第6話:凍える「城」の評定
【2040年 6月28日 16:00】
黒い雨が降りしきる中、佐伯家の居住区では「核の冬」を乗り切るための防寒・断熱作業が急ピッチで進められていた。
湊の祖父が豪雪と孤立を想定して設計したこの佐伯家は、母屋から倉庫、そして車庫までがすべて屋根と頑丈な壁で繋がっている。
車庫の奥の凍結しない区画に設置された井戸ポンプは、電動だが停電時でも手押しに切り替えが可能だ。
地下深くの水脈から外気を吸い込まずに汲み上げられるため、放射性物質の影響を最小限に抑えられる。
この「屋内完結型」のシステムこそが、今の彼らにとって最大の生命線だった。
「リビングとキッチン、それに地続きの和室。ここを我々の絶対防衛線……いや、メインの居住区とする」
健一が指示を出しながら、廊下へと続く扉の隙間を古布とガムテープで徹底的に目張りしていく。
窓には、車庫から運び込んだスタイロフォームと段ボールが二重に貼り付けられ、外の光を完全に遮断していく。
二十五人分の体温を逃がさず、限られた燃料で暖を維持するための処置だ。
【同日 18:00】
断熱作業が一段落すると、リビングに二十五名の生存者全員が集められた。
重苦しい沈黙の中、ランタンの薄明かりに照らされた大人たちの顔には、疲労と不安が濃く影を落としている。
湊は皆を見回し、静かに口を開いた。
「これからの生活について、話し合いたいと思います。人数が増えた以上、今までのように行き当たりばったりでは限界が来ます。不安なこと、決めておくべきことを、遠慮なく出してください」
その言葉を皮切りに、極限状態ならではの生々しい懸念が次々と噴出し始めた。
最初に声を上げたのは、芳江だった。
「湊くん、着替えはどうするの? さすがに男の人たちと同じ部屋じゃ、下着一枚変えられないわ。せめて目隠しのカーテンか、女性専用の着替え部屋を作ってくれないかしら」
「同感です」
祥子が頷く。
「それに、陽太や結衣、莉子ちゃんが怖がっています。大人たちが『放射能』だの『全滅』だの言うのを、あの子たちの前では控えてもらえませんか」
その意見に対し、凛が冷静に、しかし冷徹な事実を突きつける。
「お気持ちはわかりますが、今は『熱』の効率が最優先です。個室を作ったり一人で寝たりするのは自殺行為よ。基本は全員で雑魚寝をして、家族ごとに塊を作って体温を保つしかないわ」
「だったら、俺たち新参者はどこに寝ればいい?」
義男が少し苛立ったように身を乗り出した。
「佐伯家を借りている身で文句は言えねぇが、隅っこで肩身の狭い思いをするのは御免だ。場所は不公平がないようにきっちり割り振ってくれ」
「それなら規律が必要ですね」
健一が眼鏡を押し上げながら割って入った。
「夜間の私語禁止時間や、共有スペースの使い方のルールを今すぐ決めるべきです」
議論は居住環境から、より深刻な衛生と健康の問題へと移っていく。
「ワシが一番心配なのは、トイレじゃ」
徳治が重々しい声で切り出した。
「二十五人が一度に使えば、浄化槽はすぐにパンクするぞ。それに、井戸水は流すためじゃなく、飲むためにあるんじゃ。外の黒い雨で水洗システムが完全に死ぬ前に、簡易トイレの運用へ移行すべきじゃろう」
「衛生面で言うなら、達也さんの傷も心配です……」
真由美が、奥の和室で眠る夫を不安げに見つめた。
「傷口が化膿したらどうすればいいのか……。抗生物質や消毒液の在庫は足りているんでしょうか」
「感染症も怖いわね」
蓮がスマートフォンの真っ暗な画面を見つめたまま呟く。
「誰か一人が風邪を引いたら、この密閉空間じゃ一瞬で全滅っすよ。マスクの着用義務化と、体調不良者の隔離スペースをどうするか、先に決めておかないと」
恵も深刻な顔で頷く。
「お風呂は諦めるとしても、せめて数日に一度は体を拭きたいわ。でも、二十五人分のタオルをどこで洗って、どこで乾かすの? 室内干しばかりじゃ、あっという間にカビだらけになっちゃうわよ」
そして、生き残るための最も現実的な問題――食糧と燃料の「不公平感」に議論が及んだ。
「米が十トンあると言っても、おかずがなきゃ喉を通らんぞ」
鉄造が腕を組んで凄んだ。
「今日持ってきた缶詰は、誰がどう管理するんだ? 勝手に食う奴が出ない保証はあるのか?」
「……一日三食は無理だな」
誠が苦渋の表情で提案する。
「二食……いや、動かない人間は一食でもいいかもしれない。不公平だと不満が出るかもしれないが、薪割りや見張りをする人間に多く配分しないと、肉体労働をする者の体力が持たないぞ」
「塩だけは大事にしなさいな」
きよが、しわがれた声で嗜めるように言った。
「塩分が切れたら人間は動けなくなる。漬物や味噌を誰がどう配分するか、責任者をしっかり決めなさい」
駿が周囲を見回し、現実的な計算を口にする。
「薪ストーブは二十四時間焚きっぱなしにするのか? 薪の消費量を計算しないと、冬を越す前に燃料が切れるぞ。交代で火の番をするシフトも必要だ」
