能です。なら、賭けるしかない。一週間以内に床下を掘り抜き、地熱を利用した循環システムを完成させられなければ、俺たちの生存はない。そう考えるべきだ」
和室は、水を打ったような静寂に包まれた。
湊の提案は、文字通り「命のカウントダウン」を早める劇薬だ。
だが、緩やかな死を待つよりは、生存の可能性に全振りするべきだという狂気じみた説得力が、そこにはあった。
「……さらに、掘削で出た土の処理方法も変えます」
湊は床下の図面をノートに書き殴りながら続けた。
「出た土は外に運び出さず、床下の奥から隙間なく埋め固めていきます。掘り下げた空間の底面に地熱を蓄え、冷たい土で周囲を断熱する。地熱利用を前提とした空間設計に切り替えます」
もはや、誰一人として異を唱える者はいなかった。
【同日午後】
ストーブの上に置かれた巨大な寸胴鍋で、常に湯が沸かされるようになった。
皮肉なことに、大量の湯を沸かし続けることで和室内の気温は少しだけ上昇し、生き残った者たちの凍りついた身体をわずかに解きほぐした。
床下では、沸騰した湯が凍土にかけられ、白い蒸気と泥の匂いが充満している。
泥状になった土をスコップで掻き出し、それを床下の奥へ奥へと敷き詰めていく。
湯の力は絶大だった。
その日だけで、これまでの数日分に匹敵する一メートルの掘削に成功したのだ。
だが、代償は大きかった。
夕方、車庫の薪の量を確認した誠が、青ざめた顔で報告に戻ってきた。
「……湊くん。このペースで燃やし続ければ、薪はあと三週間で完全に尽きる」
二ヶ月あったはずの猶予が、一瞬にして三週間に縮んだ。
システムが完成するまでの目標期間は一週間。
もし失敗すれば、三週間後には全員が凍死する。
背水の陣であった。
夜の帳が下りる頃、土まみれになって上がってきた健吾に、湊は静かに尋ねた。
「……結衣ちゃんには、陽太くんのこと、どう伝えるんですか」
結衣は一日中、栞のそばで「お兄ちゃんは?」と怯えたように尋ね続けていた。
健吾は真っ赤に充血した目で、一度だけ深く深呼吸をした。
「……俺が、言う。陽太の分まで、俺が結衣を守る」
健吾はそれだけを告げると、再びスコップを握りしめ、暗い穴の中へと消えていった。
短期決戦の総力戦。
土を床下に詰め込む作業が加わったことで人手が圧倒的に不足し、見張りに割ける人員は三名から二名へと減らされた。
外の脅威に対する防衛力が低下するという、致命的なリスクだった。
「私も、やります」
和室の隅から立ち上がったのは、栞と、真由美だった。
彼女たちの顔にも、後がないという悲壮な決意が滲んでいた。
「土を運んで、奥に詰める作業ならできます。私にも……手伝わせてください」
湊は、ただ黙って頷いた。
十五歳の少年と少女、そして大人たちは、沸騰する絶望の底で、狂ったようにスコップを振るい、凍てつく泥を這い回る。
残り三週間。
彼らの命を懸けた、地底への競争が始まった。




