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ラスト・サイレンス ― 核の冬に芽吹く祈り ―  作者: tky@3作品同時連載中


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第8話:降り積もる白と、確かな果実

【2040年 7月4日 10:00】


あの「取引」から、五日が経過していた。


佐伯家のリビングには、依然として重く冷ややかな空気が澱んでいた。


「……やはり、拠点の場所を教えるべきではなかった。彼らが仲間を引き連れて、いつ夜討ちをかけてくるか分かったもんじゃない」


「米をタダで渡すなんて、甘すぎる。あんな奴ら、どうせ逃げたに決まってる」


小林健吾や川上義男といった慎重派の大人たちが、ことあるごとに溜息混じりに溢す懸念。


それは、家族を守りたいという、親として、大人としての当然の防衛本能だ。


(……分かっている。リスクがあることなんて)


部屋の隅でランタンの調整をしながら、十五歳の湊は人知れず奥歯を噛み締めていた。


全員を救うための「最適解」を選んだつもりだった。


十トンある米はいずれ消費しきれずに傷むが、人間が生きていく上で絶対に欠かせない塩の備蓄には不安があった。


何より、外の世界の動向を探る「目」が必要だった。


しかし、未来の犠牲を防ぐための投資と、現在の絶対的な安全。


その二つを天秤にかける難しさに、湊の胃は焼け焦げるような重圧を抱え続けていた。


そんな張り詰めた大人の世界を、一枚の薄氷の上で繋ぎ止めていたのは、皮肉にも幼い子供の存在だった。


「ほら結衣、見てろよ! 莉子ちゃんも! 必殺、ゴム飛びガエルだ!」


陽太が、輪ゴムと厚紙で作った手作りのおもちゃを高く跳ねさせる。


それを見た結衣と莉子が「わぁっ!」と歓声を上げ、無邪気な笑い声を響かせた。


その屈託のない笑顔につられるように、険しい顔をしていた健吾や義男の目元も、わずかに和らぐ。


陽太がムードメーカーとして振る舞ってくれるおかげで、時折こぼれる他愛もない談笑が、バラバラになりかけた二十五人の心を辛うじて繋ぎ止めていた。


【同日 11:30】


その時だった。


「おーい! 約束通り、持ってきたぞ!」


目張りされた窓の向こう、黒い雪が降りしきる外の世界から、野太い叫び声が響き渡たり、リビングの空気が一瞬にして凍りつく。


湊は弾かれたように立ち上がり、誠、健一、駿たちと顔を見合わせた。


「……行きます。防護服の準備を」


玄関の土間で厳重にレインコートとマスク、ゴーグルを身に纏い、武器を手にした湊たちは、重い扉をゆっくりと開けた。


外は、相変わらず薄暗く、鉛色の空から汚染された黒い雪が舞い落ちていた。


その泥濘の中に、二つの影が立っていた。


斉藤剛と、木村昭夫だ。


「……待ってたぞ」


湊が低い声で応じると、斉藤は重みのある袋を両手で掲げた。


「塩だ。あちこちの家を探し回って、なんとか五キロかき集めた。……これであんたとの約束は果たしたぞ」


ゴーグル越しの視界で、湊は二人の姿を注意深く観察した。


そして、息を呑んだ。


五日前に会った時よりも、二人は明らかに衰弱しており、露出している首筋や手首の皮膚には、赤黒いただれや水ぶくれのような発疹が浮いている。


会話の合間にも、内臓の奥から絞り出すような乾いた咳を繰り返していた。


(……相当量、被曝している)


一目で分かった。


彼らは黒い雨が降る中、あるいは汚染された泥濘の中を、まともな防護装備もないまま彷徨い歩いていたのだ。


急性放射線障害の初期症状。


このままいけば、そう遠くない未来に彼らの命は尽きるだろう。


「ゲホッ……本当に、あの米で助かった……俺たち、生きててよかった……」


木村が、泣き笑いのような表情で呟いた。


彼らの瞳に宿っているのは、略奪者の凶悪さではなく、ただ生きることに必死な、泥臭い人間の哀れさと誠実さだった。


(この人たちは、悪人じゃない)


汚染物質に蝕まれ、ボロ雑巾のようになっていく二人を見つめながら、湊の胸の奥に冷たい痛みが走った。


もし彼らを家の中に入れて、温かいお湯で身体を洗い流し、清潔な布団で休ませてやることができたら。


そんな甘い考えが頭を過ぎるが、背後の扉の向こうには、自分が守ると誓った二十五人の命がある。


彼らを中に入れれば、この「城」の清潔な水も、限られた抗生物質も、底をつくかもしれない。


何より、外部からの放射能汚染を居住区に持ち込むことなど絶対に許されない。


(俺は……この人たちを見殺しにするしかないんだ)


