第7話:見えざる隣人と沈黙の取引
【2040年 6月29日 06:30】
大人たちが薪ストーブに火を入れるかすかな音と、パチパチと爆ぜる微かな温もりで、湊は目を覚ました。
目張りされた窓のせいで外の光は一切入ってこないが、時計の針は朝を告げている。
和室には二十五人分の体温とストーブの熱がこもり、外の凍てつくような極寒とは対照的な、柔らかい温もりが保たれていた。
湊は音を立てずに寝袋から抜け出すと、防衛班のメンバーと共に屋内の巡回を始めた。
車庫の奥にある井戸ポンプの作動音、窓の目張りに隙間がないか、備蓄庫の鍵に異常はないか。
一つ一つを指差し確認し、完璧に密閉された「城」の安全を確かめていく。
「異常なしだ。今日もなんとか、無事に朝を迎えられたな」
同行していた健一が、眼鏡の奥の目を少しだけ細めて安堵の息を吐いた。
【同日 07:30】
全員揃っての朝食は、大きな鍋で作られた薄い粥と、備蓄されていた梅干しだった。
質素な食事と、外の世界への不安からか、リビングには重苦しい沈黙が落ちていた。
その空気を察したのか、小林陽太が不意に明るい声を上げた。
「あんな、昨日きよばあちゃんに『あやとり』教えてもらったんだよ!」
陽太は妹の結衣を笑わせようと、手元にある毛糸の切れ端を指に絡め始めた。
「こうやって、ここを引っ張って……あれ? こうだっけ?……あちゃー、全部絡まっちゃったぞ!」
自信満々に披露しようとしたあやとりが、ただの毛糸の玉になってしまったのを見て、結衣がくすくすと笑い声を上げた。
「お兄ちゃん、へたくそなの」
「うるさいな! 次は絶対うまくやるんだぞ!」
陽太の照れ隠しのような大声に、張り詰めていた大人たちの顔からも、自然と笑みがこぼれた。
過酷な現実の中で、子供たちの無邪気な姿は、彼らが人間性を保つための何よりの薬だった。
リビングに、久々の温かい笑い声が響き渡った。
【同日 11:45】
しかし、その束の間の安らぎは、昼前に唐突に破られた。
二階の窓から外を監視していた誠と蓮が、血相を変えて階段を駆け下りてきたのだ。
「湊くん! 外に人の気配がする。二人組だ!」
誠の報告に、リビングの空気が一瞬にして凍りついた。
湊はすぐさまバットを掴み、二階の監視窓へと駆け上がった。
段ボールの目張りのわずかな隙間から外を覗き込む。
外は、降りしきる「黒い雪」によって泥濘み、一面が汚悪な灰黒色に染まっていた。
その泥濘の中を、長靴を履き、顔を厚い布で覆った見知らぬ男が二人、佐伯家の納屋を物色するように歩き回っていた。
(……知人なら助けたい。でも、もし以前の暴漢の仲間だったら?)
湊の脳裏で、冷徹なリスク分析が始まる。
彼らが暴漢であれば、この拠点の存在や、物資が豊富にあることを悟られるわけにはいかない。
かといって、外で戦闘になれば、黒い雪による重篤な皮膚汚染のリスクがある。
万が一、彼らに気付かれて屋内に踏み込まれでもすれば、家全体が放射性物質で汚染され、二十五人の命が危険に晒される。
「……対応に悩んでいる間に、突破されるかもしれない」
湊は決断した。
「突入される前に、こちらから制圧します。防護を固めて外に出る」
【同日 12:00】
玄関の土間で、男たちは急ピッチで防護装備を整えていた。
全身をレインコートで覆い、手袋と長靴の隙間をガムテープで何重にも密閉する。
顔にはゴーグルと分厚いマスクを装着し、肌の露出を完全にゼロにした。
「相手に気付かれる前に制圧する。三人と三人の二手に分かれます」
湊の低い声に、男たちが頷く。
A班は駿、健一、義男の三人。裏口から回り込み、背後を取る。
B班は湊、誠、蓮の三人。正面から牽制し、退路を断つ。
「行くぞ」
重い扉が静かに開かれ、六人の男たちが黒い雪の降る外の世界へと足を踏み出した。
雪は音もなく降り積もり、足音を完全に消し去ってくれる。
納屋の周囲を物色していた二人組は、背後から迫る影に全く気付いていなかった。