「あの……」
祥子が遠慮がちに手を挙げた。
「子供たちの分は、少しだけ柔らかいものや、甘いものを残しておいてあげられませんか? ああいうのが無いと、あの子たちの心が折れてしまいます」
親としての切実な願い、若者の合理的な意見、そして老人たちの経験則。
それらが複雑に絡み合い、リビングには険悪な空気が漂い始めていた。
さらに、防衛面での懸念がそれに拍車をかける。
「ワシは、あの逃げた暴漢のことが気になって仕方がない」
徳治が木刀の柄を撫でながら低い声で言った。
「黒い雨の中でも動く狂人がおらんとは限らん。玄関と車庫の入り口には、常に二人一組で武器を持って立つ必要があるじゃろう」
「窓の目張りは、熱を逃がさないためだけではありません」
健一が同意する。
「夜間に家から光が漏れれば、我々は絶好の標的になる。光の管理は絶対です」
二時間近くに及んだ話し合いは、明確な答えが出ないまま平行線を辿り、人々の顔には疲労と苛立ちが滲み始めていた。
【同日 20:00】
「……皆さん、静かに」
今まで意見を聞く側に徹していた湊が、静かだがよく通る声でその場を制した。
湊はテーブルの上に、佐伯家の見取り図と、大きなスケッチブックを広げた。
「皆さんの不安や意見は、すべて尤もです。だからこそ、今ここで完全に役割とルールを決めます。今日から、ここをただの『避難所』ではなく、生き残るための『砦』と考えます」
十五歳の少年の口から出た『砦』という言葉の重みに、大人たちは息を呑んだ。
「まず、プライバシーは最低限のルールで守りますが、我儘は聞きません。和室の奥を女性の着替えと体調不良者の隔離スペースとしてカーテンで仕切ります。寝る場所は家族ごとに固まり、新参者も古株も関係ありません。くじ引きで場所を決め、一週間ごとにローテーションします」
湊はスケッチブックにペンを走らせながら、断固とした口調で裁定を下していく。
「食事は一日二食。朝は温かいお粥、夜は汁物と少量の米。肉体労働の度合いによって配分は変えますが、子供たちには優先的に栄養を回します。……そして、役割を三つの班に完全分担します」
湊の目が、大人たち一人一人を真っ直ぐに射抜く。
「恵さん、芳江さん、よしさん、由美子さん。あなたたちは『管理班』です。食糧の在庫管理、調理、配給をお願いします。責任者は、一番知恵のあるきよさんにお願いします」
きよが、深く頷いた。
「誠さん、徳治さん、健一さん、鉄造さん、義男さん、健吾さん、駿先輩、蓮先輩。俺を含めた男たちは『防衛・工作班』です。見張り、薪割り、設備の補修、簡易トイレの運用を交代制で行います。責任者は、俺がやります」
男たちは、湊の覚悟に満ちた眼差しに、ただ黙って首を縦に振った。
「真由美さん、祥子さん、北条。あなたたちは『衛生・看護班』です。達也さんの介護、子供たちのケア、タオルの煮沸消毒や衛生管理をお願いします。……凛さん、医学や科学の知識が必要になります。責任者をお願いできますか」
「……ええ、任せてちょうだい」
凛が、凛々しい表情で応えた。
湊はスケッチブックを閉じ、全員の顔をもう一度見回した。
「全員が役割を果たさなければ、この中の誰かが死ぬことになります。俺たちの命は、もう一つに繋がっているんです。生きるために、力を貸してください」
誰も文句を言う者はいなかった。
不満や不安がないわけではない。だが、極限状態において、自ら責任を被り、泥をかぶる覚悟を決めたこの若いリーダーの「鉄の規律」に、大人たちは不思議なほどの安堵を覚えていた。
【2040年 6月29日 01:00】
深夜。
話し合いを終え、ルールに従って割り振られた和室のスペースで、人々は家族ごとに固まって深い眠りについていた。
冷え込みが厳しくなったキッチンでは、ランタンの灯りを極限まで絞り、湊、凛、駿の三人だけが起きていた。
三人はテーブルを囲み、電卓とノートを使って、今後の薪の消費量と食糧の月単位の計画を必死に計算していた。
「……計算上は、今の備蓄で半年は持つ。だが、問題は冬がいつ終わるかだ」
駿がペンを置き、険しい顔で呟く。
「終わらないかもしれないわね。何年も続く可能性がある」
凛がノートを見つめながら、絶望的な予測を口にした。
湊は無言のまま立ち上がり、目張りされた窓のわずかな隙間から外を覗き込んだ。
「……雪だ」
湊の呟きに、二人が顔を上げる。
六月の終わりだというのに、外ではいつの間にか黒い雨が、重く湿った「黒い雪」へと変わっていた。
季節外れの黒い雪が、世界を音もなく、ゆっくりと死の色に塗りつぶしていく。
湊は振り返り、キッチンの隅で毛布に包まりながら、自分を待つようにうとうとしている栞の姿を見た。
湊は自分が羽織っていた厚手の毛布を外し、栞の小さな背中にそっと掛けた。
「……絶対、守り抜く」
誰に聞かせるでもないその小さな誓いは、静まり返った砦の中で、確かに熱を帯びていた。