突きつけられた残酷な現実に、葛藤とも言えない憂鬱な、真っ黒な感情が湊の心を覆い尽くしていく。


助けられない。


ただ、利用するだけだ。


湊は自分の心を無理やり凍らせ、感情の無い声を出した。


「約束を守ってくれたことには、感謝する。……外の様子はどうだった?」


その問いに、斉藤と木村は怯えたように身を寄せ合った。


「……地獄だよ。街のスーパーもホームセンターも、暴徒が火を放って焼け野原だ。食い物なんてどこにもねぇ」


「俺たち、仲間にも見捨てられて……凍死した死体を漁る野犬の鳴き声を聞きながら、一つの毛布に包まって死を待ってたんだ。でも、あんたがくれたあの米があったから……」


斉藤の言葉は、凄惨な外の世界の現実を物語っていた。


そして、木村が周囲を警戒するように声を潜めた。


「あんたたちも気をつけろ。街を焼き尽くした武装集団が、今度は食料を求めて山間部の集落に狙いを変えようとしてるって噂を聞いた。……かなりヤバい連中だ」


その情報に、背後に立つ誠や駿たちの顔色が変わった。


これは、塩以上に価値のある「致命的な情報」だった。


湊は小さく頷くと、車庫から持ち出していた袋を二人の前に差し出した。


「約束の、玄米十キロだ。……持って行け」


「ほ、本当にいいのか!? こんなに……!」


「先に渡した十キロは、約束を守ってくれた礼だ。だが、今後の取引は『米2に対して、塩1』の比率で行う。……ただし、今みたいな『有益な情報』を持ってきた場合は、米を弾む。不満はあるか?」


冷徹な取引の条件。


だが、斉藤と木村にとっては、それは生きるための明確な「希望」だった。


「不満なんてあるわけねぇ! ありがてえ……本当にありがてえ!」


奪い合いと殺戮だけが支配する外の世界で、佐伯家との取引は、彼らににとって唯一残された「正当な秩序」だった。


人間としての矜持を取り戻した二人は、雪の上に這いつくばるようにして深く頭を下げると、米袋を抱えて足早に山を下っていった。


そのやせ細った背中が見えなくなるまで、湊はじっと見送っていた。


彼らが次にここへ来る時、果たして生きているのだろうか。


ゴーグルの奥で、湊の瞳だけが悲しげに揺れていた。


【同日 12:30】


厳重な除染を終えてリビングに戻った湊は、テーブルの中央にドンと袋を置いた。


「塩、五キロです。包装は破れていないから汚染の心配はないと思います」


その確かな重みと存在感に、リビングの大人たちは息を呑んだ。


湊は続けて、斉藤たちから得た「武装集団の山間部接近」という情報を共有した。


「十トンある米は、いずれ消費しきれずに傷む可能性があります。しかし、この塩は永久に保存でき、俺たちの生命維持に不可欠です。そして何より、彼らを外に放っていたからこそ、俺たちは武装集団が来る前に警戒レベルを引き上げることができる」


湊の静かな、だが理路整然とした説明に、健吾や義男はもはや反論できなかった。


目の前にある五キロの塩。


そして、命を救う事前情報。


結果として、湊の独断による「投資」は、これ以上ないほどの利益を共同体にもたらしたのだ。


「……恐れ入ったよ、湊くん」


健吾が、バツの悪そうに、だが確かな敬意を込めて頭を下げた。


「君の言う通りだった。俺の目が曇っていたよ」


義男も深く頷く。


目の前の「確実な成果」を前に、湊に対する不信感は完全に払拭された。


十五歳の少年が、真の意味で二十五人の命を導くリーダーとして確立した瞬間だった。


【2040年 7月5日 23:00】


翌日の深夜。


リビングで交代の見張りに立っていた湊は、目張りされた窓の、ほんのわずかな隙間から外を覗き込んでいた。


「……白い」


思わず、独り言が漏れるほど、外の景色が一変していた。


あんなに忌まわしかった黒い雪の上に、新しく真っ白な雪が降り積もり始めている。


汚染された世界が、白いベールによって静かに浄化されていくような、残酷なほど美しい錯覚。


だが、それは同時に、本格的な「核の冬」の極寒の始まりを意味していた。


ストーブを焚いている室内でさえ、急激な気温低下によって吐く息が白く染まっている。


防寒着を重ね着していても、身体の芯から冷え切っていくようだった。


ブルッと身震いした湊の肩に、突然、ふわりと温かいものが掛けられた。


「……北条?」


振り返ると、栞が自分の使っていた厚手の毛布を半分、湊の肩に掛けて寄り添うように立っていた。


「見張り、お疲れ様。……寒いでしょ」


「お前こそ、ちゃんと寝てないと風邪引くぞ」


「湊くんが起きてるから……少しだけ」


栞はそう言って、湊の隣で同じように窓の隙間から白い雪を見つめた。


「綺麗な雪……。でも、すごく冷たいね」


「ああ。ここからが本当の地獄かもしれない」


武装集団の脅威、そして凍てつくような核の冬、彼らを待ち受ける試練は、まだ始まったばかりだ。


犠牲にしなければならない命も、切り捨てなければならない感情も、これからもっと増えていくのだろう。


リーダーとしての重圧と孤独に押し潰されそうになる湊の肩に、栞が自分の肩をそっと預けた。


「大丈夫だよ、湊くん」


毛布越しに伝わってくる、同い年の少女の確かな体温。


「一緒に、生き抜こうね」


その小さな、だが力強い言葉が、凍りついていた湊の心を、嘘のように温かく溶かしていった。

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