「……今だ!」
無線代わりのハンドサインを受け、A班の駿が雪を蹴って飛び出した。
「なっ……!?」
驚く間もなく、駿は鮮やかな動きで一人の男の背後に回り込み、強力な羽交い締めで動きを封じた。
「ヒィッ!?」
もう一人の男がパニックを起こし、手に持っていたバールを振り上げようとする。
しかし、その両腕を、正面から飛び出した誠と湊が瞬時に押さえ込み、そのまま雪の上に膝をつかせた。
一瞬の出来事だった。
湊は、地面スレスレで男たちを拘束しつつ、冷徹な声で宣告した。
「動くな。抵抗すれば、その黒い雪の中に顔から叩き伏せる。皮膚が焼けただれてもいいのか?」
その言葉に含まれた絶対的な脅しに、二人の男は完全に戦意を喪失し、ガタガタと震え始めた。
「た、助けてくれ! 殺さないでくれ!」
【同日 12:10】
湊は、男たちを完全に雪の地面に触れさせないよう、ギリギリの体勢で拘束したまま尋問を始めた。
「まだ敵対しているわけではない。だが、嘘はつくな。仲間の数、拠点の場所、知っている情報をすべて話せ」
十五歳の少年の声とは思えない、凄みのある低い声だった。
「ほ、本当だ! 仲間なんていない、俺たち二人きりなんだ!」
小柄だが肩幅の広い男が、必死に首を振って訴える。
「街のスーパーが暴動で潰れて、食料を探してここまで逃げてきただけなんだ! 強盗なんて大層な真似はしていない!」
「名前は? 偽名を使ったらその場で潰す」
「さ、斉藤剛だ! 三十八歳、土建屋だ!」
「俺は木村昭夫! 四十五だ……頼む、信じてくれ!」
木村と名乗った痩せ型の男も、泣きそうな声で同調した。
以前襲ってきた暴漢とは明らかに別人で、その目には純粋な飢えと恐怖しかなかった。
だが、この狂った世界で、見ず知らずの人間を簡単に信用するわけにはいかない。
湊は数秒の沈黙の後、拘束を少しだけ緩め、彼らに「取引」を持ちかけた。
「……あんたたちが持っている『塩』と、うちの『玄米』を交換しよう」
「え……?」
「今は米を十キロ、先払いで渡す。次は塩を持ってこい」
突然の提案に、男たちは呆然とした。
湊の脳内には、緻密な計算があった。
塩や味噌などの調味料は、いずれ米以上の希少価値を持つようになる。
そして何より、彼らを「敵」として排除するのではなく「取引相手」として生かしておくことで、外の世界の情報を運んでくる「偵察員」として利用できると考えたのだ。
「こ、こんな雪の中で、玄米をくれるのか……?」
「ああ。だが、次に来る時は必ず塩を持ってこい。裏切れば、容赦はしない」
斉藤と木村は、黒い雪に組み伏せられずに済んだ配慮と、命を繋ぐ貴重な米を受け取ったことに深く感謝した。
「な、名前は嘘じゃない! 次は必ず塩を持ってくる! 本当に、本当にありがとう!」
二人は何度も頭を下げながら、米の入った袋を大事そうに抱え、逃げるように雪の中へと消えていった。
【同日 12:30】
厳重な除染手順を踏んで屋内に戻った湊たちを待っていたのは、リビングに集まった大人たちの張り詰めた視線だった。
二階の窓から一部始終を見ていた彼らの間には、すでに激しい議論の火種が燻っていた。
「湊くん、なぜあんな奴らに貴重な米を渡したんだ! 彼らが仲間を連れて戻ってきたらどうするつもりだ!」
健吾が、恐怖と怒りの混じった声で詰め寄る。
「いや、私は塩の確保を考えたのは英断だと思う。彼らを生かしておけば、外の情報も手に入る」
健一が冷静に湊を擁護するが、健吾の不安は収まらない。
「名前だって嘘かもしれないじゃないか! もし大勢で襲撃されたら、子供たちはどうなるんだ!」
大人たちの間で、賛否両論の怒号が飛び交い始める。
湊は濡れた髪をタオルで拭きながら、その場の中央に立ち、沈黙したまま皆の意見を浴びていた。
正しい判断だったのか、それとも拠点を危険に晒す致命的なミスだったのか。
リーダーという立場の重圧が、十五歳の少年の肩に重く、冷たくのしかかっていた。




